朝の目覚めがこんなにも清々しいものだったなんて改めて知った。
腰が痛むわけでもなく、関節がポキポキ音を立てるわけでもなく、布団から立ち上がってもフラリとめまいを覚えないなんて驚きだ。
今の私は二十三歳。ということは、ライラも今頃は三十四歳か。だんだん入れ替わってきた実感も湧いてきたというもの。
いつの間にか私はチーフから降ろされて、代わりにライラの方がチーフになっていたのには笑ってしまったが、いい気味だと思う。
今はバイトリーダーの仕事を任されているけど、こちらには仕事のノウハウがいくらでもあるし、後輩の使い方も熟知している。ライラと違って困ることはない。
逆にライラの方は悲惨だ。春から入ったばかりの新人なのに、ちょっとした仕事のミスも許されないどころか、同年代だったはずの子たちの分の面倒まで見なければならないのだから。
それに何より、あんなに可愛らしかったライラが日に日にムチムチになっていく様は酷く滑稽だった。元気はつらつだったころの面影もない。
普通はじっくり仕事を覚えていくところを全部すっ飛ばして難しい仕事ばかりを任されているのだ。精神的にもまいってしまっているのだろう。
さすがに可哀そうとは少しは思った。だからライラのフォローはこれまで通りちゃんとしてあげたし、バックアップだって抜かりない。まあ、そうしないとこのスーパーの沽券にも掛かるから仕方なくというのもあったが。
つい最近まで自分があんなおばさんだったのだと思うと、ようやく自分を鏡で見れたような気がする。あの子も、自分は可愛い女の子だと思い込みながらも今の姿になっているのだから、そういう意味では同じような境遇にはなっているのか。
ただ私と違うところは、勉強や仕事に対して真面目に打ち込んできていなかったことと、今もそういう考え方が身についていないことだろう。だから今もライラは誰かに頼りたくて頼りたくて仕方ない状態なのだ。
しかし、残念。日に日に熟女になっていく彼女に手を差し伸べる人はそういない。若さも可愛さも私がいただいているのだから、心は子供みたいに我儘なまま大きくなってしまった彼女に、人を思いやる心は足りていない。
そのうち自然と身につけるかもしれないが、はたしてどれだけ掛かることか。
今は慣れない激務に追われてそんな余裕もないだろうから難しいとは思う。
さて、一方の私といえば、かなり身軽になった。昔みたいにスレンダーな体型に戻ってきたし、顔のほうれい線も小じわも目立たない。懐かしい気分だ。
最近では珍しく、男性客から声を掛けられるようにもなってきた。私のレジの前に並んでくれるようになったのは嬉しい悲鳴といってもいい。
なんだかんだ長くやってきた仕事なだけに、周りのみんなも頼ってくれる。若い子の輪の中に入っていけるようになったのも、なんだか嬉しい。
遠目から見ている分には煩くて不快なだけだったのに、青春を満喫している気分。
やっぱり若くて見た目が可愛いと、こんなにもチヤホヤされるものなんだ。
どうして学生時代の私はこんな大切なものを無下にしていたのか。
他人から切り離されていったら人は何もできなくなるというのに。
若気の至りというものは恐ろしいものだ。
真面目にやっていけば、それだけで自然と周囲から評価されていく、なんてある種の幻想だったと言わざるを得ない。私は長いこと真面目ということを、他者を切り離して孤独に努力することである、とはき違えていたのだ。
もちろん、そうやってひたむきな努力の末に評価を得られてきた偉人も多く存在するだろうが、それは一握りの天才の特権だ。凡人に伸ばせる手の数は限られている。全員が須らく天辺に辿り着けるなどという保証もない。
自分が何をしているのか、どんなことを成しているのか、そんな理解者なしに一人だけ突っ走って何になるというのか。
人は勝手に周りから集まってくるものなんかじゃない。四十という初老に至るまでそのことに気付かなかったのも酷く滑稽な話ではある。
――ふと、その額縁に視線が泳ぐ。
ケースの中にはあのカードが収められており、その中のイラストも変貌している。
鏡の前にいたキャラクターは身を乗り出して鏡の中に入り込もうとしていた。その一方で、鏡の中にいた別の誰かは既に上半身が引きずり出された状態。
いよいよ、パラレルスワップカードによる入れ替わりが完了するとき。
私は十六歳の若い乙女になり、ライラは四十歳の初老に成り果てるのだろう。
立場が完全に入れ替わったあとは、はたしてどうなるのか。
また元通りに入れ替わっていくのか、それともそのままそれぞれは違う立場のまま人生を続けていくのか。いずれにせよ、私は取り戻した若さも美貌も、何もしないまま手放したくはない。これからのことを考えなければならないだろう。
将来のことをじっくりと考えられるという幸せを噛み締めるときが来るとは。
こんなにも嬉しいことはない。
私はまだ、やり直すことができるのだから――……。
※ ※ ※
「おはようございます」
いつものスーパーの事務局に足を踏み入れる。
するとそこには既にライラの姿があった。様になっているといえばその通りで、デスクに腰を下ろし、パソコンを前に色々と奮闘している様子が伺えた。
「あ、はい、有仙さん、おはようございます。今日もお願いしますね」
疲れた顔をしている。覇気のない声ではあったが、それでもちゃんと仕事をこなそうとしている姿勢は評価に値する。思えば、あの席はずっと私が座っていたところなわけで、今までの仕事がそっくりライラのものになったのだ。
意識しなければ、私がそこにいると誤認していたことは間違いない。
何故なら、今のライラの姿はかつてのスタイルの良い美女とは大きくかけ離れているからだ。まさしく事務のおばさんという感じがよく似合っている。
私はあの席について事務の仕事を長いこと勉強してきたけれど、ライラはそうではない。付け焼刃ながらに頑張っているものの、操作の一つ一つがおぼつかないのは見ていてヒヤヒヤするものを覚える。
「あの、ごめんなさい、有仙さんに聞くのもなんなんだけど、在庫管理表のファイルってどこに置いてあるか分かりますか?」
立場上、ライラは三十四歳のチーフ。対する私は二十三歳のバイトリーダーだ。
はっきり言って聞く相手を間違っているとは思うが、幸いにもその席は私が座っていた場所。すぐに答えることはできた。
「そうですね。多分、この在庫フォルダの中じゃないですか?」
指で画面を指すとライラはそっとマウスでカーソルを動かす。前々から思っていたけれどこの感じ、ひょっとしてパソコンとか普段から使わないのだろうか。
確かに最近の若者はスマートフォンで全部できてしまえるから、逆にパソコンの方の操作が慣れていないという話は聞いたことがある。
「えっと、えっとぉ……? なんかいっぱい出てきちゃって……」
「フォルダに日付が書いてあるから、一番新しい奴でいいんじゃないかしら」
「あ、そうか」
こんな調子で私がいないときも店長や他の人にいちいち聞いているらしい。
ただ、それ自体は悪くない。だって、分からないことは人に聞くのが一番だから。
傍から見れば、パソコン音痴のおばさんに若者がレクチャーしているような光景には見えるだろう。本当は立場が全くの逆だとはライラも気付いていない。
「それじゃあチーフ、私は開店の準備をしてきます」
「あ、はい、お願いします。教えてくれてありがとうね」
最初からこういう関係だったのなら、よかったのかもしれない。
仕事の分からない新人に手取り足取り業務を教えてあげて、お互いに仕事が円滑に進むように努力する。私はこういう形でありたかったんだと思う。
まあ、実際にはそんなことはなくて、ライラは失敗するばかりでやり方を聞こうともしなければ覚えようともせず、結局同年代の子やチーフである私に押し付けてばかりだった。
そのくせして、みんながみんな甘やかすから悪びれもせず同じことを繰り返す。
当人は無意識かもしれないけど、まるでアイドルみたいに振る舞うその態度が気に食わなかった。
だから今は存分に苦労するといい。これは昔から言われていることだ。
若者は苦労を買ってでもしろ、とね。
勿論、前向きに頑張っているうちは私だって大目に見るつもりだ。
だからといって、立場を戻そうとはちっとも思わない。
私は謳歌できなかった青春時代を取り戻し、あなたは私の苦労をそっくりそのまま体感させてあげる。決してイーブンではないけれど、許してね。
だってあなたは私にどれだけ辛酸を舐めさせたのかこれっぽっちも知ろうともしなかったのだから――……。
※ ※ ※
今日一日分の仕事を終えて思ったことは、まだ全然できそうということだろうか。
若いって本当にパワフルで疲れ知らずなんだとまた思い知った。
なんだかんだ、私もチーフからバイトリーダーに格下げになって実質、給料も下がってしまったことだし、少し無理を言ってシフトを増やしてもいいのかもしれない。
というか、もしこのまま着々と年齢が下がっていったらバイトリーダーどころか、新人アルバイトにまでなり下がるのは必然だろう。
一応、自分の持っている口座を覗いた限りではチーフとして働いていた分の給料ごとごっそり消えたわけではないので極端に金に困ることはない。
それでも今後の生活を見直す必要はありそうだ。
そもそも、これから私は何処まで変わっていくのだろう。
正直なところ、既に満足といえば満足ではある。二十三歳で、周囲からチヤホヤされていて、男性客からも人気があって、多少なりの貯蓄もある。
逆に、彼女――ライラはどうだろう。高校卒業して大学も出てて、スーパーに就職したことになっているようだけど、どう考えても貯蓄があるようには思えない。
なんなら奨学金の返還も残っているのではないだろうか。可哀そうに。
「有仙センパァ~イっ!」
ふと、急に呼び止められて、私はドキリと立ち止まる。
後ろを振り返るとスーパーのアルバイトの子たちが揃っていた。シフトに入っていた数と合わないから、多分何人かは待ち合わせでもしていたのだろう。
「えっと、何かしら?」
「これからみんなで打ち上げ行こうと思うんすけど、センパイもどうかと思って」
こういうお誘いはなかなか新鮮に感じる。学生時代の私は極力断ってきたし、就職してからようやく上司と酒を酌み交わすようになった程度。
本音から言ってしまえば、慣れてないから断りたいという気持ちも強かった。だけど、これはそうやって私が逃してきた青春の一つなのだ。
「ええとじゃあ、割り勘ならいいかな」
勇気を出してみるべきだと思った。
私が若い子と付き合えるのかどうかは分からないけれど、今の私は二十三歳のアルバイト先の先輩。みんな私を慕ってくれているようだし、多分大丈夫なはずだ。
「じゃあ決定ってこと!」
その一言でアルバイトの集団が一気に盛り上がる。今までになかった経験だ。
いつも遠目でしか見たことのない楽しそうな若者グループの輪の中に、実際に入ることができる日がくるなんて思ってもみなかった。
一人で歩く帰り道でしかなかった街が、急に光り輝いて見えだした気がする。
それだけ今までの私は、こんなにも賑やかな都会を無味乾燥に通り過ぎる日々を過ごしていたのだなと思うと、いっそ笑いが込み上げてくる。
「そういえば、早川チーフは呼ばなかったんすか?」
誰かが言う。すると一気に周囲から笑い声が上がる。
「いやぁ、あの人はいいっしょ。盛り下がっちゃいそうだし」
「なんつーか、どういう顔して会話すりゃいいのか分かんないしな」
「あんなおばさん連れて行ったらあたしらの引率教師と間違えられちゃうよ」
学生アルバイトたちの各々のライラに対する印象が口火を切っていく。
中身だけの話をすれば、ここにいるアルバイトの子たちとそう変わらないのだが、やはり外見が老けていたり、仕事を押し付けられていたりが続けば陰口も叩かれる。
一番年下だったころはこのグループ内でもずっとチヤホヤされていたのに、こんなにも手のひら返しされていることに、私もとうとう吹き出してしまった。
久しぶりに愉快な気分になれたかもしれない。笑い方を思い出せた気がする。
こうして私は、かつて失ってしまった青春を謳歌するべく、若者たちとともに夜の街へと繰り出すのだった――……。
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