――ジークムント・フロイト
シロウサギと小さな家(前編)
朝を迎えたアリスは、きょとんとした顔でベッドの上に座っていた。
何事もない朝、何事もない家、何事もないアリス。
ただただアリスはひとりぼっちで目を覚ますだけ。
父も母も、もう出かけている時間。何をすることもなくベッドから降りると、朝食の準備に取り掛かる。とはいっても、キッチンに向かったら大体のものはもう用意されていた。
テーブルの上にはこんがりとしたトーストの乗った皿。そして瓶に入った新しい牛乳とそれを入れるコップ。いつもと変わらない朝食。いつもと同じ光景で、いつもと同じように両親の姿がないだけ。だからいつものように食べるだけ。
椅子に座って、アリスがカリっと香ばしいトーストをかじる。そして、牛乳の瓶を手に取ろうとしたとき、アリスの手がピクリと空を留まる。
「ん……」
どうしてだろうか。瓶の中でちゃぷんと波打つ牛乳に、何か違和感を覚える。でもアリスにはその違和感の正体がつかめない。
首をかしげながら、牛乳を手に取り、コップへ注ぎ、コクコク、ふはぁ、と飲み干す。あとに残るのは、おなかを満たした幸せの余韻だけ。
ひとりぼっちのアリスは、今日もひとりぼっちのはず。でも何故だか、沢山の友達に囲まれていたかのような、うきうきとした気分がアリスの心のどこかに残っていた。そんなことがあるはずがないというのに。
黙々と食事を終えたアリスは、黙々と食卓を片付ける。
何処か上の空。ひとりぼっちのアリスはいつものように庭へと駆け出し、家の窓からもよく見える、明るくて、静かで、小高い丘を目指した。そこには丁度良い一本の木がある。ここはアリスのお気に入りの場所だった。
家のカーペットよりもずっと寝心地のよい草原のカーペットが、ひょっとすれば家の広さよりもずっと広く広がっている。木の根を枕に、木陰の下、涼しげな風に吹かれれば、そこはとてもとても快適なベッド。
こんなもやもやとした気分のときにはここが一番。
アリスは陰の広い木の根元にそっと腰掛けて、心地よさそうに目をうつらうつらとさせる。
「おやすみ、アリス」
誰もいない、自分だけの場所、自分しかいないその場所で、ひとりぼっちのアリスは密やかに呟いて目を閉じる。
※ ※ ※
※ ※
※
「……ぃへんだぁ~! たいへんだぁ~! 遅れちまうっ!」
ドッタドタと地面を蹴る音と、バッタバタと慌てる声。アリスは直ぐに目を覚ましてしまった。
何だ何事だ。アリスの眠りをさまたげるのは何者だ、と跳ね起きると、丘の下の方を白い何かがタッタッタと通り過ぎていくのがアリスの目にとまった。
青いベストを来て、メガネをかけた紳士が、懐中時計をしきりに気にしながらも走っていた。
頭のてっぺんで長い耳を揺らしているそれは、見間違うものか、ウサギだった。二本足で立つウサギの紳士が「遅刻だ! 遅刻だぁ!」と叫びながら、ドタバタとアリスの目の前を横切っているのだ。
なんと不思議な光景だろう。
アリスの知っているウサギは、服を着ないし、時計も持たないし、二本足では歩かない。あんな珍しいウサギがいるだなんてアリスは知らなかった。
一体あのウサギは何をそんなに慌てて、一体何処へ向かおうとしているのか。
ウサギの姿が見えなくなる前に、アリスはトットットと小高い丘を駆け下りて、ウサギの後を追いかけはじめた。
しかし、さすがはウサギ。二本足でも速いこと速いこと。かけっこにそれなりの自信があるやんちゃなアリスでもピューンと飛ぶように走り去っていくウサギにはなかなか追いつかない。
キュッとスカートの裾を持ち上げて、スピードを上げていくが、ウサギは猛烈なスピードでザザザッと大きな茂みの奥の方へと消えていく。すかさずアリスも茂みの中へと飛び込んでいく。
茂みの中は当然のことながら視界が悪い。どっちが右で左か、前を見ても後ろを見ても葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ。本当に前に進んでいるのか、ちゃんとウサギの後を追えているのか、アリスも不安を覚える。
何度も何度も葉っぱに頬を叩かれながらも、アリスはようやく茂みのトンネルから抜け出した。
するとそこは見覚えのない道があり、見覚えのないおしゃれで小さな家が建っていた。一体誰の家だろう、とアリスが家の垣根に沿いながら玄関へ続く門まで辿り、表札に目をやる。
「シロウサギの家……?」
アリスがそっと読み上げる。そしてそこでハッとした。
アリスは少し勘違いをしていた。ウサギだと思っていたあの紳士は、ただのウサギではなく、シロウサギだったようだ。確かに紛れもなく毛皮は真っ白だった。まあ、間違えても仕方ない。名札もつけていないし、そもそも名乗ってももらっていないのだから。
てへへと小さく笑いながらアリスはキィと門を開き、シロウサギの家の玄関まで向かおうとする。すると、玄関の扉がバタッと勢いよく開き、また家の中から勢いよくあのシロウサギが慌てて飛び出してきた。
「遅刻だ! 遅刻だ! 急がなきゃ!」
ピョンピョン、ピョンピョンと、門の方へ、アリスの立っている方へ言葉通りに跳んでやってくる。
「シロウサギさん、ねえ、ねえ、なんでそんなに急いでいるの?」
そんなアリスの問いかけは意にも介さず、シロウサギはポンと思い出したように手を叩く。
「ああ、しまった! 手袋と扇子だ! あれがない! 何処だ何処だ! 急がなければ!」
そう言うとシロウサギが地面を見下ろしながらキョロキョロとし、ゆっくりと振り返る。振り返った先で丁度アリスと目があう。ああ、ようやくシロウサギに気づいてもらえた、とアリスが安堵をしたのも束の間、シロウサギはまたカッと早口で叫びだす。
「メアリー・アン! そんなところにいたのかい! ああ、今まで何処へ行っていたんだいメアリー・アン」
メアリー・アン。聞きなれない名前に、アリスはきょとんとする。後ろを振り向いても特に誰もいない。
「キミだよメアリー・アン! 他に誰がいる! キミがメアリーでないというのならメアリーとは一体どこの誰なんだい? お願いだメアリー、どうか扇子と手袋を探してきておくれ」
「もしかして、わたし?」
「そうさそうさ! キミ以外に誰がいる! 頼むよ頼むから今から家に行って扇子と手袋をここに持ってきてほしいんだ」
どうも腑に落ちないアリス。でもシロウサギはなかなか話を聞いてくれようとはしてくれない。多分メアリーというのはシロウサギの家のメイドさんか何かなんだろう。きっと人違いだ。
かといって、シロウサギは大層困った様子だ。こんなに大慌てで困っている人……、もといシロウサギを放っておくこともできないアリスは、仕方なく、しょうがなく、シロウサギの家の玄関をくぐる。
アリスは昔、ウサギ小屋を見たことがあったが、これはとんでもない。ウサギの家とは思えないシロウサギの家は、なんともはや外観通りのおしゃれな内装の施された家だった。まるでアリスの家とそこまで変わらない、贅沢ではないけれど質素でもないいいお家だ。
扇子と手袋は何処にあるのだろう。キッチンにはないだろう。リビングにはあるのかもしれない。ひょっとすればバスルームにあるなんてこともあるのかもしれない。見慣れない家の中、アリスはトコトコとシロウサギの扇子と手袋を探し回る。
すると、窓際のカーテン下にある小さなテーブルの上にシロウサギのものと思われる扇子と手袋がそっとそこに置いてあった。アリスはすぐさま手にとって、シロウサギに届けに行こうとする。そんなとき、アリスの目にふと留まる。