※この作品はR-18です。

アリスは夢の中で眠る   作:松本まつすけ

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アリスは夢の中で眠る(後編・上)

 まだ、アリスは夢から覚めていなかった。

 

 先が何も見えない暗闇の中、ハッキリと見えるベッドとチェシャネコ。それが本当に夢なのか、本当は現実なのか。今のアリスには曖昧で、その境目すらハッキリとしないが、ただこれが夢であるという確信だけはあった。

 

「ねえ、疲れたんだろ?」

 

 ベッドの上のチェシャネコが背筋を伸ばす。

 

 確証はない確信。アリスは今、目を覚まそうとしている。その境界線にいる。あまりにも深い眠りだったからすぐに覚めることはなかったけれど、さっきのチェシャネコの言葉でアリスは自分がアリスだという現実を突きつけられ、少しだけ、ほんの少しだけ夢から抜け出せたのだろう。

 

「分かっているんだろう、アリス」

 

 分からないはずがない。いくらアリスだって、好きな味に変わっていく不思議な薬や二本足で走る紳士のシロウサギ、牛にされるお茶会や生クリームを絞る少年、そしてハニーポットになった自分の全部が全部、現実だなんて信じていない。信じようとしなかっただけ。全て夢の中のお話。

 

「こっちが……、こっちがいいの……」

 

 涙を飲み込むようなくしゃ声で、アリスは駄々をこねた。

 

 だって、現実のアリスは辛くて悲しくて寂しくて、何もない。

 

 このベッド以外に何もない真っ暗な世界はアリスの心を映した世界。どこまで歩いていってもその先にあるものは何真っ暗な暗闇だけ。孤独の世界。

 

「アリス」

 

 チェシャネコが優しい口調で、アリスににじり寄る。

 

「アリスは夢の中で眠るのかい?」

 

 そんなこと、無理に決まってる。そんなのは小さいアリスだって分かること。

 

 どんなに辛くて、どんなに悲しくて、どんなに寂しくても、夢の中にいれば忘れてしまえるけれど、それは目を覚ますまでのほんのささやかな時間でしかない。ずっとずっと夢の中で眠っていられるわけがない。いつかは目を覚まさなければならない。

 

 足元へ足元へとにじり寄るチェシャネコが、アリスの心をまどわす。前に進むべきか、後ろに下がるべきか、そもそもどちらが右で左なのか。今、チェシャネコはアリスの足元にいるのか、それとも頭上にいるのか。シャシャシャ。シャシャシャ。

 

 分かっている。チェシャネコはアリスをまどわそうとしているんじゃない。迷っているのはアリス自身。

 

 チェシャネコは全部分かっている。全部見ている。チェシャネコは迷っているアリスの心を映しているだけ。だからそう、いつだってチェシャネコはアリスを導いてはくれない。だけれど、アリスにとって都合のいい方へと誘惑してくる。それはアリスがそう望んでいるから。

 

 でももうそんな甘い甘い夢の世界は終わり。いつまでも夢を見てなどいられないのだから。

 

「ねえ、アリス」

 

 シャシャシャとチェシャネコがアリスの顔を覗き込んでは三日月のような笑みを見せる。

 

「い、いやぁぁっ」

 

 それでもアリスは、振り払うように、何処とも分からない方角へと走りだす。真っ暗な暗闇の世界、何もない世界をアリスは駆け抜けていく。

 

 深い深い闇の中。どこまでも走っていっても真っ暗の世界。それでも、アリスは逃げるように逃げるように、振り向くこともなく、真っ黒で真っ暗を走り抜ける。

 

 トン。

 

 するとすぐその先、それはいつの間にあったのか、アリスの目の前に巨大なドアが現れていた。

 

 それが何なのか、考えることもできないアリスは、振り払うように、逃げるようにそのドアを開ける。次の瞬間、太陽のように眩い光が、ドアの先から漏れてくる。ドアの向こう側の光景。それは、アリスがよく知っている光景。

 

 毎日毎朝、アリスが目にしているテーブルに、パンやチーズのしまってある棚、お皿がキレイにしまってある棚、それを洗う水場。ここはアリスの家のキッチンだった。見回しても見覚えのある、記憶にある光景がそのままに広がっていた。

 

 当たり前の光景。ただ、それがアリスには得体の知れない異様な雰囲気を感じていた。この目の前の光景は現実のものではない。しかし、現実のものだった光景。そして、この後に起こることをアリスは確かに知っていて、覚えていた。

 

 まるでトンカチで頭の後ろの方を思いっきりぶたれたかのように、アリスの記憶がポンと頭の奥の方から飛び出してきて、蘇ってくる。そうだ、これはアリスの現実にあった出来事。

 

 いつかの夜、寝苦しかったあの夜の日のこと。アリスは水を飲もうとベッドから抜け出して、キッチンへと降りてきた。するとそこにはそう、夜だというのにこんな風に明かりの灯ったキッチンの光景があった。

 

 最初アリスは親が帰ってきていたのかと思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。何故って、キッチンの隅にいたその大きな影は父のものでもなければ母のものでもないと分かったから。それは今になってもよくは分からない。おそらくアリスの家に忍び込んだ泥棒だったのだろう。

 

 棚から食べ物を探ってはムシャムシャとほおばっていたから。

 

 よほど腹をすかせていたのか、テーブルの上は食べ物で溢れかえるほど。イチジクのジャムは皿にぶちまけられて、マーマレードもグチャグチャにされ、メープルシロップの瓶など床に落っこちてしまっていた。甘い香りや酸っぱい香り、上品な香りが混ざりに混ざってアリスの鼻を刺激する。

 

 アリスは戸惑う。どうしたらいいのだろうか。相手は何者か分からない。怖い。逃げた方がいいのかもしれない。

 

 しかし、アリスが気づいたということは向こうも同じこと。キッチンに現れたアリスも向こうに気づかれていた。ギロリとおぞましい血走った眼がアリスの心を刺す。

 

 向こうは何も言わない。アリスも何も言えない。後ずさりしたくても、一歩でも動いたら何をされるか分からない。アリスの両足が凍り付いてしまったかのように動かせなくなっていた。

 

 それは一瞬のこと。泥棒が、咄嗟に瓶を投げつけてきた。

 

 その瓶は、ジャムでもシロップでもない。いつだったか、医者がこの家を訪れた時に置いていった麻酔の瓶。泥棒は分かっていて投げたのか、それともたまたまジャムの瓶に紛れていたソレを掴んでしまっただけなのか。何にしても、放物線を描く麻酔の瓶は蓋を置き去りにして、アリスに直撃する。

 

 バシャアッ。それは頭から直に浴びせられる。それは痛み止めなどという量ではない。少量でも効きの強いその麻酔を顔いっぱいに浴びてしまったアリスは、その時こそぼんやりと立っていたが、すぐに手や足が痺れていくのを感じ、床に落ちて、どうしようもないくらいの眠気に襲われていった。

 

 泥棒が目の前にいるのに、抵抗どころか身動きも取れない。ただただ身体中がだるくて眠ってしまいたい気分でいっぱいだった。アリスのまぶたが次第に重くなっていき、もう完全に瞑ろうとした時、アリスの目に映ったのは、アリスににじり寄る気持ち悪いくらいに不適な笑みを浮かべた泥棒と、どういうわけか泥棒の足と足の付け根から露出された、おちんちんだった。

 

 そうして、目を瞑ったとき、アリスの目の前に広がるのはキッチンではなく、暗闇の世界。

 

 今の出来事が一体なんだったのか、ハッキリとはアリスに理解できなかったが、記憶の中にしっかりと刻まれていた。キッチンに知らない人がいて、怖い目で睨まれて、突然眠くなってしまった、この事実。残っているのは、怖いという感情と甘い香りと、そして心地よいくらいにふわふわとした眠気。

 

 アリスの記憶はそれまで。アリスが覚えているのはそれまで。そこから先をアリスは知らないし、覚えてなどいない。だって、アリスは眠ってしまったから。でもその続きを、知らないはずで覚えていないはずの、その記憶をアリスはアリスは確かに経験していた。

 

 何も見えないはずの世界で、身体中をまさぐられるようなくすぐったく、むずがゆいような感覚。誰かに人形のように持ち上げられたような浮遊感。全部が全部、もやもやのふにゃふにゃで、夢と現が混ざり合ってアリスにはソレが一体なんなのか分からない。

 

 そのときに何があったなんて分かるはずもない。眠ってしまったアリスに、眠りから覚めないアリスに分かることは、ただ夢見心地で心地よく気持ちよいということ。そしてそれと同時に、心のどこかに黒くて暗くて気持ちの悪い何かが染みのようにアリスの中に残っていた。

 

 でもやっぱり、アリスにはソレが何なのか分からない。

 

 あのとき、泥棒はアリスに何をしたのか。してはいけないことをしていたのか。怒られてしまうことをしてしまったのではないか。そうやって、物凄く気持ちよくて、黒くて暗くて気持ちの悪いソレは隠されるように、アリスの中に飲み込まれて染み込んで、消えていったのだ。

 

 アリスは覚えてもいないし、知りもしないつもりでも、ソレは確かにアリスの何処か深いところに染み込んでいた。

 

 夢なんかではない、確かなアリスの現実。

 アリスにとっての何か。アリスにとって思い出しちゃいけないこと。

 

 ※ ※ ※

 

 カン、カン。

 

 乾いた打音が、闇に溶けたアリスの視界を晴らす。

 

「これより、裁判を始める」

 

 カン、カン。

 

 いつの間に裁判所に来ていたのか、なんてもう考えなくてもいいだろう。夢なのだから。

 

 目の前に広がるのは、キッチンの光景でもないし、アリスの部屋でもなく、ましてや女王様の部屋ですらない。アリスの記憶の中にあるその場所は間違いでなければ裁判を行うアリスにとって一番重苦しい場所。アリスは、裁判所のホールの真ん中に立っていた。今まさに裁判が始まるところだ。

 

「被告人、アリスは前へ」

 

 何を言われるまでもなく、既にアリスは被告人の席についていた。正面の裁判官の席に座っているのは見たこともない人だ。男なのか、女なのか、大人なのか、子供なのか。こんなにも近くにいるのに、霞が掛かっているかのように、アリスにはその人が何者なのか、分からなかった。

 

 分かることは、そう、アリスにとってこの場でいいことが起きないということ。アリスにとって裁判はそういう場所だから。

 

 カン、カン。

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