──幻想郷。そこは忘れ去られたものが行き着く最後の楽園であると同時に、時代に取り残されたものたちが集う究極の最終処分場でもある。忘れられたものはいずれ消えゆく運命にある。その儚さこそが人の世の理であり、覆すことはできない。それは誰にも変えることのできない不変の法則だ。だが、そこに抗う者が存在するとしたら?
幻想郷には、内と外、非常識と常識の偏在を留め置くための結界が張られているが、その秘境を知るものはごく僅かでまた、結界内へ立ち入ることは固く禁じられている。
この物語は、とある河童の少女にまつわるお語である。
◇◇◇
サラサラと穏やかな音を立てて、清水が山間の渓流を流れている。透き通るような水面の下では、大小様々な魚影がゆらゆらと泳いでいた。河瀬には青々とした木々が生い茂り、その隙間からは木漏れ日が差し込んでいる。
辺り一面に広がる緑豊かな森林からは、時折鳥のさえずりが響いていて、川のせせらぎと樹葉が擦れ合う以外に音はなく、静かな時間が流れる......。
外界では殆ど喪われつつある原風景だったが、ことこの隔絶された世界に於いてはそれが日常の光景だった。
苔むした石塊が横たわる河原で、一際大きな岩の上。そこに仰向けに寝そべる少女が一人、気持ち良さそうに寝息を立てていた。川面を撫でる風に揺られて、少女の蒼い髪が静かに靡いている。トレードマークとも言える緑色のキャスケットを目深に被ったその姿は、まるで木陰に溶け込むかのように自然体だ。しかし、傍らに置かれた背嚢だけが不釣り合いな存在感を放っており、そこが彼女の居場所であることを主張していた。
─ピピ......。
ふと、静寂の中に電子音が響く。音は短く一度だけ鳴ったが、深く惰眠を貪る少女の意識は瞬時に覚醒する。身体を跳ね起こすと、手首に取り付けられた装置を一度タップしてアラームを止めた。そのまま、横合いに置いていた自作の釣竿に手を伸ばした所で動きを止める。
「あれ......釣れてないな。」
釣り針の先は水面に沈んで、川の流れにゆらゆらと揺れているだけだ。獲物がかかった形跡もない。自作の釣竿......全自動化釣竿の持ち手には黒い箱のような装置と固定脚が付いていたが、複合型魚群探知機と自動巻き取り装置を内蔵したそれは沈黙したままだ。
「......調整が甘かったか、それとも流用部品の競合でもあったかなぁ」
ぶつぶつと独りごちながら、少女はすっくと立ち上がる。身の丈五尺半よりも大きい、長身痩躯の肢体。てらてらと奇妙な光沢を放つ
「うーん、と......」
見上げれば、木々に阻まれ僅かに見える蒼穹。
蝉の大合唱が喧しいくらいに響き渡り、夏らしい暑さに拍車をかけている......。
旧態然としたシステムが未だ使われている幻想郷の中では珍しく彼女は外界の時間管理方式を採り入れており、独自に改良した光格子計測盤で恐ろしく正確に行動を計画していた。が、ただ時間を計るには過剰性能かも知れないと思っていたりする。
忌々しげに陽光を睨み上げつつ、少女は溜息をつく。
天候は晴れだが、湿度が高く蒸し暑いため不快指数はかなり高い。お天道様に呪詛を吐いても仕方の無いことだろうけれど、幻想郷の今夏はかなり厳しいものだった。肉体的には克服していても、存在の精神的比重の大きい妖怪にとってネガティブな心理状態というのは好ましくない。
連日の研究開発でまともに休んでいないし、血の気の多い連中の小競り合いから身を隠して、力を持つ妖や神霊の気を引かないようにこそこそと暮らしているのだ。鬱屈した気分にもなるというものだ。
「......まぁ、いいや。そろそろ帰るかな」
誰に言うでもなく呟くと、少女──河城にとりは荷物を纏めていく。その帽子の下から覗く肌は白く、薄桃色に染まった唇は瑞々しい。溌剌とした瞳は夜空のように美しい群青に光っていた。