―――――――――――――――――黒沢視点
「...」
消毒液の臭い。白い廊下。ずらりと並ぶ明るい色のダンパー付きの引き戸。
...病院というヤツはどうにも慣れない。
包帯だらけの両親が息を引き取る瞬間を目の当たりした時を思い出す。あの頃はまだ"死"というものがよく理解できず、どちらかというと泣き崩れる祖母や静かに涙を流す祖父を見て不安な気持ちを抱いた気がする。
そんな祖父母が亡くなったときは、もう大人なので昔ほど辛くはないのだが...果たして俺は祖父母に親孝行が出来たのかと後悔の念を抱いたモノだ。...それ以来、病院はなんとなく苦手だ。
「海老沢...沙織。ここか」
個室タイプの病室が並ぶエリアの一室。彼女の名前が記された病室のドアをノックした。
『はい。どうぞ』
いつも通りの綺麗な声だが、感情の起伏が無いフラットな声色だ。
「入るよ、沙織」
一声かけて引き戸を引いた。
「ぁ...」
病室内のベッドに腰かけている沙織。
無表情に近い彼女であるが、少し口を開いてこちらを見ていた。
「こんにちは、沙織」
大きな声を出さず、笑顔で声をかける。
「こんにちは、勇太さん」
彼女はふわりと微笑み返してくれた。
...落ち着いてきたみたいだな。あの境内でおきた事件の後、沙織は直ぐに病院に運ばれた。一応、魁人君も検査を受けたのだが、彼の方は軽傷であった。
しかし、沙織は間一髪で挿入を免れたとはいえ強姦に等しい行為を受けており、ケガも負っている。幸い骨折は免れているが、しばらくは療養が必要との事だ。
「具合はどう?まだ痛む?」
パイプ椅子に腰かけながら尋ねる。
「はい。少し痒いですけど、もうそこまで痛くないです」
力なく微笑む沙織。無理をしている様子は無いが、どうにも元気はない様子だ。
「それなら良かった。...あ、この距離でも平気?」
俺と沙織の物理的な距離の話だ。
「はい。...もっと近くても大丈夫ですよ?」
どうしてこんな事を聞くのかというと、それは沙織が受けた被害を考えれば当然だろう。
入院した翌朝、目を覚ました沙織は男性を少し怖がっていた。
事件が事件なので管轄署の刑事さんが訪れていたのだが、沙織は何とか受け答えをしているという状態で、終始花蓮さんに手を握られていないと落ち着かない様子であった。しかし、俺は割と近い距離で接しても平気らしい。
「そう?それなら...」
しかし、本人がもう少し近づきたいというのならば―――
「これくらいでも平気?」
手を伸ばせば触れ合える距離まで近づいた。
「っ...!」
ビクンと身体を震わせる沙織。その表情に怯えのようなものは無く、ほんのりと紅潮した頬からはまた別の感情が見えていた。
「沙織、これでも平気?」
「ぁ...えへへ...平気です...♡」
白く透き通るような柔肌の感触。俺は沙織の手を握っていた。
「それなら安心したよ」
頬を緩める彼女に微笑み返し、ずっと手を握り続けた。
「あ、そうだ...勇太さん、キリュウさんってご存じですか?」
「知ってるよ。君も会ったことが有る人だよ」
「え?」
キリュウさん...
「覚えてない?ほら...お寺で俺と一緒に来た女の人だよ」
「あ...」
沙織も思い出したらしい。
「桜先輩がどうしたの?」
「あ、はい。お母さんに電話がかかってきたらしいです。事件の捜査関係者だと仰っていたそうです」
「...そういうことか」
「あの...鬼柳さんってどんな方なんですか?」
「どんな方...か...」
さて、どう答えたモノか。
桜先輩が只者ではない事は既に分かっていることだろう。
「まあ、捜査の関係者というのは間違いじゃないよ」
一応、犯人の身柄を確保しているのは警察ではない。
「そうなんですね...?」
よく分かっていない様子だ。
「それより...桜先輩は今日来るの?」
「はい。多分、もうすぐいらっしゃると思います」
なるほど...まあ、大丈夫か。
「そうか...俺も同席しても良い?」
「はい!...寧ろ、勇太さんが側に居ないとちょっと不安です」
沙織が握る手に少し力が入る。
「大丈夫。君が嫌だというまで側にいるよ」
少しキザなセリフだと思うが、案外沙織はこのような言い回しが好きらしい。
「えへへ...♡」
この緩んだ笑顔がその証拠だ。
俺も思わず頬が緩んでしまう。
「よしよし」
自然と頭を撫でていた。
「ふふふっ...凄く安心します...お兄ちゃんってこんな感じなのかもしれませんね」
「お兄ちゃんが欲しかったの?」
沙織はしっかり者で母性的なところがあるので、欲しいのは弟や妹だと思っていた。
「はい。弟や妹、姉や兄...とにかく兄弟が欲しかったんです。だから...ちょっとだらしない魁人を勝手に弟扱いしていた所もありました。でも...本当はお兄ちゃんが欲しかったんです。魁人はそういうタイプじゃないから諦めていたんですけど...だから今まで付き合った人も年上ばっかりだったのかもしれないです」
「という事は...どちらかというと年上が好み?」
父親が居ない女の子は年上の男性を好む傾向にあるのかもしれない。
「...確かにそうかもしれないです。中学生の頃に一度だけ同級生と付き合っていましたけど...直ぐに別れちゃいましたし。だからその前にも後にも他の彼氏は年上ばかりでした。...だから魁人も恋愛対象にならないのかもしれないです」
なんと...魁人君は沙織に気があるような素振りを見せていたのだが...どうやら希望は薄いようだ。
「でも...1つや2つ年上の人はあんまり変わらないんです。今年の1月くらいまで同じ学校の先輩と付き合っていたんですけど、なんだかやっぱり子供っぽくて...あ、別に子供っぽい男の人はイヤじゃないんですよ?」
「そうなの?」
どう違うのだろうか?
「なんというか...普段の立ち振る舞いは大人っぽくても、時々子供っぽい所を見せてくれる男の人が好きなんです。例えば―――」
沙織はふわりと微笑み、俺の手を両手で包み込んだ。そして...俺の耳元に唇を近づけた。
「―――目をキラキラさせて私の手料理を食べてくれる人...とか♡」
甘ったるい声で囁く沙織。
それが誰に対して向けられた言葉なのか...察することが出来ない程、俺は鈍感ではなかった。
「沙織...」
「勇太さん...私...っ...」
視線が絡み合い、段々と唇が近づいていく。
互いに吐息を感じるまで顔を寄せて、そして―――
―――コンコンコン
「...!」
「...っ...!」
突如、病室の扉がノックされた。
「...海老沢さん。お電話致しました鬼柳です」
女性の声。落ち着いた低めの声だ。...しかし、それは作られたものであり、地声はもっと可愛らしいモノであることを知っている。
「は、はいっ。どうぞっ」
慌てた声色の沙織。
「失礼します」
静かに開かれる病室の引き戸。
...身体は急いで離れたのだが、手は握ったままであることに後から気が付いた。
「...おや?」
姿を見せたのは...スーツ姿の小柄な美人だった。扉の奥には屈強なスーツ姿の男が二人立っている。
「お疲れ様です、桜先輩」
「黒沢くん...」
ちなみに、桜先輩は地元の先輩だ。...今回、先述した"とある人物"と一緒に桜先輩にこの件の処分を依頼したのだ。
「桜先輩、先日はありがとうございました」
立ち上がり、頭を下げる。
「いえ...こちらこそ、末端とはいえウチに関わりのある連中の不手際でご迷惑をおかけしました」
桜先輩も頭を下げていた。
「桜先輩が謝る事なんでありませんよ。どうやら勝手に名乗っているだけで関係者でもなかったと聞きましたよ?」
「ええ。志賀連合所属の宇摩組にも確認を取りました。どうやら、不良連中の一人が宇摩組の末端構成員の身内とのことです。なので、宇摩組含む志賀連合には責任を取って―――おっと」
マズい事を口走ったと言わんばかりにワザとらしく口元を押さえる桜先輩。
...この人を怒らせるという事は、早めに死神に挨拶に行く事と同義である。
このままでは沙織が怯えてしまうな。話題を変えよう。
「ところで、先輩はお元気ですか?」
「ええ。先輩とは昨日もセック―――夜を共にしましたし」
ここで言う"先輩"とは、先ほどから話題に上がっている"とある人物"の事だ。
「なっ...!」
平然ととんでもない事を口走る桜先輩と、顔を真っ赤にしている沙織。
「誤魔化せてませんよ」
「セックスしました」
「言い直せば良いという事でもないですよ」
あまり取り繕う事をしない人だ。
それに...容姿も含めて"逆らえばシャチの餌にされる"という物騒な噂話をされている人物とは思えない。
「冗談はここまでにして...こんにちは、海老沢さん。沙織さんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「あ、は、はい。どうぞ...ご自由に...?」
さすがに動揺している様子だ。
「大丈夫、悪い人じゃないから」
握られていない手で沙織の両手を撫でた。
「そ、それは何となくわかるんですけど...」
「ええ。あなたのお母さまにご説明した通り、私は捜査関係の者です」
「え?」
「...黒沢くん、冗談なら後で聞きますよ?」
「...ごめんなさい」
先ほどまで大声で裏社会との関わりを口にしていた裏社会の大物が平然と身分を詐称しているので素の反応が出てしまった。
「ごめんなさい、話が逸れましたね。沙織さん具合はいかがでしょうか?」
「あ...えっと...もう、痛くは無いです」
「そうですか...安心しました」
優しく微笑む桜先輩。すると、沙織は恐る恐るといった様子で口を開いた。
「あの...少しお聞きしても良いですか?」
「ええ。なんでもお答えします」
「ありがとうございます。その...あの人たちはどうなるんですか?」
不良共の事だろう。
「........刑事訴訟されます」
本来であれば、と小声で付け加えた。
「そう...ですか...」
しかし、沙織はどこか不安そうな表情だ。
「沙織、大丈夫?」
手を握りながら尋ねた。
「ぁ...は、はい...」
大丈夫だ、とは思えない返答であった。
「沙織、何か不安なことが有れば何でも話してくれ」
手を優しく握りながら諭す。
「それは...」
不安げな表情で視線を逸らしている。
「なんでも力になりますよ」
桜先輩のこの言葉は本当に頼もしい。
「あの...聞いたことがあるんですけど、性犯罪者って...再犯率が高いんですよね?」
「...そういうデータもある」
再犯者の7割近くは性犯罪者という話だ。
「もし、その人たちが刑務所から出てきたときに、また襲われるかもしれないと思うと...ちょっと怖くて」
その怯え方は"ちょっと怖い"という程度モノではなかった。
...だから、俺は桜先輩たちに依頼したのだ。
「安心してください。連中は二度とあなたの前に姿を現しません」
「でも、そんなこと...」
確かになりふり構わない相手は法的な拘束力が効かない場合がある。しかし、桜先輩の恐ろしさはそんなものではない。
「いえ、これは断言できます。そうですね...あなたが他言しないと約束できるなら、少し教えてあげましょう」
「...っ...」
こくりと頷く沙織。
「...」
桜先輩は俺にちらりと視線を向けた
「...」
小さく頷いた。
これから沙織が知る秘密について、俺が連帯責任を持つように...という意味だろう。
「...わかりました。ではお教えしましょう」
そう言って桜先輩は沙織に顔を寄せた。
「...彼らが行くのは刑務所ではありません。帰り道の無い海外旅行です」
「え...?」
困惑している様子だ。
...やはりそうか。恐らく、沙織を襲った不良グループは既に"買い手"がついているのだろう。
他に何人も襲い、強姦や恐喝や暴行を繰り返していた連中だ。情けをかけてやるつもりはないが...彼らの末路を考えると多少は憐れに思う。
「沙織、こいつ等はもう二度と君の目の前に姿を現す事が無いということだけ覚えておくといい」
「わ、わかりました...」
薄っすらと察したのだろう。沙織の表情に多少の怯えが見える。
「...」
それでも表情を変えない桜先輩。...しかし、俺は長い付き合いなので分かる。若い女の子に怯えられて多少は傷ついている表情だ。
「...では、私は急用が出来ましたので。黒沢くん、また今度」
「はい。この度はありがとうございました」
俺は椅子から立ち上がり、小柄で愛らしい先輩に頭を下げた。
「...何のことでしょう。私はただの"捜査関係者"です」
パイプ椅子を片付けて、桜先輩は病室の入口へと歩む。
「...ああ、そうだ」
しかし、桜先輩はもう一度こちらに顔を向けた。
「私は早々に出ていきますので、この後は"続き"をどうぞ」
「なっ...!」
"続き"と言いながら自らの唇をトントンと人差し指で叩いている。その後、桜先輩はいたずらっぽい笑みを浮かべながら病室を後にしたのであった。
...あの人、まさか見ていたのか?
「ゆ、勇太さん、続きって...まさか...」
「...見られていたのかもね」
しばらくの間、俺たちは手を握り合ったまま視線を逸らしていた。
しかし、その沈黙も長くは続かない。
「ねえ、勇太さん...」
沙織が静かに口を開いた。
「うん?」
「...私の唇...まだ汚れている気がするんです」
沙織は不良連中の肉棒を無理やり口腔内に捻じ込まれた。
それだけで済んだ、というのは無神経な発言かもしれない。それでも沙織は大きく傷ついたのだから。
「そんなことは...」
「ううん...まだ、足りないんです。だから...」
潤んだ瞳で俺を真っすぐに見つめている。
「あなたの唇で...私を綺麗にしてください」
「...俺なんかにそんな大役が務まるかな」
握り合った両手。絡み合う視線。もう何も俺たちを遮る障害は無い。
「もう...あなたにしかできません」
ふわりと微笑む沙織。
「それじゃあ...俺にその役を務めさせてもらうよ」
「ふふふっ...はい。お願いします...♡」
ゆっくりと沙織の隣に腰掛けた。
「沙織...」
「ぁ...」
片手は沙織の手を握り、もう片方は柔らかい頬を撫でる。
「勇太さん...」
蕩けるような甘い声で名前が呼ばれている。
耳朶に響く優しい声が心地良い。
「沙織...」
ゆっくりと、ゆっくりと顔を寄せ、そして...
「ん...」
「んっ...♡」
そっと唇を重ね合わせた。
「んっ...」
「んぅ...っ...♡」
どれくらいの間、俺たちは口づけを交わしていたのだろうか。
「ちゅ...ふぁ...♡」
すっかり蕩けた表情の沙織。
...大きな瞳に映る俺も似たような表情だ。
「えへへ...♡」
"幸せな笑顔"とは何か。その模範解答は、きっと今の沙織の表情の事を指すのだろう。
「沙織...その...好きだよ」
「えへへ...私も、勇太さんの事が...大好きです...♡」
囁くような甘い声。
そして―――
「おっ...と」
沙織は思い切り抱き着いてきた。
「ふふふっ...こんなキス...初めてです。今までで一番...ドキドキしています♡でも...一番...幸せな気持ちになりました...♡」
「偶然だね。君より長い事生きているけど...俺も今のキスが一番良かった」
なんというキザなセリフだろうか。
「えへへ...♡」
しかし、沙織はそんな甘ったるい言葉でも満足そうだ。
「ねえ...勇太さん。もっと...」
再び甘えるような切ない表情を浮かべ、今度は両手を伸ばして抱き着いてきた。
「おいで...沙織」
そんな彼女を受け入れて、俺と沙織は何度も何度も舌を絡めあっていたのであった。