――――――――――――――黒沢視点
机の上に広げられた書類一式。それらは車を花蓮さんに売却するにあたり必要な書類たちだ。
印鑑証明書、譲渡証、委任状...用意する書類はこんなモノだろうか?
まあ、車検は残っているので名義変更は直ぐに終わるだろう。
「さて...」
とりあえず、花蓮さんに連絡するためにスマートフォンを取り出した。そして、登録番号の中から『海老沢花蓮』の名前を見つけ出す。
『もしもし~?』
ゆったりとしたほんわかボイスが聞こえてきた。何とも癒される優しい声だ。...まさかご近所さんとは思わなかったけどな。
「もしもし?黒沢です」
『あ、黒沢さん。こんばんは~』
声からニコニコと笑顔を浮かべていることが伝わってきそうだ。
「はい、黒沢です。今、お電話大丈夫でした?」
俺は有給休暇を取っているので暇人だが、花蓮さんは仕事中のはずだ。
『いえいえ、どうぞどうぞ』
どうやら問題無いらしい。
「ありがとうございます。車の書類が整いましたのでご連絡しました」
『わぁ...ありがとうございます♪』
声が弾んでいる。きっと可愛らしい笑顔を浮かべていることだろう。
「いえいえ。では、車と一緒に今度お持ちしますね。いつ頃がよろしいですか?直ぐにでもお持ちできますよ?」
既に引き渡しの準備は整っている。それに、車なら他にも何台か有るので問題ない。
...ちなみに、所有している車の一台は今回売却した車と同じ車種だ。色もほぼ同じであり、違う点はマニュアルトランスミッションであることくらいだ。
『はい、ありがとうございます。日程ですが...明日の土曜日か明後日の日曜日であればお休みですので助かります』
それなら...早いうちが良いだろうから明日にでも納車に行くか。既に洗車も車内清掃も済ませてある。
「では、明日の午前中にお持ちしますね。任意保険は契約されましたか?」
彼女は長い事自家用車を所有していなかったので、任意保険は新規で契約することになるらしい。
『はい。保険屋さんに今から連絡しますので...いつから適用にすればよろしいでしょうか?』
「そうですね...私の保険は明日で切りますので明日から適用で大丈夫だと思いますよ。その方が早速乗れますし」
きっと楽しみだろうからすぐにでも乗れる状態にした方が良いはずだ。
『わかりました。では明日、お待ちしております』
「はい。よろしくお願いします」
そう言って電話を切った。
良識の有る大人相手なので話がスムーズで助かる。この手の個人取引では一般常識が通じない輩が多いからな。
さて...明日の引き渡しの準備でもするかな。
―――――――――――――――――――――――
そして当日。書類一式とスペアキーを準備し、車に乗り込んだ。
エンジンを始動し、いざ出発しようとしたその時、スマートフォンから着信音が響いた。
「花蓮さん?」
花蓮さんからだ。何か起きたのだろうか?
「もしもし?」
『もしもし、黒沢さんですか?』
「はい、黒沢です。どうかなさいましたか?」
確認の連絡だろうか?
『それが...申し訳ございません、急遽仕事で出かけることになりまして...よろしければ沙織に書類をお渡しいただいてもよろしいでしょうか?』
沙織...花蓮さんの娘さんか。...花蓮さんに良く似て美人さんだったな。はじめは妹だと思っていたけれど。
「お仕事なら仕方ないですよ。わかりました。沙織さんに事情を説明して書類と車のカギをお渡ししますね」
『本当にごめんなさい...ひょっとしたら早く戻れるかもしれませんので、その時はお電話しますね』
「いえいえ。ではお仕事頑張ってください」
『はい、ありがとうございますっ』
そこで電話は切れた。
珍しく少し焦った口調であったので本当に緊急の仕事なのだろう。とはいえ、俺の保険は今日で切れるので日にちを変更することが出来ない。
「とりあえず行くか」
ギアをDレンジに入れて、ゆっくりとオルガン式のアクセルペダルを踏み込んだ。1500㏄の快調なエンジンサウンドが響き、軽快なコンパクトオープンカーは目的地まで走り始める。
...まあ、数軒先の近所までの短いドライブではあるけれど。そんなことを考えているともう到着した。
「忘れ物は...無いな」
元々そんなに荷物が載る車でもない。今日もカバンに財布や免許証と名義変更の書類を入れているだけだ。
カバンを手に持ち、駐車場に停めた車を降りて玄関に向かう。
「...」
ちらりと隣家を見た。
...確か、この前一緒に居た男の子がここに住んでいるんだよな?名前は...確か"魁人"と呼ばれていたはずだ。
「まあいいか...ん?」
今は関係ないか、と思ったのだが...何とも視線を感じる。
その正体は分からないが、まあ...女性だけが住んでいる家にいきなり派手な車で乗り付けると注目もされるよな。
「チャイムは...これか」
玄関横に設置されているカメラ付きインターホンの呼び出しボタンを押すと、軽やかなチャイム音の後にバタバタと足音が聞こえてきた。
「?」
そして、直ぐに玄関扉が開かれた。
「ご、ごめんなさい...っ。ちょっと家の事をしていたもので...」
慌てて飛び出してきたのは、花蓮さんの一人娘である沙織さんであった。
「いえいえ。急いでいませんので大丈夫ですよ」
彼女の格好は...少しサイズの小さい体操服の上下に、白い三角巾で頭を覆っている。白く美しい両手にはゴム手袋が装着されており、左手には蛍光灯の菅球が持たれていた。電球の交換でもしていたのだろう。
「ところで...」
「はい?」
「ひょっとしてお忙しいところでした?」
電球を指差して尋ねた。
「あ、いえ、これは...えへへ...」
恥ずかしそうにはにかむ沙織さん。
「すみません。こちらこそお忙しいときにお伺いしてしまって」
「い、いえいえそんな―――ひゃっ!?」
慌てふためく沙織さん。
しかし、その拍子に玄関の段差に躓いてしまった。
「...!」
咄嗟に両手を伸ばし、左腕で彼女の身体を支える事を優先した。
そして、右手で零れ落ちた菅球を掴み、彼女の身体から出来るだけ遠くに離した。
「ぁ...」
「大丈夫ですか?」
彼女はきっと動揺していることだろう。
俺は落ち着かせるために出来るだけ優しい口調で問いかけた。
「だ、大丈夫...です...」
顔を真っ赤にして固まっている沙織さん。
「立てますか?」
「は、はい...っ」
彼女の身体を支えながらゆっくりと抱き起した。
「どこか痛いところは有りませんか?」
「だ、大丈夫...だと思います」
そう言いながら自分の身体を確かめている―――というワケではなく、頬を赤らめたままこちらを見つめていた。
「沙織さん?」
「え?あっ...!あ、ありがとうございました...っ」
慌てた様子でお礼を言う沙織さん。
別にお礼なんて言われる事はしていないけれど、そんな慌てふためく彼女の様子が可愛らしかった。
「いえいえ。大した事はしていませんよ。それより...何かお手伝いしましょうか?」
「そ、そんな...ご迷惑をおかけするわけには...」
きゅっと蛍光灯を抱きしめる沙織さん。
その表情は何か迷っている様子に見えた。
「どうせこの後は特に用事は無いので構いませんよ。それに―――」
「?」
不思議そうに小首を傾げている沙織さん。
そんな彼女に顔を寄せて囁いた。
「―――なんだか放っておけませんし」
「っ...!」
かあっと赤くなる沙織さんの頬。
...可愛いな、この子。
「そ、それなら...ちょっと手伝ってもらっても良いですか...?」
少し恥ずかしそうに上目遣いで懇願している沙織さん。
そんな目で見つめられて誰が断れるだろうか。
「もちろん。喜んで」
そんな彼女に笑顔で答えたのであった。
「...えへへ...」
ふわりと微笑む彼女に連れられ、俺は初めて海老沢家の敷居を跨いだ。
―――――――――――――――――――
「本当にありがとうございました...助かりました」
「いえいえ。日曜大工は趣味みたいなものなので楽しかったですよ」
その後、電球交換に始まり、家のちょっとした補修や椅子の修理などの軽いDIYのような事をこなしながら過ごした。
「それに、脚立に乗って行う作業や力仕事もありましたので女性一人では危ないですよ」
「はい...だから本当は魁人に頼んでいたんですけど...」
魁人...隣の男の子か。
確かに男手があれば難しくは無いが...まあ、彼にも彼の用事があるのだろう。
「忙しいなら仕方ないですよ。休みの日であればなんでもお手伝いしますのでお声がけください。近所ですし」
「ぁ...は、はいっ」
明るい表情で返事をしてくれる沙織さん。
...彼女の笑顔は癒されるな。
「あ、そうだ...黒沢さん、お昼ごはんはどうなさいます?作りますので是非とも食べて行ってくださいっ」
「良いんですか?」
手作り料理...両親や祖父母が亡くなって久しいので、長い事誰かの手料理を口にしていない気がする。
「はい。あ、それに...私の方が年下なので敬語じゃなくて大丈夫ですよ」
「そう?じゃあ遠慮なく...沙織ちゃんの手料理を御馳走になろうかな」
「はいっ」
輝くような笑顔の沙織さん改め沙織ちゃん。
少しサイズの小さな体操服の上からエプロンを纏い、対面式キッチンに立って料理を始めたのであった。
「えっと...なにか苦手な食べ物とかありますか?」
「特に無いよ。アレルギーも無いね」
好き嫌いも特に無い。なんでも美味しく頂く事が出来る。
「わかりました!」
そして、手際よく食材を調理し始める沙織ちゃん。
「手際が良いね...料理は得意なの?」
「そうですね~お母さんが忙しいので昔から料理は作っていました」
なるほど...確かに花蓮さんは仕事が忙しそうだ。
「偉いなぁ...俺はばーちゃんに作ってもらってばかりだったからな」
両親は小さい頃に事故で亡くなったので、俺は祖父母に育てられたのだ。
「おばあちゃんは料理上手だったんですか?」
「そうだね。特に茶碗蒸しが絶品だったよ。もう何年も前に亡くなったから食べれないんだけどね」
思い出すと少し寂しい気持ちになるんだよな...
「寂しいですね...それ...」
「そうなんだよ。じーさんも去年亡くなったから独りぼっちなんだ」
遂に天涯孤独という身の上になってしまったのだ。本当はひ孫を抱かせてやりたかったのだが...生憎と間に合わなかった。
「独りぼっち...ひょっとして、お父さんとお母さんは...」
「うん。小さい頃に事故でね。だから独りぼっち」
カタカタとリズミカルに響いていた包丁の音が止まった。
気になって彼女に顔を向けると、なぜか今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
「ご、ごめんなさい...こんなこと聞いちゃって...」
少し震える声で伝える沙織ちゃん。
「だ、大丈夫だから!沙織ちゃんが気にする事ないんだから。それに、友達もいるし会社の同僚や先輩もいるから孤独ってことは無いんだよ?」
慌ててフォローをしたのだが、沙織ちゃんの大きな瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「ご、ごめんなさい...その...私も...お父さんが死んじゃったときの事思い出しちゃって...」
そう言って包丁を持っていない方の手で目元を拭う沙織ちゃん。
...しかし、彼女が切っていたのは玉ねぎであった。
「あっ...いたたた...っ...!」
「さ、沙織ちゃん!早く洗うんだ!」
「で、でも...!」
...しまった。両手で玉ねぎを触っているじゃないか。
「...よし。こっちにおいで」
「は、はい!」
沙織ちゃんの手を引いて流しの方に顔を寄せた。
「触るよ?」
「は、はい...」
顔を流しに近づけている沙織ちゃん。片手に水道水を溜めて彼女の目元を洗う。
玉ねぎの沁みる成分は水溶性なので直ぐに落ちるだろう。
「もう平気?」
「はい...ありがとうございました...」
腕の中で俺を見上げる沙織ちゃん。
...偶然にも、俺は彼女を横から抱きしめるような姿勢になっていた。
「ぁ...」
沙織ちゃんもそれに気が付いたらしい。
口を半開きにして、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。
「...」
あまりの美しさに、俺も視線を奪われてしまった。
「ねえ...黒沢さん...」
「...うん?」
鈴の音のような美しい声。
「"勇太さん"って呼んでも良いですか...?」
桜色の柔らかそうな唇が紡ぐ音色。その言葉に否定的な言葉を返す気は起きない。
「もちろん構わないさ。好きに呼んで欲しい」
「えへへ...ありがとうございます、勇太さん」
ふわりと微笑む沙織ちゃん。
その笑顔に...再び心を奪われていた。
「...」
「...♪」
何も言わず、何もしない。
沙織ちゃんが少しでも嫌がる素振りを見せれば直ぐに離れるつもりだった。
しかし、沙織ちゃんは完全に俺に身体を預けており、両手で俺の左手を抱きしめている。
...おかげで俺の左腕は彼女の立派な双丘の感触に包まれていた。
「ふふふっ...なんだか不思議な気分です」
不意に口を開いた沙織ちゃん。
「どんな気分?」
「なんだか...凄く安心します」
柔らかい声色。それほど彼女がリラックスしていることが窺い知れた。
「...それなら良かった」
まともに会話したのは今日が初めてだというのに、これほどまでに身体的な距離が近いというのは...何か本能的に相性が良いのかもしれない。
「えへへ...♡」
俺たちはその後、花蓮さんが帰宅するまでお互いに触れ合っていたのであった...
..............................
「...それでは車と名義変更の説明は以上です。何か気になる事はありますか?」
帰宅した花蓮さんと共に食事を終え、夕暮れ時に海老沢家を出る準備をしていた。
「はい。何から何までありがとうございました」
ペコペコと頭を下げる花蓮さん。
「いえいえ。美味しいお昼ご飯も御馳走になりましたし」
そう言って沙織ちゃんに微笑みかけた。
「えへへ...」
ふんにゃりとはにかむ沙織ちゃん。
「ふふ...身内びいきもあるかもしれませんが、もう私より料理上手かもしれませんね」
愛おしそうな視線を我が子へと向けている花蓮さん。
...確かに、沙織ちゃんのような娘さんなら可愛くて仕方ないだろう。
「そんな...まだまだお母さんには勝てないよ」
謙遜している沙織ちゃん。
「そうかしら?最近はお仕事ばっかりで料理してないわよ?」
「この前してくれたでしょ。すっごく美味しかったんだから」
お互いを素直に尊敬しあえる母娘仲というのは素晴らしい事だ。
「ねえ、勇太さん。勇太さんも今度お母さんの手料理食べてみてくださいっ」
「それは嬉しいけど...花蓮さんは良いの?」
ちらりと花蓮さんに視線を向けた。
「どうぞどうぞ。ふふふっ...すっかり仲良しさんね♪」
距離が近い沙織ちゃんを見て柔らかく微笑んでいる花蓮さん。
母娘の両方からある程度の信用は得ているようだ。
「沢山おしゃべりしましたからね」
触れ合うほどの距離で...とは花蓮さんに言えないけれど。
「ふふふっ...そうですね♪」
楽し気な笑顔の沙織ちゃん。
すっかり懐いてくれて嬉しい限りだ。
「それではこれで。また遊びに来ます」
「はい♪...いつでもいらして下さいね?」
花蓮さんはそう言って、ぎゅっと俺の右手を両手で包み込んだ。
「...はい。また、近いうちに」
「はい。寂しくなる前にいらして下さいね?」
花蓮さんの優しい笑顔が堪らなく嬉しい。
「...ありがとうございます」
花蓮さんにも俺が天涯孤独の身である事は先ほどの会話でちらりと話した。
どうやら彼女も両親が既に他界しているらしく、娘の沙織以外に血縁関係は殆ど無いに等しいらしい。
故にここまで優しくしてくれるのかもしれない。
「では失礼します」
ぺこりと頭を下げて二人に背を向けた。
近所なので歩いて帰るとは説明済みだ。
「ふう...」
帰りが歩きであることは想定済であり、手荷物は出来るだけ減らしてきた。
「何食べるかな...」
ぼんやりと夕飯のメニューを考えながら歩く。
花蓮さんも沙織ちゃんも夕飯まで食べていかないかと提案してくれたのだが、さすがにそこまでお世話になる訳にはいかない。故に、丁重にお断りして帰路に就いている次第だ。
「まあ、適当に買いに行くか」
祖父が残したもう一台のオープンカーに乗って。
...ちなみに、今回売却した車両と色やグレードまで殆ど同じものだ。違うのはATかMTかの違いのみである。
―――――――――――――――――――
「それで、この質問には―――」
今日は日曜日。場所は再び海老沢家だ。
「なるほど...」
現在、この家には沙織ちゃんと俺の二人きり。
何をしているのかというと...
「まあ、これだけ受け答え出来るなら問題ないとは思うよ」
「えへへ...ありがとうございます」
沙織ちゃんの推薦入試の対策だ。
小論文や面接の練習がメインだ。一応、前職で近しい業務に携わっていたので教えることができる。...まあ、素人に毛が生えた程度だけど。
「でも、俺も殆ど素人だからちゃんと学校の先生にも教えてもらうんだよ?」
「はいっ。でも、本当にありがとうございます。お休みの日まで付き合ってもらって...」
申し訳なさそうな表情を浮かべる沙織ちゃん。
「全然良いよ。どうせ一人でいても暇してるだけなんだから。それなら君の声を聞いている方が何倍も有意義な休日だよ」
美しく愛らしい女性が目の前にいる方が時間の価値が上がるモノだ。
「えへへ...」
ふんにゃりと頬を緩める沙織ちゃん。
...ちなみに、今日も身体が触れ合える程の距離だ。
「ふぅ...」
「んぅ...っ...ふぁ...」
大きく伸びをしている沙織ちゃん。
長い腕に服が引かれ、ほっそりとしたお腹周りと可愛らしいおへそがチラリと見えている。
「座ったままでも疲れちゃいますね」
「少し緊張してると尚更だね」
面接は短い時間でもどっと疲れが溜まる。それは緊張が主な原因だ。
「うーん...緊張かぁ...」
何か悩みでもあるのだろうか?
「本番は緊張しそう?」
「あ、それはそうなんですけど...ふふふっ。勇太さんと練習してる間はあまり緊張しないので...本番では逆に緊張しちゃうかもしれないです」
はにかみながら言う沙織ちゃん。
...俺の事をそれほど信用してくれているのだろうか。
「それは問題だね...今度滅茶苦茶緊張しちゃう場面を作って特訓しようか」
「ど、どんな事をされちゃうんですか...?」
少し怯えた表情を浮かべる沙織ちゃん。
「そうだね...街中の駅前で街頭演説とか?」
良く考えるとそれを普通にこなす政治家さんって凄いな。
「や、やめてください...考えただけで足が震えちゃいます...」
「冗談だよ。まあ、とにかく練習して自信をつけるしかないね」
こういう事は場数をこなす以外に対策は無い。
「わかりました」
元気のよい返事だ。
...さて、練習も一段落ついたな。
「ねえ、勇太さん...」
「うん?」
沙織ちゃんが少し頬を染めながら俺を呼んだ。
「その...勇太さんって今...彼女居ますか...?」
彼女の唐突な質問に、一瞬だけ思考が止まってしまった。
「...今は居ないよ」
生憎と独り身だ。
「沙織ちゃんは...好きな人とかいないの?」
「私は...」
言葉を探している様子の沙織ちゃん。
「沙織ちゃんは可愛いから結構告白されるんじゃない?」
ちょっと踏み込みすぎたな。これではセクハラと思われても仕方ないじゃないか。
「そう...ですね。可愛いかどうかはさておき、結構告白はされちゃいます...」
少し恥ずかしそうに答える沙織ちゃん。
...よかった。不快ではないようだ。
「困っちゃう?」
「そうですね。今は彼氏欲しくなかったから...」
受験を控えたこの時期はそういう気分ではないのかもしれない。
「あ...でも、気になる人は...居ます」
頬を赤く染めながら小さな声で教えてくれた。
「青春だね~...クラスの子?」
「ううん...違います」
違うらしい。しかし、学校の同級生や先輩なのではないだろうか?
「...あっ」
ひょっとして...隣に住む幼馴染の彼だろうか?
「勇太さん?」
沙織ちゃんは唐突に声を上げた俺を不思議そうな表情で見つめていた。
「あ、いや...何でもないよ。その人に気持ちを伝えたい?」
「それは...でも、まだ...その人の事で知らない事が多いから...」
幼馴染の彼ではないのだろうか?それとも...まだ意識し始めてから日が浅いのか?
「ねえ、勇太さん...」
囁くような甘い声。
「うん?」
「あの...そっちに行ってもいいですか?」
現在、沙織ちゃんは学習机の椅子に座り、俺は二人掛けのソファに腰かけており、面接の練習の為にお互いに向き合っていた。
「もちろん。おいで?」
少し横にズレてスペースを空けた。
「ありがとうございます」
自分の部屋なので遠慮することは無いとは思う。
「っ...」
軽く軋むソファのスプリング。
「えへへ...」
ふわりと香る甘い匂い。
密着する程の距離なので、お互いの手が触れ合っている。
白く柔らかい肌は触り心地が良く、いつまでも触れていたくなる。
「沙織ちゃんは肌が綺麗だね」
「えへへ...ありがとうございます。お母さんの言われるがままにケアしています」
そういえば花蓮さんも肌が凄く綺麗だった気がする。
「でも、沙織ちゃんの歳だとそこまで気にしなくても良いんじゃない?」
「実はそうでもないんですよ?若いうちからきちんとスキンケアをしている方が良い...らしいですし」
どうやら花蓮さんの受け売りのようだ。
「そういう言えば聞いたことがあるな。10代の頃からアンチエイジング効果がある化粧品を使った方が効果が大きいって」
女性の上司が熱く語っていた気がする。
「あ、それ私も聞いたことがあります。...ふふふっ。女の子は大変なんですよ?」
いたずらっぽく笑う沙織ちゃん。
普段の清楚な彼女のおどけた一面が愛らしくて仕方ない。
「だから沙織ちゃんはこんなに綺麗なんだね」
少し仕返しだ。
「ぁ...えへへ...♡」
ふんにゃりと頬が緩む沙織ちゃん。
そして、少し恥ずかしそうに上目遣いでこちらを見上げた。
「ゆ、勇太さんなら...もっと触っても良いんですよ?」
「さすがにそれは...」
正直に言うと...触りたい。
彼女の滑らかな肌を、艶やかな黒髪を、健康的な白い太ももを、Tシャツを大きく押し上げる双丘を、桜色の柔らかそうな唇を。
「ぁ...」
気が付けば、俺は沙織ちゃんの頬に手を添えていた。
「綺麗だよ...沙織ちゃん」
「...だめ」
明確な否定。
拒絶されたと考えた俺は、彼女の肌から右手をはがそうとした。しかし―――
「まだ離しちゃだめです」
―――それは沙織ちゃん自身に阻まれた。
...一体何が"だめ"なのだろうか?
「沙織ちゃん...?」
「沙織」
彼女は自分の名前を口にした。
「え?」
「二人きりの時は...沙織って呼んでください」
呼び捨てをご所望のようだ。
「...沙織」
「はい...♡」
満足げに微笑む沙織ちゃん改め沙織。
「沙織...」
名前を呼ぶ度に、段々と心の距離が近づく気がした。
「勇太さん...」
囁くような甘い声。
そんな声で名前を呼ばれてしまえば...
「っ...」
「ぁ...」
徐々に顔を寄せ合い、どんどん距離が近くなる。
そして、肌で沙織の呼吸を感じる程に近づいたその時―――
「だ、駄目だ...駄目だよ」
慌てて距離を取る。
...危ない所だった。あと一瞬でも理性を取り戻すタイミングが遅れていたら...俺は彼女と口づけを交わしていたことだろう。
「あっ...」
切なく潤んだ瞳で俺を見上げている沙織。
まるで目の前で大切なおもちゃを取り上げられた子供の表情に似ている。
「気になる人が居るんだろ?その人だけにその唇を許すんだ」
一時の感情ではなく、彼女が想う大切な人とのその瞬間の為に。
「...そう...ですね」
複雑な表情を浮かべている沙織。
...しかし、彼女は未だに俺のシャツを掴んだままだ。
「沙織...お腹空いたでしょ?何か食べに行こうか」
「そうですね...お腹がすきました」
その後、なんとなく今朝より近い距離間で一日を過ごしたのであった。