アリスがふと、窓を眺めるように姿見を覗き込むと、そこにはアリスの姿がなかった。これでは髪を直すこともままならない。
鏡の中の自分は何処へ行ってしまったのだろうかとアリスはすくりと起き上がり、ベッドから降りて姿見に触れると、なんということか、姿見の表面がまるで小石を投じた水面のように波を打った。
アリスはそうか、と気付く。鏡の向こうに自分がいないのだからぶつかる相手がいないのだと。鏡の向こうに自分がいないのだから鏡の中に入るのに邪魔なものがないんだと。
まず、アリスの腕が鏡の中に突っ込まれる。そして次に足、追いかけるように頭、胴体とアリスの全部が鏡の中へとすっぽり入っていく。鏡の向こう側はといえば、別に何のことはない、アリスの部屋だった。ただ違うとすれば、右と左が逆なくらいだろうか。
アリスは首をかしげる。アリスがいない。鏡の世界のアリスの部屋はアリスの部屋なのに、鏡の世界のアリスはアリスしかいない。
一体アリスは何処へ行ってしまったのか。
ひょっとして、自分のことだからまた外の小高い丘にでも出かけて、木漏れ日の下でお昼寝をしているのかもしれないとアリスが納得する。
鏡の世界のアリスはどのくらいアリスなのだろう。アリスと同じくらいアリスなのかちょっと違うアリスなのか。全然違うアリスなのか。無性に気になったアリスはそこにはいないアリスを追いかけるように、鏡の世界のアリスの家の外へと出る。やっぱりいつもと同じ風景が広がる。違うのは左が右になっているくらい。
いつもの丘は右だったか、左だったか、逆だから右になってるのか、それとも左になっているのか。何が何やらちんぷんかんぷんで戸惑いつつもアリスはアリスを探しに、鏡の世界を出かける。
ところが、ちんぷんかんぷんアリス。右も左もごっちゃごっちゃなものだから、どうしてもいつもの丘に辿り着けない。右のはずだから左でいいはずなのに。いいや、左のはずだから右でよかったと思ったのに。そもそもどっちが右で、どっちが左だったんだっけ、と目を回すようにアリスは頭を抱える。
果たして、上ったのか、下ったのか、曲がったのか、どう進んでいるのか。
気が付けばアリスは森の中。何処で迷子になったのか、そもそも迷子になったのかも分からない。誰もいないシンとした森の中を、アリスは自分が何処を目指していたのかも分からないまま、ただただ歩いていた。
何処を行けば何処へ行けるのか、もうアリスには何も分からない。
「やあ、アリス。何処へ行くんだい?」
聞き覚えのある声、何処から聞こえるのか分からない声が、アリスに問いかける。よく考えてからアリスが見上げると、木の上にチェシャネコがシャシャシャとアリスを見下ろし、笑っていた。
「わたしを探していたの」
「だったらここにいるじゃないか」
言われてアリスは初めて疑問に持った。そういえば探すまでもなかった。どうして自分は自分を探そうとしていたのだろうと気付いた。
「おかしいね、わたし。わたしならここにいるのに」
「おかしなおかしなアリス。一体何処へ行こうというんだい?」
シャシャシャとチェシャネコがまた問いかける。
「何処へ行けばいいんだろう。右も、左も、どっちがどっちだか分からなくなっちゃたの」
「右はあっちで、左はこっちさ。そっちに行けばおかしなおかしなアリスみたいに、おかしなおかしな連中がお茶会を開いてるさ」
チェシャネコが尻尾の先をぷいぷい振り回してそう言う。
「一体どっちなの?」
「行きたい方へ行きなよアリス。アリスがアリスならね」
少し考えて、アリスが何かを言い返そうとしたところで、いつの間にかチェシャネコの姿はふわっと煙のように消えてなくなっていた。
「おかしなネコ」
アリスが呟く。消えたのならもういない。仕方なくアリスはアリスの思った方へと進むことにした。
森の中なんて大層暗くて道なんて見えっこないけれど、あのチェシャネコの言葉を信じるように、右も左も気にせずアリスは進む。そして、それほど歩かなかったアリスだが、森を抜けて一軒家を見つけた。
それはおかしなおかしな家。
煙突のてっぺんにウサギの耳の付いた家を見たのも初めてで、屋根にシルクハットを被った家を見たのもアリスにとっては初めてのことだった。おそらくチェシャネコの言っていたおかしな連中のいる家で間違いないのだろう。
家の前までくると賑やかな声が聞こえてくる。
家の前には白いクロスの掛けられた大きな長テーブルが置かれ、その上には沢山のティーポットやカップ、砂糖やミルクの小瓶などがズラリと並べられていた。
テーブルの向こう側を見てみると、おかしな帽子をかぶったおかしな男と、愉快な声をあげながら愉快な顔をしたウサギと、その二人に挟まれて大層居心地悪そうに眠っているネズミがいた。
「こんにちは」
おそるおそるアリスが、おそらくここでお茶会をしていると思われる三人組に声を掛ける。
すると早速アリスに気がついたのか、帽子をかぶった男がペコリと帽子が落ちるんじゃないかというくらい深く深くお辞儀をしてきた。
「ごきげんよう客人。わがはいのお茶会へようこそ」
続いて、愉快なウサギがお辞儀をすることなくアリスの方に向き直り、ニヤニヤと笑いながら言う。
「招待客かい? 招待されてなくてもどうぞ座ればいい。どうせ誰も招待してないし、椅子なら余ってるくらいだ」
二人の間に挟まれたネズミは眠ったままのせいか、特に気に留めることもないらしい。
「おじゃまします」
ぺこりとお辞儀を返して、アリスがうながされるままテーブルにつく。
「わがはいは見ての通り、見て分かる通り、帽子屋だよお嬢さん」
「ボクはそう、見たまんま、三月ウサギさ、おちびちゃん」
「わたしは、その……アリスです」
「そうかい、そうかい、そうかい、おちびちゃんはアリスかい。アリスはおちびちゃんかい」
遠慮もなしに三月ウサギがグイグイとアリスにせまってくる。お茶会なんて参加したことのないアリスはたじろぐばかり。お茶会はどうしたらお茶会になるのだろう、とアリスは首をかしげる。そもそも、これは本当にお茶会なんだろうかとさえ疑問に持つくらいだ。
「ところでアリス――――」
帽子屋がテーブルから身を乗り出し気味に問いかける。
「カラスと書き物机は、どうして似ていると思う?」
これは、なぞなぞだろうか。アリスが少し考えて答える。
「どちらも、硬い角を持っているし、長く洗ったりしないから、かな」
帽子屋は満点とも零点とも取れない、渋みのとれないお茶を飲み下したような顔を浮かべて、眉をひそめた表情でアリスの顔をじぃーっと眺める。
「ならば、どうしてカラスは書き物机ではないんだい?」
三月ウサギが割り込んでくる。アリスは考える間もなく、ムッとして答える。
「カラスは飛ぶけど、書き物机は飛ぶ羽もないよ」
「それは実におかしな回答であるとわがはいは思う」
今度は帽子屋がのめりこむ。それも、ピンと指先を立てて、チッチッチとキザに振舞うものだからアリスはふくれるようにまたムムッとする。しかし今度はアリスが言い返す間もなく、ピシャリと帽子屋が言葉を続ける。
「対象の定義とは客観でしかない。よって即ち事象が酷似ないし類似しているならば同一と認識してよかろう。書き物机が空を飛べばカラスにもなりうるし、カラスのくちばしの先にインクをつけて紙の上をなぞればそれは書き物机だ。それが相違ない答えである」