裁判官が木槌をしきりに振り下ろす。その度に、この広いホールに乾いた打音がまた響き渡る。
辺りがどよめく。裁判官の席を挟むようにアリスの視界の右左に翼のように広がる傍聴席は、もう隙間がないくらい満員で、その誰もがアリスを冷たい目で見下ろしている。やはりその誰もがアリスには誰だか分からない誰かだった。
「被告人アリスは、イケナイことをした。よって本法廷ではこれを裁く」
どっしりと重々しい口調で、裁判席の高い位置から、低い低い被告人席のアリスに向かって見下ろし、述べる。アリスはこんなことをしている場合じゃない、と思っている反面で、一体どうしたらいいのだろう、と戸惑い、動くこともできなかった。
そうだ、ここはアリスを逃がさないための場所だ。このホールに出口などない。裁判席と傍聴席が目につくが、抜け出せそうな扉はおろか、壁さえも見当たらない。
「それでは証人を入廷させる」
忽然と、アリスの前に証人席が現れる。そこに立っていたのは帽子屋だった。アリスに向かって「やあ」と帽子をとってお辞儀をした。
この何処か緊迫してチクチクと刺すような空気の中、全くそんな空気に干渉していないようなあっけらかんとした顔で、帽子屋は何処からか取り出したティーカップで紅茶をズズズとすすっていた。
「アリス。ああ、アリス。また会ったね」
ズズズ。紅茶を飲み下して、にこりと笑みを見せる。
「カラスと書き物机はどうして似ているんだったかね?」
それはもう、砂糖と塩も区別つかないような渋そうな顔をして、アリスはウンと考え、首をかしげながらもゆったりと口を開いた。
「……カラスは黒いの。書き物机だっていつかは黒くなる。それに、どっちも散らかしてしまうわ。おんなじことなの」
対する帽子屋は、なるほどなるほどと首をカックンカックンと前後させて頷いた。その頭の上では帽子がゆらんゆらん落ちんばかりだ。
カン、カン、カン。木槌の音が鳴り響く。
「聞いてのとおりだ。これで証明された。アリスは被告人に間違いない。何故ならアリスは被告人なのだから」
その言葉にどれだけの意味があるのか、アリスには分からないし、分かりようもないが、アリスにとって嫌な空気の裁判はアリスの気持ちとはまた裏腹に時計の歯車のように止まってくれず、進展していく。顔の見えない裁判官。顔の見えない傍聴人。その中で、アリスはただ自分がどうなればいいのかを、じっと待ち続けるしかなかった。
「なあ、アリス。君は本当にそれでいいのかね?」
帽子屋が紅茶をまた一口。
「え?」
「カラスと書き物机を君はそう認識しているようだが、私は同意見を持たない。如何様にして至った判断なのかさえ私には判断できない。だが、君はそう認識した」
「あの……?」
「アリス、君はアリスなのかい? それとも牛なのかい?」
言葉の意味を飲み込もうとするも、答えを吐き出すまでに至らない。
しかし、アリスは「もぅ」と鳴き、自らのその伸びた乳首を、くにぃっと指先で摘み、やわらかい刺激と共にミルクを出す。きゅっ、きゅっ、と小気味に乳首の先をしごくようにして、また新鮮なミルクを出す。
いや。
ああ、違う。そういえばアリスは牛ではなかった。そう、思い出すと、胸の先から飛び出したミルクは時計を逆さに回したかのように戻っていき、何処かへと消え去っていった。
「そうじゃ、貴様はわらわのハニーポットじゃ! 勝手なことは許さん!」
証人席にいた女王様が声を荒げて言う。
テーブルの上、手も足もないハニーポットのアリスにはどうすることもなく、ゴトゴトと微動するのがせいぜいで、高ぶる感情のままに、その壷の下の方からぴちゃ、ぴちゃと湧き水のように蜜をしたたらせていた。
いや。
これも、違う。アリスはハニーポットなんかでもない。床にこぼれていく蜜のようなそれは床に染み込むように消えてなくなる。
かすみがかるおぼろげな記憶を、あたかも濁る水の中から小石を探すかのように、アリスは探っていた。
「アリス」
誰かが問いたずねるもそれは誰だか分からない。聞いたこともないような声だった気もするし、いつもよく聞いているような声でもあった。
くちゅり。アリスの指先が、アリスの股の股の付け根に滑り込み、しめったそこへゆっくりと侵入していく。くに、くにと湿った音を立てては、アリスの奥からは溢れるようなそれが指先をつたって出てくる。
留め金もなくて、アリスはその刺激がもっと欲しいと望んでいた。片手は自分の股につぷつぷと挿入れて、もう片手は胸にあて、その小さな乳首をつまんでは弄って、刺激を強める。そうだ、アリスは心地よかった。こうすれば気持ちいいんだとアリスは分かっていた。理解していた。
吐息をもらすほどに、はぁはぁと息苦しくなるくらいに、アリスは身体中をまさぐっては刺激を求めていた。
ようやく、ようやくアリスは思い出した。これがアリスなんだと。
こうやって、芋虫みたいにもじもじとしながらも気持ちいいことをむさぼる、こんな恥ずかしい自分が自分なんだとようやく思い出した。それがいけないことだと認識していたから、アリスは現実から遠ざかっていた。
現実でこんなことをしてはいけないと思っていたから、アリスは夢の中に逃げ込んでいったのだ。全てはアリスの望んだことで、眠ってしまえば現実から離れられる。自分の好きなことをいつまでもしていられる。
ひとりぼっちのアリスは何も知らなかった。
しかし、知ってしまった。覚えてしまったのだ。
気持ちいいということを。いけないことをするという恥ずかしさを。
「はぁ……、んん……いい、いいよぉ……」
くちゅ、にちゅ。くちゅり。アリスの中、アリスの奥に突き立てられた指が激しくうねり、激しく暴れ、大きな刺激をもっともっとと言わんばかりに、しっちゃかめっちゃかにかき混ぜていた。とろりとした蜜のようなソレがアリスの手首までびちゃびちゃにする。
「はむぅ……、んちゅ、ぇろ……、んふぅ……」
そしてそんな蜜にまみれた自分の手をぬちゅりと抜き出して、ぺろぺろ、ぴちゃぴちゃとキャンディーバーのように嘗め回す。もう分かってしまったから、アリスはもうとめられず、やめられなかった。気持ちいいということを、いけないということを、やりたくて仕方なくなっていた。
こんな自分が本当の自分だと分かってしまったのだから、もう否定しない。ごまかしたりしない。こうしていることが好きだから、やめたくないから、アリスは夢の中でずっとずっと気持ちいいことに溺れていた。
でも、それも、もう終わり。
だって、ここは夢の中だから。
「おやすみ、アリス」
「おやすみ、アリス」
「おやすみ、アリス」
誰かが、誰かがそう言う。それは眠る言葉。終わりの言葉。
アリスは夢の中で眠る。
そして、現実に戻るのだ。