一体何が起こったのかシロウサギにも、トカゲのビルにも、そしてアリス自身にもよく分かっていなかった。
玄関は水浸し。アリスの顔はトマトみたいに真っ赤で涙でぐちゅぐちゅ。腕にも足にも力が入らず、ぐったり。身体中が汗でびっしょりのぐっしょりで、足と足の付け根など、おもらししたときよりも酷いくらいビチャビチャ。
アリスはあんなに頭が真っ白になったのは初めてのことだ。
何があったのか理解するよりも、何故かふわふわとした心地よい気分に身を預けて、涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃのその顔ときたら、うっとりとした笑みの表情を浮かべていた。まるで夢心地。
あまりにも無気力で、こんな気持ちがずっと続けばいいのに、と心のどこかでアリスは思っていた。
どれだけの間、そうやってぼんやりとしていたことだろう。
コゲくさいツンとした臭いでアリスは我に返った。ふと気付けば、家からはもくもくの煙が立っていた。
突然のことに一体何事だろう、とアリスが窓から外を見下ろす。するとそこにはびしょ濡れのシロウサギとトカゲのビルがせっせと薪を集めて、火にくべていた。
その火は家の真ん前だ。
「よいしょ、よいしょ。こんな家、燃やしてしまわねば」
「うんしょ、うんしょ。さあさ、薪をもっと集めてこい」
とんでもないことだ。確かにアリスがこの家を占拠していることもとんでもないことだが、あろうことかあの二人はこの家を燃やそうというのだ。そんなことされたらアリスが焼け死んでしまう。
パチパチパチ。だんだん火の勢いが増してきてアリスの体が熱くなっていく。早くなんとかしなければこのままではアリスの丸焼きの出来上がりだ。しかしまだアリスはろくに身動きがとれない。だんだん熱くなる火の勢いをただ眺めているしかない。
どうしよう、どうしようと考えても熱くて熱くて考えがまとまりようもない。
ふと、アリスは手元に扇子が落ちているのに気がついた。そういえば、さっきシロウサギの部屋から持ち出して手に持ったままだったのを思い出した。いつの間にか窓の外に落としてしまったらしい。
こんなものでどうにかなるものとは思わないが、アリスはその小さな扇子を指先で拾い上げ、パサッと広げると、パタパタと顔を仰いだ。焼け石に水、焼きアリスに扇子。それでも少しでも涼しくなればいい、とアリスは思っていた。
ところが、次の瞬間だ。
ヒュン。
ヒュン。
なんということか、扇子を仰ぐごとにアリスの体が縮んでいく。これはしめたとアリスが扇子をパッタパタと仰ぐ。
ヒュン。
ヒュン。
それはそれはすぐさま、アリスの体は元の大きさくらいに戻り、部屋の中からも出られるくらいになっていた。さあ、こうしちゃいられない、とアリスは玄関から外へと駆け出し、あっという間にピュンと抜け出す。
間一髪、アリスは焼きアリスにならずに済んだようだ。
「ああ、メアリー! メアリー・アン! 手伝ってくれたまえ! 今から家を燃やすんだ!」
家から出るなりシロウサギにそんなことを言われるも、アリスは出る言葉もないが、その手から出るものはあった。
「はい、これ、扇子と手袋」
「おお! よくやった! よくやったぞメアリー・アン! これさえあれば!」
シロウサギは大喜びで手に持った薪をそこらへんに放り投げると、アリスから扇子と手袋を受け取り、またピュンと何処かへと飛んで行ってしまった。結局何をそんなに慌てていたのか、分からずじまいだったが、ともあれ、せっせと薪を運んでいくトカゲのビルを横目に、アリスは会釈を添えて。
「あの、がんばってください」
とだけ呟いた。
「おうよ!」
とだけ返事が返ってくる。
もう大きな大きなアリスのいなくなったシロウサギの家を燃やす必要はないし、何を頑張る必要があるのかアリスにもビルにも分からないが、とりあえずアリスはその場を後にし、再びあのシロウサギの後を追いかけてることにした。
すっかり忘れていたアリスだったが、ウサギの足はとてつもなく速かった。たった今、行ったばかりなのにウサギの姿はもう見えない。渡したときにすぐ追いかけるべきだったと後悔する。
「……急がなきゃ」
と、何故だかカクカクに震える足をなんとかしながらも、アリスは内股気味にひょこひょこと走り出す。
そうして道なりに進んでいくと、ウサギが向かった先であろう森の入り口が目の前にあった。特に何も考えていないアリスはそのまま中へとタッタッタと足を踏み入れていく。
すると森の中へと入った途端、日差しは唐突にさえぎられ、まるで夜のような暗闇がアリスを包み込んだ。アリスはその薄暗さか、それとも疲れからか、足を止める。
先ほどまでの明るい道はなんだったのかと言わんばかり、辺りは夜道のような静けさと怖さが広がっていた。
ここから何処へ進めばいいのか。そもそも進める道なんてものがあるのか。暗がりの森の中、アリスは立ち止まったまま動けなくなってしまっていた。
「どうしたんだいアリス」
アリスがおどおどとしていると何処からともなく、声が聞こえる。アリスはビクっとして、とっさに辺りを踊るようにくるくると見回すが、どこをどう見たって周りに人なんていない。
「こっち、こっちさ」
アリスが声のする方を、見上げる。すると木の上、枝の上に三日月のような何かが浮かんでいた。
「……誰?」
恐る恐る三日月に向かって声を掛ける。
正体の分からないものが、ゆっくりと姿を現す。三日月のようなものは、それの口だった。にっこりと笑った歯並びのいい口だった。そしてにっこり歯を見せた口の持ち主は何ともぶよっとした図体のネコだった。
「ネコさんだったの」
「そうさ。ボカァ、ネコさ。チェシャネコさぁ」
チェシャネコがシャッシャッシャと笑う。
「そう、チェシャネコさん。ねえ、シロウサギさんを見かけなかった?」
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
チェシャネコがゴロンと太い枝の上でおなかを上に向けて寝そべる。そう言われてアリスがふと考え込み始める。そういえばどうしてアリスはシロウサギを追いかけていたのだろうか。考え込む。考え込む。しかし、一向にその答えが出てこない。
「思い出せないの」
素直にそう答えると、チェシャネコがまたシャッシャッシャと笑い、アリスを見下ろしながら言う。
「分からないことを聞かれてもボカァ分からないことは分からないなぁ」
それはごもっともな話だ。アリスも見知らぬシロウサギをただただ追いかけていただけ。そこに理由なんてなくて、イヌがネコを追いかけるのと同じくらい意味がない。どうして、なんでを考えれば考えるほどに、アリスの頭の中がかき混ぜられて何もかもが分からなくなってくる。
「分からないの。わたし、何も分からなくて……」
アリスはそこから言葉が続かず、うつむく。何も考えられなくなって、頭がぼんやりしてしまう。分からない、分からないが広がっていく。
「眠いなら、眠ってしまいなよアリス」
言われてアリスは自分がヘトヘトなんだと気付く。どうして気がつかなかったのか分からないくらいに。気がついた途端、疲労がどっと押し寄せてくる。ただ立つのも辛いくらい、だるくなってくる。
「……うん」
アリスの足がするすると崩れて、アリスはすぐそばにあった木の根に体を預けた。
「おやすみ、アリス」
やさしい声でそう言う。アリスの体から力が抜けていくように、まぶたが下りる。
アリスはうとうとと静かに寝息を立て始める。
また、誰かが言う。
「おやすみ、アリス」