「ずいぶんと久しぶりじゃないかい。ずいぶんと丸くなったもんじゃないかい」
懐くネコのように、もふもふの毛皮をアリスに摺り寄せる。その肌心地ときたら、ぞわぞわとした快感が上り詰めてくる。しかしチェシャネコが体を押し付けてくるものだからカタ、コトとアリスの体がバランスを崩して右へ左へ揺れる。
「ぁ……、ゃ……」
テーブルの上、コトコト不安定なアリス。すぐ目の前、見下ろせる床までは今のアリスの背丈よりもずっと高い。落ちたら割れて粉々になって二度と元には戻らないだろう。
それでも構わず、チェシャネコは擦り寄る。その馴れ馴れしさに、アリスは何処か怖いという感情を抱いた。
アリスはチェシャネコを嫌いと思ったことはない。
いつの間にかそこにいて、いつもそこにいて、おかしなネコだとは思ったことがあった。でも、久しぶりに会った目の前のチェシャネコはおかしなことはおかしかったが、何故かアリスは凍るような気持ちだった。
それがどうしてかはアリスにはハッキリとは分からない。
ただ、今すぐにも何かを壊されてしまうような、不安だけがふくらまされる。
「ねえ、キミは誰だい?」
シャシャシャとチェシャネコが笑う。その三日月の笑顔ときたら、不気味としかいいようがなかった。
チェシャネコが何を考えているかなんていつだって分かったものじゃなかったけれど、今チェシャネコは何を言おうとしているのか分からないことが、アリスにとってとてつもなく得体が知れず怖かった。
「わたしは……」
女王様のハニーポット。女王様のためのハニーポット。そう答えようとしたアリスは言葉に詰まった。あたかも足し算と引き算を間違えたかのようにもう一度考え直して、違う答えを導き出して、そしてまた言葉に詰まる。
アリスがその答えを口にしていいものかと黙っていると、代わりにチェシャネコが口に出す。
「アリス。キミはアリスだ」
チェシャネコが答える。アリスがドキッと竦む。
「違う、わたしは……」
その答えは出してはいけないもの。だって、アリスはアリスではなくて、女王様のハニーポットなのだから。ハニーポットはアリスであってはいけない。
「わたしは、いないの」
「アリスはここにいるじゃないか」
「だって、わたしはひとりぼっちだから」
「アリスはひとりぼっちなんかじゃないよ」
「……わたしはハニーポットなの」
「アリスはアリスだよ」
何を言っても、シャシャシャと笑い、チェシャネコはアリスの言葉を引っくり返す。
それはアリスがずっと目を背けてきたこと。ひとりぼっちでさびしんぼのアリスなんて何処にもいなくて、ここにいるのはアリスではないハニーポット、そんなウソ。気付いていなかったわけじゃないし、最初から知っていた。けれどずっとそのウソを本当にしていた。
そう、アリスはアリスの思いついたウソをずっと本当のことにしていた。
だって、ここはアリスの夢の中なのだから。
朝早くにしか会えない母と父に笑顔振りまいていても、昼はずっとひとりぼっちアリスで、ずっとさびしんぼアリスで、お日様が山の向こうにいなくなって、お月様が出てきて、眠くなったらベッドで眠るだけ。そんな辛くて悲しくて寂しい時間、小さなアリスには耐えられない。
だからアリスは心の奥の扉を開けた。そこにはアリスの思い描く全部があるから。
辛いもない。悲しいもない。寂しいもない。アリスの嫌いなものを全部、全部消してしまえる。
アリスはアリスの嫌いなアリスを消してしまいたかった。だからアリスなんていない。甘くてとろける蜜を出すハニーポットになってしまいたかった。
でも、やっぱりそんなのは全部、ウソのこと。
「わたし、わたしは……わたし、は……」
アリスじゃない。アリスじゃない。アリスじゃない。
そんな言葉がぐるぐると渦を巻いて、口の先から出てこない。
自分が何を考えているのかさえも分からなくなってくる。
「疲れたなら、眠るといいよ」
「ぁ……っ」
その言葉をチェシャネコが呟こうとして、顔を青白くしたアリスが遮るように悲鳴のような悲痛の声をあげる。
「だッ、ダメ、言っちゃ、それはヤメェェ……っ!」
「おやすみ、アリス」
次の瞬間、不安定なテーブルの上から、まんまるのアリスは逆さまにころりと転げて、床にぶつかることもなく、ただただ底のない真っ暗な穴の中を落ち続けていた。
闇に飲まれていくアリスの視界は、あたかも氷が溶けていくようにとろけて掻き消え、世界の全てが見る見るうちに塗りつぶされていくように、消滅していった。
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※ ※
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アリスは目をぱちくりとさせ、寝ぼけたずぅんと重い頭をゆさぶるように、自分を確認する。
いつものパジャマ姿で、袖も通っている。腕はある。脚だってちゃんとくっついている。体だって真ん丸なんかじゃないし、つるつるとしていない。何処を触ったってふにふにと柔らかい。それは当然だ。
アリスは女王様の大きな鎌で手足を切り落とされたわけでもないし、瓶の中に詰め込まれてハニーポットにされてしまったなんてことも有り得ないことだ。あれは全部、アリスの見ていた夢の中の出来事。
がっかりなんて言葉で済ませられるほど、アリスは気丈じゃない。どうしてあの夢から覚めてしまったのかという失望があまりにも大きく、大事な大事なものを壊されてしまったようなもの。
ただ、アリスはもう一度寝てしまおうなんて思ってみても、なんとなくできなかった。
じっとりと汗が伝い落ちるくらいに嫌に火照り、興奮というよりも熱に浮かされるような不快感としか言いようのない浮遊感がアリスの睡魔を削ぐ。すっかり目も覚めてしまっていて、目を閉じて毛布を被り直しても目の奥に熱いものが渦巻いていて、寝付くなんてとてもできなかった。
バッと毛布を剥いで、ベッドの周囲を見回す。辺りはまだ暗く、目をこらしても部屋の様子が見てとれない。
ズキリと痛む頭を手で押さえ、アリスはのそのそとベッドから這うように降りる。どのくらい寝ていたのかは覚えていない。いつからが夢だったのかさえ思い出せないくらいに遠い記憶のようにさえ思えた。
ふと闇の中で、アリスが目をこする。
おかしい。そう思ったのは、すぐのこと。
いつまで経っても暗闇に目が慣れない。まとわりつくような闇がアリスの視界を奪って返さない。すぐそこにあるはずの壁が見えない。月明かりが照らしてくるはずの窓も見えない。それなのに、さっきまでアリスの寝ていたベッドだけは確かにアリスの目の前にあった。
じくりと胸を刺すような違和感がアリスの不安を引っ張りあげる。
ふらふらとベッドから離れるも、大きく一歩踏んでも、小刻みに二歩三歩進んでも壁にたどり着けない。前にも似たようなことがあったような気がする。アリスは水底から重い桶を掬い上げるように、ゆっくりと思い返す。まさか、そんな、と足がすくんでくる。
これは、もしや。アリスが気づいたそのときだ。
「眠ってしまえばいいのに」
ビクリとアリスの体がバッタのように一歩分、跳ねた。
それはアリスの真後ろ。シャシャシャと笑い声をあげるそれは、ベッドの上、アリスが枕だと思っていたものがあったその場所に寝そべっていた。いや、先ほどまで間違いなくソレは枕だったはずだった。しかし、何度アリスが見直してもそこには枕なんてなくて、代わりに三日月の笑みを覗かせていた。
不可解な光景を目の当たりにしてアリスは考えもしなかった。そんなこと、考えるまでもないからだ。