――ジークムント・フロイト
小さな扉と大きな鍵(前編)
扉の向こうは暗闇ではなかった。そこはアリスの部屋よりも広いけれど、小さくて丸いキレイなホール。ダンスを踊るにはちょうどいいくらいの広さで、舞踏会を開くには狭すぎるくらいの広さ。
でも、アリスの家にはこんなダンスホールなんてなかったはずだ。そんなものがあったら毎日ダンスパーティが開けてしまって夜も眠れなくなる。
ピカピカに磨かれたような美しい床に、壁を彩るように装飾された一面のカーテン。ホールの中央には小さくておしゃれなテーブル、天井にはシャンデリアまである。けして貧しくはないアリスの家だけれど、こんなに贅沢な部屋をこしらえるほど裕福でもない。
不思議に思うも、アリスは自分が何しに来たのかを思い出す。そうだ、水が飲みたかったんだ。でも、ダンスホールでは水は飲めない。違う部屋を探さなければ。でもアリスは暗闇に戻る気はしなかった。ここから別な部屋に行けないだろうか。
ダンスホールを見回すと、アリスの入ってきた扉とは別の扉がそこにあった。よかった、もしかしたら水が飲めるかもしれない。とてとてと、アリスはダンスホールを横切り、もうひとつの扉へと急いだ。
先ほどの扉と比べるとこちらの扉は大分小さかった。どれくらい小さいかというと、丁度アリスの身長を超えるか超えないかくらい。少なくともアリスが潜り抜けられるほどの大きさだったのは幸いだ。もう一回り、もう二回り小さかったらきっと小さなアリスでも頭やお尻がつっかえていたことだろう。
しかし、残念なことが一つあった。この扉には鍵が掛かっていたのだ。どんなにガチャガチャとドアノブを回しても一向に開く気配はない。当然アリスは鍵なんて持ち歩いてはいない。
どんな鍵があればこの扉の向こうへ行けるのだろう。この扉の向こうにはどんなものがあるのだろう。先に進むことを諦めないアリスは扉を右から左から、上から下から眺める。そしてふと、ドアノブの鍵穴に気が付いた。今更気が付いたのはその鍵穴が少し大きかったからだ。
アリスの小さな指先よりもずっと大きく、アリスの小さな拳はちょっと入らないくらい。もう少し大きな鍵穴だったならきっとアリスは自分の腕を差し込んで鍵にしていたことだろうが、残念、こんな穴に腕なんて無理やり入れてしまったらきっと抜けなくなってしまうだろう。
こんな大きくて小さな鍵穴にあう鍵とは一体どんな鍵なのだろう。不思議かどうかはさておいて、この鍵穴は何故だか丸かった。普通、鍵といったら先端に何かついているものだが、この鍵穴にあうのは棒みたいな鍵なのだろうか。指じゃ小さいし、腕では大きすぎる。はてさてどうしたものかとアリスが困り始める。
アリスが鍵穴の向こうを覗く。大きな鍵穴だから扉の向こうがよく見えた。
扉の向こうは部屋ではなかった。明るくて、静かで、小高い丘が見えた。散歩したらさぞかし気持ちいいだろう。あの草原の上に寝そべったらさぞかし気持ちいいだろう。この扉の向こうに行きたい。行かなきゃ。そう決心したアリスは扉の鍵を探すことにした。
さすがに扉の回りをいくらジロジロと眺めても鍵がぶら下がってないことくらいすぐに分かった。アリスが次に調べようと思ったのはホールの真ん中にあったテーブルだ。そういえばさっき横切ったときに何かが置いてあったような気がする、と少しだけ期待に胸を膨らませた。
しかし、そこに置いてあったのは鍵ではなく、何やら小さな小箱。小さいとはいってもアリスの手のひらよりもずっと大きいが、アリスはピンと来た。きっとこの中に鍵があるに違いない。アリスが小箱の蓋をパカッと開く。残念ながら、鍵はなく、代わりにあったのは薬のような小瓶だった。
アリスは薬が大嫌いだ。甘くないし、苦いし、まずいし、飲みたくもない。大体これはどんな薬なのだろう。手にとってアリスが調べる。毒薬とも風邪薬とも書いておらず、ラベルの代わりに瓶の口のところに手紙が紐でつけられていた。
「大きくなりたい?」
アリスが読み上げる。ずいぶんと可愛らしい文字でそう書いてあった。他には何も書いていない。それ以外には何かが書かれている紙もないし、ラベルもない。小箱にだって説明書はついていない。つまりこれがこの薬の全てということなのだろう。
小さなアリスは、大きくなるのには憧れているけれど、今はちょっと違う。今より大きくなったらあの扉を潜れなくなってしまうし、だったらせめてもう少し小さくなりたい。アリスの小さな腕がもっと小さくなれば、あの鍵穴に入って鍵の代わりになるかもしれない。
今は大きくよりも小さくなりたい。ああ、そうだ、とアリスが何かを閃いた。
もしこの薬を飲むと大きくなるというなら、逆さまに飲めば小さくなるかもしれない。なんというナイスなアイデアだろうとアリスは喜んだ。
きっとそうすればあの鍵穴も開けられる。そうすればあの扉の向こうに行ける。そして、あの小高い丘に行ける。
逆さまにすれば全部が逆さまになると思ったからきっと大丈夫だろう、とアリスは本気で思っていた。根拠もない確信を持ったアリスは、瓶の蓋をきゅぽんと開封するとこぼれないように口で抑えながら逆さに構えて、そのままの状態でこくこくと薬を飲み始めた。