※この作品はR-18です。

NFFサービス業務記録   作:葛轍偲刳

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本編
絆☆1


「んー…っ、やぁっと終わったぁ」

 

 今日の分を含むシミュレーション訓練のレポートを何とか作成し終えた私は、椅子の上で大きく背伸びをする。

 

「お疲れ様でした」

 

 脇に控えるフレームレスの眼鏡をかけた怜悧な美女が極めて事務的に、何の感情も浮かべること無く淡々と労いの言葉をかけてくる。

 

「ありがとう、コヤンスカヤ。おかげでどうにかこうにか終わったよ」

「礼には及びません。私は、あくまで正当な対価に基づいた仕事をこなしたまでですので」

 

 私としては別にサボっていたつもりもないのだが、次から次に発生する微小特異点の対処やら、サーヴァント同士の諍いの仲裁やらに駆け回っている間に、いつの間にか積み重なった未提出レポートの数々に、差し迫った提出期限。一人ではどう逆立ちしても終わらないのは目に見えていた。

 しかし、戦闘面でならともかく、こういった事務系の技能に長けたサーヴァントというのは実のところ極めて少ない。真っ先に思いつくのはキャスタークラスの面々だが、当然ながら彼ら彼女らの腕前は私のような素人に毛が生えた程度の魔術師とは比べ物にならない。つまり理論面でも自分程度の頭では全く理解が及ばない超高等魔術や神学、神秘学の学術的専門的な難解な単語がポンポン飛び出してくる。確かに勉強にはなるのだが、レポート作成の参考にはならないのだ。

 諸葛孔明先生ことロード・エルメロイⅡ世はまだしもその辺りの機微は理解してくれるのだが、あの人はむしろ私の書いたレポートを添削してダメ出しするのが仕事で、レポートを作成する手伝いはしてくれない。自分が手を出しては私が成長しない、と言って。それ自体は全くもって正しいのだけれど、肝心の提出期限に間に合わないのは困る。笑顔のシオンやダ・ヴィンチちゃんが私を待ち構えているのだ。

 

 マシュやカドックは自分の分は既に提出済みで、その二人に手伝ってもらったらカンニングをしているようなものだ。新所長からやり直しと再提出を命じられるのは目に見えている。

 新選組の山南さんは親切だし優しいから頼めば手伝ってはくれるだろうけど、あの人はそもそも魔術師でも何でもないからその辺りの知識に疎い。

 同じく魔術師じゃないモリアーティ教授はそれでも頼りにはなるし、お願いすれば力を貸してはくれるとは思う。ただし軽く覗いただけの参考資料を使って、後になって何かとんでもない悪だくみに利用しそうな危なっかしさがある。

 残る最後の手段が、敏腕秘書ことコヤンスカヤに依頼することだった。

 

 実際、ぼったくりと思えるほどの高額の依頼料を吹っ掛けられはしたが、それが妥当なお値段とさえ思えるほどにコヤンスカヤは有能だった。

 依頼を受けたら即座に提出期限から逆算して無駄のないタイムスケジュールを組み上げ、私がレポートを作成する傍らで書式のミスや誤字脱字をすかさず指摘し、一切のミスを許さない。

 その一方で私の喉が渇けば飲み物を、小腹が空けば軽食をそつなく準備し、私の部屋に遊びに来たナーサリーやジャックちゃんやジャンヌ・オルタ・サンタ・リリィ達のお子様サーヴァント御一行を笑顔で優しく対応して私の邪魔をさせることなく事を荒立てることなく穏やかに追い返し、スケジュールのスムーズな進捗に貢献。

 さらには背後でさりげなくピシピシと鞭を鳴らす音を立てては私の作業能率を上げる追い込みようで、全くサボる暇も手を抜く隙すらも皆無だった。おかげで、かなり無茶だったはずの提出期限まで残り数十秒という際どいところではあったが、辛うじて間に合ってくれた。

 

「ダ・ヴィンチちゃん、どうにか終わったよ」

『うん、確かに受け取ったよ。まさか本当にあれだけの未提出分のレポートを全部完成させてしまうとは。さすがはコヤンスカヤ、完璧なサポートだね』

「当然です。我がNFFサービスに契約違反などありえません。例えどのような依頼であろうとも、一度引き受けたからにはお客様の期待には常に迅速かつ完璧にお応えするのが務めですもの」

 

 眼鏡の縁を白く細い指先でクイッと持ち上げ、艶然と、そして冷ややかに微笑むコヤンスカヤに通信画面のダ・ヴィンチちゃんが無邪気に笑い返す。

 

『君のそういうところは信頼に値するよ。君の価値基準は常に明確だ。間違っても仲間などとは言えないし、言うつもりもないけれど、ビジネスパートナーとしては何よりも信頼が置ける』

「もちろんです。仲間になったつもりなどありませんし、これからもありえませんが、契約を結んだからにはそれを遵守するのは我がNFFサービスの名に賭けてお約束いたしますわ」

『それでいいよ。少なくとも今のところカルデアに契約を破棄するつもりはないし、そんな余裕もないからね。さて、それじゃレポートの内容はこれから確認するから、今日はゆっくり休むといい』

「うん、そうする。おやすみ、ダ・ヴィンチちゃん」

 

 通信が切れた途端、ぐったりと机の上に突っ伏してしまう。我ながらだらしないとは思うが、さすがに疲れたし、酷使した頭も体も重い。

 

「それではお約束した通り、これからお支払いを…と思いましたが、そのご様子では随分とお疲れのようで」

「うん、ごめん。ちょっと今のままでは無理かも」

「致し方ありません。無理に取り立てるのも吝かではありませんが、そもそも持ち合わせが無いとあっては困ります」

 

 するりと私の体を持ち上げるコヤンスカヤは、細身に見えてもサーヴァント。しかも筋力のステータスはAランク。私など生まれたての仔猫のように軽々と運んでバスルームに入ると、テキパキと服を脱がせて湯船に入れる。

 

「全く、手がかかること」

 

 うんざりと、面倒そうに呟くのはコヤンスカヤの紛れもない本心なのだろうけれど。

 そう言いながらも手は抜かず、私の髪を解いてシャンプーで洗い、リンスを馴染ませ、コンディショナーで仕上げをする手つきは一流のエステシャンでさえも及ばないと思えるほどに丁寧かつ優しいものだった。私はぼんやりと夢見心地で身を任せているだけでいいのだから。

 

「今日もすっごく気持ちいいよ、コヤンスカヤ」

 

 思わず呟くと、いかにもつまらなさげに小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。

 

「当然です。こと毛づくろいにおいて獣が人後に落ちるはずもありません。…まあ、身を削ってまで機織りに勤しむ鶴には及ばないかもしれませんが」

 

 意外にも、というべきだろうか。それとも当然の評価と言うべきなのか、あのミス・クレーンの服飾にかける執念とも言うべき情熱は、コヤンスカヤにとってさえも無視し得ぬほどのものらしい。

 

「さ、もう少しです。こんなところで寝入ってしまわないように、少し刺激を与えて差し上げますから、お覚悟のほどを」

「…ん」

 

 薄目を開けると、コヤンスカヤが石鹸を手で泡立てていた。白い繊手の掌には、人の手からは失われて久しい肉球にも似た器官が具現化している。タマモキャットの肉球よりは小さいが、どう見てもそれは肉球そのものだ。とはいえ、それが肉球とは微妙に異なる用途に使われるものだと私は知っているけれど。

 哺乳類の肉球は足の裏で着地の際の衝撃を受け止めたり歩行の際の足音を消す一種のクッションであり、地面との摩擦で滑るのを防ぐ一種のブレーキでもある。だからザラザラした部分とツルツルした部分が混在していて、プニプニとした弾力がありつつも全体としては柔らかい構造になっている。

 

 ――でも。

 

「んぅ…っ」

 

 その肉球で、私の肌を擦られると。

 ザラザラとした部分が水で濡らした紙ヤスリか何かのように私の古い角質を削り取って、ツルツルした部分が砥石のように私の肌を研磨して、プニプニした柔らかい部分が肌の下の毛細血管を刺激するように優しくマッサージしてくれて。

 つまり、どんなスポンジやタオルよりも、私の肌をツルスベにしてくれる上に、その感触がとんでもなくキモチイイ。

 

「相変わらず、仔猫のようにお可愛らしい声ですこと」

 

 どこか嗜虐的な響きを帯びたコヤンスカヤの囁きに、私は返事もできずに体を震わせる。首筋を軽く一撫でされただけでもこれだ。

 

「ほら、続けますよ」

「んふぅっ…!」

 

 嬲るような笑みを浮かべたコヤンスカヤの手の肉球が、私の体を優しく撫でていく。

 特に乳房の下の、汗や垢が溜まりやすいところをじっくりと磨くように何度もマッサージされると、あまりの気持ちよさに全身の毛穴が開いて汗がドッと噴き出してくる。

 

「ふーっ、ふぅーっ…」

 

 背中やお腹も丁寧に優しく撫で回されて、隅々まで肌を磨き抜かれていく。開いた毛穴から生えた産毛のようなムダ毛も丁寧に削ぎ落とされて毛抜き要らず、全身の薄皮を剥かれたような気分で、そっと触れられただけでも思わず背筋が震えてしまうほど敏感になっているのを感じる。

 

「ほぅら、ちゃんとお気を確かに持っていただきませんと、これぐらいで気絶されてしまっては興醒めですわ」

 

 耳元で囁かれるだけでゾクゾクと背筋が痺れるような心持ち。コヤンスカヤの手が、私の脚の間に入って、内股を撫で上げて、そして――

 

「~~~~~…っ!」

 

 視界が、真っ白に染まる。股間から脳天に稲妻が駆け抜けたみたいな強烈な刺激に思わず背中を仰け反らせる。

 

「まぁまぁ、そんなにも気持ち良さそうに」

 

 嘲笑にも似た低い含み笑いを漏らすコヤンスカヤの手が、また私の股間を撫でる。ザラリとした肉球が私の敏感な粘膜を擦り上げて、細かな凹凸の間に溜まった僅かな恥垢を残らずこそげ取るように磨いて、陰唇をめくりあげて、その裏側の盛り上がった外陰部の角質、を――!

 

「く、は、あぁぅっ…!」

 

 思考が、飛ぶ。何とか客観的に自分を観察することで途切れそうになる意識を繋ぎ止めるけれど、それ以上に脳髄を揺さぶる快感が強すぎる。

 

「そんなにだらしなく口を開けていては、まかり間違って舌でも噛んでは大変ですわ」

 

 細い指の先で鋭く尖った爪が私の口の中に入ってきて、歯垢を掻き取るように口の中を這い回る。

 

「ん…っ」

 

 思わず、その指に吸い付いて、甘えるように舌を絡ませてしまう。

 さっきからコヤンスカヤの対応はマスターに対するサーヴァントのそれではなく、むしろ手のかかるペットの世話をする飼い主の態度そのものだ。そして、それが比喩でも例え話でも何でも無く、愛玩の獣である彼女にとってはむしろ当然の対応であることを私は知っている。

 でも、頭ではそうとわかっていても、つい甘えたくなってしまう。甘やかされてしまいたくなる。それが彼女の手管であるとわかっているはずなのに。

 

「あらあら、全く仕方の無い」

 

 耳まで裂けるように口の端をつり上げて、残酷な愉悦に黄金の双眸を細く煌めかせて、コヤンスカヤがクスクスと笑う。

 私の唇を奪って、その舌を嬲るように甚振って、そうしながら――

 

「ぅ、っ…!」

 

 私の小さな陰核を、真珠でも研磨するようにコヤンスカヤの肉球が細かく撫で回す。優しく包皮を剥いて、ゆっくりと小さな円を描くように、ザラついた部分とツルリとした部分が交互に私の肉芽を擦って、そのたびに私は体をビクビクと痙攣させて、快感のあまり目に涙を滲ませて、コヤンスカヤにしがみつく。

 

「ああ、なんてお可哀想に。こんなにも気持ちの良いことを体で覚えてしまっては、もうこれからは粗暴で粗雑なヒトのオスごときに何をどう触れられたところで全く何も感じられないことでしょう」

 

 嘲るように、私の耳朶を舐めしゃぶって、そして私の体を玩具にして弄ぶように優しく刺激する。私の反応を愉しみながら、何度も何度も、繰り返し。

 

「ん、あ、は…っ」

 

 息をするのも忘れるくらい、全身を隅から隅まで舐めしゃぶるように愛撫されて、私はぐったりとしてしまう。でも、それすらこれからの下準備に過ぎない。

 

「大丈夫ですか? もう降参などと言われては、興醒めも甚だしいのですが」

「…だ、ぃ…じょ、ぶ」

 

 本当は全然大丈夫じゃないけど、もつれる舌を辛うじて動かして答える。

 

「ちゃ、んと…払う、から」

「それは結構なことです。それでは、これより本日分の対価を請求させていただきます」

 

 ふっ…と、浴室内が急に暗くなったように感じられた。

 重い瞼を薄く開くと、爛々と光る金色の目が私を見下ろしていた。白い獣毛に縁取られた美貌が、九尾には及ばないにしても五本の尾を扇のように広げた金毛白面の獣が、そこにいた。

 

「…どうなさいましたか? この期に及んで怖くなりましたか?」

 

 口の端から鋭い牙を覗かせた愛玩の獣、ビーストⅣ。その面影を未だに残す人外のフォーリナー。

 そんな魔獣と裸で向き合っているのだから、きっと怖がるべきところだろう。情けなく恐怖に震えて、浅ましく命乞いをするべきなのかもしれない。

 

 ――ああ、でも。

 

「…綺麗」

 

 ポツン、と。そんな単語が自然と浮かんできた。

 何も言わず、無言で私を見下ろす獣をぼんやりと見上げて、私は微笑む。

 

「とても、綺麗。白い毛も、金色の目も、すごく綺麗で、素敵」

「……」

 

 白い毛に包まれた手が、私の頬を撫でる。ふわふわで、もこもこしていて、とても肌触りが良くて、思わず頬擦りしてしまう。

 

「…ああ、…なんて忌々しいほどに、全く可愛らしいこと」

 

 吐き捨てるように、その鋭い牙で口の中の苦々しさを噛み砕くように呟く声が聞こえた。

 獣面人身のコヤンスカヤが私の体を抱き締める。私の開いた脚の間に体を入れて、その肌を重ね合わせる。私の頬にペロリと舌を這わせて、五本の尻尾を私の手足に絡ませて。

 

 私の股間に、ひどく、淫靡に濡れそぼったナニカが、押しつけられる。

 

「――…っ!」

 

 ドクン、と。心臓が大きく脈打った。

 違う、心臓の鼓動を意識しないと、今にも心臓が止まってしまいそう。

 暖められているはずの浴室の空気が、まるでブリザードが吹きすさぶ極寒のシベリアへと入れ替わったような。

 体の熱を、魔力を、命を、根こそぎ奪われているような。お腹を噛み破られて、血が滴る温かい腸を生きながらにして食い荒らされているような。

 

「ん、く、――!」

 

 寒い。

 自分が空っぽになっていく。喪失感というより、真っ暗な何もない空間に放り出されたような心細さに襲われて、ただただ目の前の体にしがみつく。その縋り付いている当の相手が、私の魔力を奪っているのだけれども。

 

「……」

 

 けれども。

 瞬きもせず私を凝視している金色の双眸に、私は口元だけで微かな笑みを返す。

 残酷に、ひたすらに冷徹に、そして無情に。水で濡らした雑巾を絞るように、コヤンスカヤは私から魔力を搾り取っていく。搾取、という言葉の文字通りの意味そのままに。

 

 だけど、それと同時に、私が間違っても死んでしまわないように。私が壊れてしまわないように。

 

 細心の注意を払って、限界のギリギリを見極めて、脆く壊れやすい繊細なガラス細工を取り扱うように、丁寧に丁寧に私から魔力を少しずつ少しずつ吸い取っていく。少しずつ、というのは何も私を苦しめるためというわけではなく、もしかしたらそれも少しはあるかもしれないけど、それよりもきっと、私が生成できる魔力がコヤンスカヤにとってはあまりにも少なすぎるせいだろう。

 いっそ、ひと思いに頭からペロリと一呑みにしてしまった方がよほど話は簡単だろうに、彼女は絶対にそうしない。

 私が契約を結んだマスターだからなのか、それだけ契約がコヤンスカヤにとって絶対のものだからなのか、それはわからないけれど。

 でも、今にも死んでしまいそうなほど弱々しい『私』という存在を、その程度には彼女が認めてくれてはいるのだと思えば。

 

 こんな状況だというのに、妙に嬉しくて、口元が自然と緩んでしまう。

 

「…ぁ、っはぁ…、はぁ、あ…」

 

 ふと、何の前触れもなく、呼吸が楽になる。裸でフルマラソンを全力疾走した後みたいに、全身がびっしょり汗で濡れている。肩を大きく上下させて肺に酸素を送り込みながら、荒い息の隙間に掠れた声を差し込む。

 

「もぅ…ぃい、の?」

「良くはありませんが、空っぽの財布を逆さにして幾ら振ってみたところで何も出てくるはずもありませんので。今日のところはこの辺で。また後日、きちんと利息も込みで改めて御請求をさせていただきます」

 

 冷淡で慇懃無礼な返答に、私が返せるのは承諾以外に何もあるはずがない。

 

「ぅ、ん…わかった。いつでも、取り立てに来て。待ってる」

 

 寒さにかじかんだように感覚が薄い指先で、彼女の白い体毛を弱々しく握る。

 コヤンスカヤに限らず、私は皆から借りてばかりだけど。だから、返せるものは返せる時に、きちんと返したい。それが今の私にできる、精一杯のことだ。

 私の頭を撫でる手の感触に、意識が薄らいでいく。

 

「ん……おやす、み…コヤ…ス、カヤ…」

 

 瞼が重い。抵抗虚しく私の意識は休息へと落ちていく。コヤンスカヤの柔らかな抱擁の中で、私は静かな眠りに落ちた。

 

「――…ええ、おやすみなさいませ。私のマスター」

 

 額にそっと触れる唇が、小さく濡れた音を立てた。

 

■□■□■□■□■

 

 寝台に横たえたマスターの体に毛布をかけ、頬にかかった一房の髪を指先で軽く払って整えてやる。

 安らかな寝息を紡ぐ口元は薄く開き、仄かに開いた桜色の唇から白い歯が僅かにのぞいていた。

 

「まったく、呑気なものですこと」

 

 人の寝顔を無遠慮に覗き込みながら呟くコヤンスカヤだが、その口元には確かに優しげな微笑が浮かんでいる。そしてそれは同時に彼女からするとあまりにも無防備なマスターの寝姿に呆れ果てているようにも見えた。

 コヤンスカヤの指が伸びて、そっとマスターの唇に押し当てられる。柔らかくて張りのある唇の感触が指先を通して伝わってくる。

 

「ん……」

 

 むずかるように身動ぎするマスターを見て、コヤンスカヤは微かに目を細めた。そのままゆっくりと唇を割り開いて指先を侵入させるが、彼女は特に抵抗らしい抵抗もしないままそれを受け入れると、軽く歯を立てて甘噛みをする。まるで仔猫がじゃれつくような仕草に思わず笑みを漏らしながら、コヤンスカヤはその指で口内をかき回す。

 

「んぅ……っふ」

 

 舌を優しく指で撫でてやると、鼻にかかったような吐息と共に僅かに口元が緩む。ちゅぷ、くちゃという卑猥な水音が響く度にコヤンスカヤは嗜虐的な微笑みを浮かべ、マスターは無自覚にその指を吸うように顎を動かす。

 

「んむ……ちゅっ、んぅ……」

 

 眠りのせいか唾液の分泌量は普段より多く、口内の滑りが良い。コヤンスカヤはその指に軽く力を込めるとゆっくり引き抜く。透明な糸を引かせながら引き抜かれた指先はテラテラとぬめりを帯びていて、それを舐め取ると彼女は小さく呟いた。

 

「本当に可愛らしい人」

 

 心からの、侮蔑も悪意も無い純粋な賞賛。人間は好きだ。弱く、脆く、それゆえに保護し、愛玩するに値する。

 その中にあっても、契約者であるマスターは特別だ。守るべき存在であることは大前提として、その脆さと危うさを愛でたいという情動が常に湧き起こる。

 

「この私を手玉に取るなど、本当に小憎らしく可愛らしいこと」

 

 コヤンスカヤは眠るマスターの頬をそっと撫でると、そのまま身を屈めて彼女の額に口付けを落とす。唇を押し付けて、舌先を触れさせる。額に、頬に、首筋に、鎖骨に。そして最後にマスターの桜色の唇に口付けようとしたところで不意に動きを止めると、ゆっくりと顔を上げて周囲を見回す。もちろん、部屋には誰も居ない。いない、はずである。

 

 ――が。

 

「マスターとの水入らずの時間を覗き見とは、無粋にも程があると思いませんこと?」

 

 ギラリと金色の目を光らせるや、部屋の隅を凝視する。瞬間、熱を伴わない青白い鬼火が燃え上がるや、破壊された術式が灰となって崩れていく。東方の思想鍵紋を模した術式の名残が、まるで何事もなかったかのように消え去っていく。憎々しげに歪めた唇の隙間から音高く舌打ちを零すと、コヤンスカヤは歯軋りをしながら室内に視線を走らせる。

 やはり他には誰も居ない。しかし、それは人の目には映らないというだけの話である。気配遮断スキルを持つアサシンの英霊達が不寝番としてマスターの寝所に隠れ潜んでいたところで驚くには値しない。

 

「ふん……。まあ良いでしょう」

 

 コヤンスカヤは長い睫毛を伏せて嘆息する。そう、それはまだ良い。契約者を守ろうとする意志は認めてやるべきだし、自分はカルデアと敵対した前科持ちであるという自覚もある。ビーストⅣであった自分を警戒するのは当然だ。だから、それについては譲歩しても良い。

 とはいえ、例外もある。あの糸目の軍師気取りの男だけは許せない。太公望、呂尚。あの男だけは何があろうと絶対に許すつもりはない。今も観測術式でこちらを窺っていたあの男に、呪詛返しのついでに猛毒と業火を叩き込んでやったが、これですらあの男にとっては指先に軽い火傷を負った程度のものだろう。返す返すも忌々しく憎らしい。早くあの無駄に端正な首を捩じり切って、最上級の首塚に祀り上げてやりたいものだ。

 

「はぁ、本当に鬱陶しいったら」

 

 ため息と共に踵を返すと、コヤンスカヤはマスターの枕元に腰を下ろした。

 

「まったく。こんな無防備な寝顔をさらして」

 

 コヤンスカヤの白い指が、マスターの髪に触れる。細くて柔らかな髪を指先で梳き、頬を撫でる。その感触を楽しむようにゆっくりと撫で回し、やがてその手が首筋から胸元へと下りていく。毛布越しにもわかる膨らみと緩やかな曲線の輪郭をなぞるように撫でると、コヤンスカヤはニィ、と唇の端を吊り上げる。

 

「でも、それが良いのですわよね」

 

 その一言こそが、何よりも彼女の本音であり喜悦の感情であった。マスターが自分に無防備な寝顔を晒しているという事実こそ、彼女にとって至上の悦びなのだ。

 いずれマスターの身も心も、その善性も理性も引き剝がして、一匹の獣に堕としてやりたいという嗜虐的な思いは確かにある。その欲望のままに彼女を組み敷き、無力な兎の如き契約者を蹂躙し愛玩してやりたいという衝動はコヤンスカヤの内に確かに存在する。

 しかしそれはまだ先の話だ。獣は執念深く機会を待つものだ。今は雌伏の時である。カルデアの行く手を阻む手強い敵は今なお数知れず、同じくマスターを狙う競争相手もまた多い。敵はいずれ排除するにしても、今は慎重に時期を見定めなければならないのだから。

 だから、今はこうして束の間の安息に身を委ねて眠るマスターの姿を静かに見守るに留めよう。

 

「だって、まだまだ支払っていただかねばならない負債は残っているのですもの。きちんと耳を揃えて支払っていただくまでは、この契約は反故にはできませんものね?」

 

 マスターの髪を指先に絡めて弄びながら、闇のコヤンスカヤは艶然と微笑んだ。

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