何も起こらない、そんな日もある。
ちょっと最近書きたいものが暴走していたので、
ちょっと初心に返ってみた次第。
ネイチェは、雨の日が好きだ。
雨が降るとなんだか気持ちがソワソワして、曇天の下に駆け出して行きたくなる。そして、空から落ちてくる無数の雫を、全身で受け止めるのだ。そうすると、空の全部と自分が一つになったような、そんな気分になれた。
昔――つまり人間だった頃はそうではなかったから、おそらくこれは魔物としての特有の感覚なのだろう。
昔は晴れの日が好きだったけれど、今は身体が乾くから、少し苦手だ。ジェーレンの日光浴に付き合うときも、ネイチェは近くの水辺に身体を半分溶かしているくらいである。
その日は珍しいどしゃ降りだった。洞の入口で雨を避けながら、手だけを外に出してみる。大粒の水滴が手のひらで跳ね、泥が飛び散った。無数の雨粒がネイチェの中に溶け込んでいき、彼女の色を薄めていく。いくらもしないうちに、彼女の腕は泥色と透明のマーブル模様になってしまった。
「うふふっ」
楽しくなって、もう一方の腕も外に出す。みるみるうちに模様ができてくる。
「ああ、もうっ!」
身体がうずいてしょうがない。雨を楽しむのは、もうこの身体の本能なのだろう。ネイチェはどしゃ降りの空の下に飛び出していった。
雨が全身を叩く。ネイチェはくるくると回りながら、それを受け止める。人の形を保つのも忘れ、バシャバシャと水たまりの間を跳ね回る。
「あははははっ」
くるくる、バシャバシャ、にゅるにゅる、ピョンピョン。大きな雨粒に叩かれるのは気持ちがいい。ドロドロになった地面に混ざってみるのは面白い。空と地面は雨で繋がって、その間にはネイチェがいる。ネイチェは空と地面と一つになる。
それはまるでダンスだった。レイオールが見たなら、こう言っただろう。泥色のウンディーネ、と。
ジェーレンは、洞の奥で本を読んでいた。湿気を嫌う資料のために、この部屋はいつも乾燥させているのだけど。しかし今日は、ここの部屋ですら湿度が高い。
ジェーレン自身は湿気も嫌いではないけれど、資料が傷むことを考えると、ため息もつきたくなるというもの。小さく嘆息し、それから心に灯る微かな高揚に思いを馳せた。
それはネイチェの抱く感情だ。きっとまた雨の中を、楽しげに駆け回っているのだろう。その光景を想像して、彼は目を細めた。
無機物型の魔物の中でも、体組成が水に近いものは、雨の日によく活性化する。身体の半分が水でできている彼女も、例に漏れずということらしい。雨の日の彼女は、いつもより活発で、積極的で、子どものように無邪気で――
「ああ」
ジェーレンは立ち上がった。本を片付けて、いそいそと部屋を出る。なんだか無性に彼女の顔を見たくなったのだ。触りたくなったのだ。
「ネイ……」
ぼそり、つぶやく彼の顔が、常にないほど緩んでいたことは、誰も知らない事実である。
雨は上がったのか、外は日が差し始めていた。洞穴のすぐ前には巨大な水たまりができて、光にあたってきらめいている。さて、ネイチェはどこだろう。気配は近くにあるのだけど。
と、ジェーレンは気がついた。水たまりの真ん中から、花が咲いている。ネイチェの胸にあるはずの、あの花が。
「ネイ?」
名を呼ぶと、水たまりの表面がさざめいた。それから花を中心に水が茶色に濁り出し、盛り上がり、そして人の形をとる。
「ジェーレンっ!」
水たまりから飛び上がるように姿を現したネイチェは、満面の笑みでジェーレンを見つめると、両手を伸ばして飛びかかってきた。勢いのついた抱擁に後ろに倒れそうになるのを、咄嗟に蔦で支えてこらえる。そんなジェーレンの様子にか、ネイチェは心底楽しそうにけらけらと笑った。
「雨、止んじゃったね」
そう言ってジェーレンの瞳を覗き込む彼女の顔は、どこか透き通っていた。たくさんの雨を含んで、泥が薄くなっているらしい。陽光が彼女越しにジェーレンを照らす。きらきらと彼女を輝かせて、いつもよりいっそう、魅力的に見せる。
ジェーレンは無言で、彼女に口づけた。やっぱりかなり水っぽい。いったいどれだけの水を吸収したことやら。
「日光浴に出るか」
少し水分を蒸発させてやった方がいいかもしれない。そう思って提案すると、今度は彼女から唇を重ねてきた。今度はさっきより長い。
「んっ、ふ」
ネイチェは気持ちよさそうに目を細め、それからなぜか眉をひそめた。少し上目遣いで、少し言いづらそうに。
「あの、ね。私、はしゃぎ過ぎちゃって」
「……ん」
「身体が重くて、動けないの」
そうして彼女は頭をジェーレンの胸に押し当て、顔を隠してしまった。ジェーレンは、彼女の足元を確認する――水たまりと、未だに繋がっているそこを。
「この水……まさか全て君か」
ネイチェは顔を隠したまま、こくこくと頷いた。ジェーレンは嘆息する。本当に、どれだけの水を吸収したのやら。
彼女の身体は液体を取り込むと際限なく体積が増えるようだが、自在に動くには、適切な大きさというものがあるらしい。それを超えると、コアから離れるほど制御力が落ちて、動かせなくなってしまうのだ。
時間が経てば吸収されて元に戻るとはいえ、この大きさではいったいどれくらいかかることだろう。
ジェーレンは首を振るとネイチェを抱き抱えて、水たまりの上でも特に日当たりのいい場所に移動した。コアから遠い部分は、彼女の一部とは言ってもほとんどただの液体で、わずかなとろみだけが、それがただの水ではないことを示している。ジェーレンの移動した跡が、ゆるい線となって残った。
ネイチェの方でもそういった場所は触れられた感覚が薄いらしく、あまり声を上げてくれない。面白くないな、とジェーレンは目を細め、また首を振る。
「日光浴をする」
「ここで?」
ネイチェの問いには口づけで答える。お互いの味を確かめるように、蔦と、泥とを絡ませて。
「ん、あぅ……」
小さな彼女の喘ぎに、彼は満足げに目元を緩めた。
その隙に、彼は蔦を伸ばす。しゅるしゅると、水たまりを覆うように。そしてその蔦のほとんどを水たまりの中に沈めてしまうと、彼の頭に当たる部分と、それから水上に出ている蔦の所々に、大きな葉をつけた。
「葉っぱ……も、生やせたのね」
「普段は邪魔なだけだが、蒸散には都合がいい」
葉でいっぱいに日光を受けると、温まった葉の表面から、水が蒸発していく。そして、乾いた分の水を大地から――今はネイチェの身体から――吸い上げていく。これで、少しでも乾燥が早まればよいのだが。
身体の中で水が循環するその感覚は、得も言われず心地よい。濁っていた体内が、透き通っていくような、そんな感覚。その上、腕の中には愛おしいものがいて、自分はそれに包まれている。
「あぁ……」
我知らず声が漏れる。充足感でいっぱいになる。ふわふわとして掴みどころがなく、なのにとても柔らかくて心地よいものが、身体の内側を満たしていく。その感覚をなんと呼ぶのだったか、以前ネイチェから教わったのだが。
「――そう、幸せだ」
ジェーレンは呟くと、ひときわ強く彼女を抱き寄せた。
ジーとネイ、幸せになれよ。