少しシリアス。
身体が疼く。疼く。破壊を望んで疼く。頭はだめだと叫ぶのに、身体が言うことを聞かない。泥が鞭のようにしなって、辺りの物を吹き飛ばす。がらがっしゃん。地面に叩きつけられて、ガラスが割れる。器具が壊れる。大切にしまってあったサンプルが、先生と二人で集めた資料が、床に散乱する。とても悲しくて怖いのに、心のどこかでそれを楽しんでいる自分がいる。
「やだ……やだよ……」
自分は魔物になったのだ。ネイチェは悟っていた。身体はもう完全に人ではない。泥の化け物だ。このまま心まで変わっていくのだろう。
先生が言っていた。魔物には破壊衝動があるのだと。自分の力を誇示するために、暴れることを望むのだと。魔物の世界は弱肉強食。弱いものは強いものに従わなくてはならないから。
「たすけて……」
その先生だって魔物になって、暴れて、騎士団に討伐された。あんなに理性的で冷静だった先生すら、魔物の衝動には勝てなかった。それなら、どうして自分が、自分ごときが、それに抗うことができようか。
「タす……けテ……」
泥の身体が広がっていく。部屋中を泥まみれにして。落ちていたサンプルのひとつに触れる。魔物の骨片。ネイチェはそれを吸収する。なんだか力が湧いた気がした。もうひとつ吸収してみる。なんだか充たされた気がした。
「あハ、アはは……」
楽しい。楽しい。吸収するたび力が増す。強くなる。楽しい。
「あはハハはははハははは」
泥の化け物は部屋中のものを吸収して、それでも足りなくて、部屋を出た。生き物の気配がする。ニンゲンが、化け物を見て悲鳴をあげる。逃げ惑う。美味しそう。泥の腕を伸ばして、それを捕まえる。ああ、美味しい。
化け物は街を彷徨う。気まぐれに建物を破壊する。楽しい。時々イヤなことをするニンゲンもいたけれど、化け物の泥の身体には効かない。反対に捕まえてやれば、変な声をあげた。ゾクゾクする。楽しい。楽しい。美味しい。
「もっと、モっと」
化け物は街を彷徨う。彷徨う。彷徨う――
でも、それは突然終わった。どこかから飛来した蔦が、腕を拘束したのだ。蔦は次々と飛んできて、化け物の全身を拘束した。
「じゃマ」
暴れても振り払えない。泥の身体は液体のはずなのに、拘束を抜け出せない。
「ジャまじゃマじゃまああアアあ!」
「ネイチェ」
冷静な声。化け物は動きを止める。この声は……誰だっけ?
「ネイチェ」
この声を知っている。知っている。思い出せないけれど……この声は味方だ。
「ネイチェ」
現れた蔦の塊が、泥の化け物を包み込む。安心する。身体の疼きが止まる。低い声が、泥の中に染み込んでいく――
「――ネイチェ」
目を開けると、ジェーレンがいた。じーっと、こちらを見つめていて。
「ジェーレン?」
「大事ないか」
彼の声には、心配の色が滲んでいる。
「魘されていたが」
「あ……」
ネイチェは、今しがたの夢を思い出した。そう、夢だ。あれは、夢。本当には、起こっていないこと。
「変な夢、見ちゃって」
「そうか」
彼は何も言わず、肩を抱いてくれる。蔦の塊が、ネイチェを包み込む。安心する。彼の温もりが、泥の中に染み込んでいく。
やわやわと身体を撫でる蔦は、いつもより優しい。まるで傷ついた心を労わるようで。どこか距離感に戸惑っているようにも思えて。
ネイチェはすり、と猫みたいに彼に頭を擦り寄せた。その頭を、彼の手が撫でる。強張っていた心がほぐれていく。
「ありがとう……もう大丈夫」
蔦の一本を拾い、軽く口づける。彼がピクと反応して、身体を包む蔦の圧力が増した。だけど、それだけだ。
彼はネイチェの反応を伺うように、身体の表面を撫でるだけ。本当に大丈夫なのか? そんな彼の声が聞こえてくるような気がして、ネイチェは苦笑した。
「ジェーレン……もっと触ってくれる?」
あんな夢、忘れてしまえるように。幸せで上書きしてくれる? そうおねだりすると、彼はそっと、ネイチェの中に蔦を潜り込ませ始めた。
「ん……ん、あぁ」
ゆっくり、恐る恐る、でもやがて遠慮なく。入ってくる彼を全身で感じて、ネイチェは幸せの吐息を漏らす。
――大丈夫。彼がいる。彼がいてくれる。だから、もうあんなことは起こらない。
「ジー……ずっと、一緒にいてね」
「? 手放すはずないだろう」
一片の曇もない即答に、心が温まる。なんだか胸が詰まって泣きそうになる。誤魔化す代わりに、ネイチェは彼と唇を重ねた。
◯魔物化
魔物化とは、誰もに起こりうる悲劇である。特に魔法使いの身に起こりやすいと言われている。メカニズムは未だ分かっておらず、突然発生することから、人々から恐れられている。
魔物になってしまった者は、二度と元に戻ることはないとされる。
◯魔物の本能
ほとんどの魔物には、暴れる……というより己の力を誇示したがる性質がある。大抵の場合、その欲求は破壊衝動となって現れる。
魔物は強い個体を頂点とした群れを作ることが多い。つまり、力を誇示する行為は、群れの頂点に立とうとする行為に他ならない。そのため、群れの構成員となった個体は破壊衝動を抑えることができる。また、群長は力を誇示する必要がないので、破壊衝動を持たない。一匹狼が凶暴なのは、そのため。
現在の二人は幸せいっぱいなので安心してください。
あれは夢。あくまで夢なので。
「……もう吹っ切れたと、思ってたんだけどなぁ」
今の姿のことは受け入れているし、幸せだし、なんなら魔物になって良かったとまで思っているけれど。だけど、あのときの恐怖はやっぱり忘れられない。