未来も希望もない戦場で必死に生き残ってたらモテモテになった件(ハーメルン版) 作:SIS
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ただ個人的にとても気に入ってる作品ですので、また折に触れて短編を追加するかもしれません。その時はまた、よろしくお願いします。
ハーメルンでは他にも全年齢で『異世界スピノ』『骸骨皇子の王朝復活ハネムーン』という作品を投稿しています。もし、私の作品が面白いと思っていただけたら、是非そちらも読んでいただければと思います。
あと、肝心の部分を付け足し忘れてたので追加しました。
「参ったな、通信塔が不調だなんて」
「だな。まあ仕方ないさ、この惑星で通信設備の不調だなんて大事だ」
「そうだな。しっかし、何もこんな時に故障しなくても。御曹司様がご帰還成されてみんなお祝いムードなのに、俺たちだけこうして寒い山の中に出張か」
「インフラ関係者の辛いとこだな、はは」
夜の雪山を、軽口をたたきながら二人の作業員が山を登っている。
彼らは、近くの里村のインフラ管理を担う事業者だ。惑星ウィンザードには当然、点在する人類の生存権をつなぐ有線ネットワークは存在しない。全ての村落は事実上の孤立状態で自給自足で生活を成り立たせており、そんな彼らをつないでいるのが無線通信だ。惑星規模で通信をつなぐには、いくつか通信塔を一定間隔で立てなければならない。
そのうちの一つ、街の最寄りの通信塔が不調を示したことで、ネットワークの通信速度に影響が出ていた。作業員はその確認に来たのだ。
「ま、急に通信量が数倍になったからな。老朽化してたところにガタが来たんだろ」
この時点で作業員に危機感はなかった。
通信塔は惑星ウィンザードの狂暴な動物から守る為に強固な装甲で覆われたピラミッド状の施設だ。破壊しようと思えばミサイルでも撃ち込まなければならないため、いくらウィンザードの固有生物が狂暴でもそうそう破壊される事はない。とはいえ、それでも完ぺきではないのも現実だ。大自然の猛威というのは、生物には想像もつかない破壊を招く事がある。
とはいえ、そこまで大げさな事にはなっていないだろうと作業員は楽観視していた。ここ最近はちょっと吹雪いたぐらいで、施設を破壊するような天候は確認されていない。
勿論、油断はしていない。
先ほども言ったようにウィンザードの環境は人間には厳しく無慈悲だ。軽口をたたきながらも不安定な足場に注意を払い、野生動物を警戒して手にはレーザーライフルが握られている。防寒コートは内部に拡張骨格が仕込まれており、万が一接近を許しても大抵の相手ならなんとかなる。
あくまでも彼らはプロだ。一見気を抜いているようでも、最低限の備えは欠かさない。
だが、そのプロである彼らは、通信塔の元にたどり着いた時には言葉を失っていた。
「こいつは……」
彼らが呆然と見上げるのは、通信塔の装甲ピラミッド。底辺が一辺10m、高さ7mほどの装甲の四角錐。飾り気がないどころかピカピカに磨かれて凹凸一つない表面は、晴れた日にはピカピカ光って目に痛いぐらいだ。使われているのは宇宙巡洋艦の装甲と同じ材質であり、ちっとやそっとで破壊される代物ではない。
その、通信塔の外壁が。
何か、鋭いもので引っかかれ、破損していた。
「なんだこれ……」
「動物の爪痕、か?」
驚愕しつつも、一人が自発的に周囲の警戒をはじめ、もう一人が破損個所に近づいて確認する。みると、ただ蹴破られた、破壊された、というよりも、強い力で切り裂かれて破断したようだ。冷静になって観察してみると傷口は三本の爪痕の形状をしており、内部からは火花を散らす通信装置の様子が見える。
内部に何か用事があった訳ではなさそうだ。あくまで装甲版を破壊するのが目的だったように見える。
作業員の脳裏をかすめたのは、木に時折刻まれている獣の爪痕だ。確か縄張りを示すもので、人里近くで発見された場合、すぐに総督府に連絡する事になっていたはず。
いや、でも刻まれているのは木じゃなくて通信塔の装甲だが。
「どうする……?」
「どっちにしろ総督府に連絡だ。緊急回線なら通じるだろ」
とにかく、たった二人の人員で対応できる問題でもない。今はとにかく、この情報をもって人里に戻るのが最優先だ。もしここで二人がこの傷をつけた主に襲われて殺されたりしたら、事態の発覚が何週間も遅れてしまう。
二人は偉い事になったと顔を緊張に引き締め、通ってきた道を急いで戻り始めた。
「ん?」
その前に、周囲を確認していた作業員が足元に落ちている一本の毛に気が付く。
手に取ってみると、それは硬質で、きらきらと光を浴びて煌めていている。
「体毛……?」
「銀月が出たらしい」
その日、ウィンザード家はいつものように平和だった。
居間では五人の妻がそろってルーの相手をしている。リリーナとミリシアが温かいコーヒー片手にテーブルについて談笑し、イオリとニーナが走るルーを拍手しながら追い回し、ネルスはルーがこけてしまわないかハラハラしながら見守っている。ルーは終始笑顔で、母親が五人もいる事に一切の疑問を抱いていないどころか、常に誰かが相手してくれるのでご満悦である。キャハハハハ、と無邪気に笑ってついには転ぶも、毛の深い絨毯に受け止められてすぐに起き上がって走り出す。
ちょっとおかしな点もあるが、概ね平穏な一家の団欒光景。
そこに戻ってきた一家の大黒柱であるアレックス・ウィンザードはしかし、やや緊張気味に家族に伝えた。
「銀月?」
ルーの相手をしていなかったミリシアが一番に反応する。きょとんとする彼女とは正反対に、対面のリリーナは口元を押えて何やら心当たりのある反応をしている。
その向かいに椅子を引いて腰掛けながら、アレックスがああ、とうなずいた。
「そ、銀月。ここらで出る野生動物でも特に凶悪なシルバーズ・タイタン、その特にヤバイ奴をそう呼んでる。10年おきぐらいに出るんだが、いよいよその時期になったか……」
「んー? 何、それそんなに厄介なの?」
「ああ」
「アレックスさんが厄介っていうレベルかぁ……」
頬をひきつらせながらミリシアが記憶を漁る。
惑星にきてしばらくが経過し、この星の危険な動物については一通り説明を受けている。やはりというか、特に大型の肉食動物には注意するように言われた。その中でも特に印象深いのが、全長4mを超える巨大なクマのような怪物だ。シルバーズ・タイタンというその怪物は、脅威度と裏腹に惑星全体に生息している。それだけ聞くと非常に危険に思えるが、彼らは知性が高い。故に、自分達を殺しうる人間の生息圏にはめったに近づかないというが、絶対ではないので注意するように、とも言われていた。
まあ、それでも所詮野生動物である。戦車を破壊しうる異星生物の制圧級や、特殊部隊の精鋭を圧倒する代行級に比べれば、大した脅威ではないはず。
だが、その制圧級やら代行級をタイマンで仕留めるアレックスという規格外兵士が厄介というと、どれぐらいの脅威なのかちょっとぴんとこなかった。
それを、地元民であるリリーナが補足した。
「銀月はシルバーズ・タイタンと遺伝子上は同じ生物とされていますが、実質的には全く別の生き物です」
「そうなの?」
「はい。もともとのシルバーズ・タイタンも4m近い全高の甲殻と毛皮で覆われた体をもった狂暴な怪物ですが、銀月と呼ばれる個体はさらに異常な姿をしています。背中から第三の腕が生えて三本腕、爪も大きく発達し、眼も複数存在し、その場所も顔前方に限らず、後頭部などにも備わっています。また、内臓の形状も大きく変化し、脊椎部分が特に異常肥大化、第二の脳ともいえる器官を腹部に形成し、反面本来の脳は大きく機能が低下しています。そのせいか、トータルでみると知性が落ちており、つまり人間の脅威を理解せず人里に近づく事が増えます。なのでウィンザードでは昔から、不幸の前兆として嫌われています」
「まって、まって」
さらっと説明される理解しがたい情報に、ミリシアが頭を抱えてストップをかける。理解が追いつかない。
腕が三本? 脳が二つ?
「同じ生き物なのそれ???」
「ウィンザードの月であるアマルナが原因らしい。この衛星には希少鉱石が多数含まれているんだが、そのせいで宇宙線が特殊な反射をするんだそうだ。その特殊な宇宙線が地表に降り注ぎ、その影響を受けたシルバーズ・タイタンの一部が遺伝子的変異を起こして生まれるらしい。いわゆるミュータントだな」
「ふぅーん……。それで、その銀月をどうするの? 聞いた感じ、猟師の手に負えるような獣には聞こえないけど」
ミリシアはあまり興味がなさそうに半眼で、ルーとキャッキャしてる三人娘を見つめながら聞き返す。実際の所興味がないというよりそろそろ混じりたくなってきた頃合いだったのだろう。
「そうだな。コイツ相手になると、惑星防衛軍を動かすのが通例だ。猟師が地上で捜索して情報を送り、対地攻撃機を出して仕留める。そうでないと被害が無駄にでかくなるからな。だが……」
「そうでした……。今、惑星防衛軍は戦力のオーバーホール中なのでしたね……」
リリーナが困りました、と頬に手を当てる。
惑星防衛軍は、文字通り惑星を守護する防衛組織だ。植民惑星ウィンザードは、異星生物との戦線から遠く離れた場所にある星だが、異星生物の脅威はなくとも宇宙海賊のような犯罪者の脅威が全く存在しないわけではない。故に、そういった外敵から領民を守るための軍が存在する。
だがその性質は自警団に近く、装備も予算的に限られている。一応、宇宙海賊を迎撃するための宇宙攻撃機だけは二機、常にフルスペック、フル装備で衛星軌道上の防衛ステーションに配備しているが、それに予算を取られすぎて地上軍は悲惨なものだ。長年、ジャンク品などから部品を継ぎ接ぎしてなんとか維持してきた攻撃機が一機、戦車が3輛……そのぐらいだ。それでも、狂暴な野生の獣を相手にするぐらいならなんとかやれてきたのだが、数年前のアレックス達が徴兵されてから少し事情が変わってしまう。本来、そういった設備、組織の管理や維持を行う次世代の人間が抜けてしまった事で引継ぎに問題が生じた他、またそれから数年間通常の税も大幅に値上げされた事で、とうとう戦力の維持もままならなくなってしまう。それでも、安全を保障されてない事を覚悟で運用を続けていたのだが、今回惑星ウィンザードが封鎖惑星となり監視のための巡洋艦が派遣された結果、そのあたりが大きな問題になった。
予算に関しては軍が出してくれる(そもそも税金の徴収自体、柱の信者達が絡んだ陰謀であった訳で)事となり、今現在急ピッチで組織の拡充と見直しが行われている。その一環で、長年使われてきたオンボロ兵器達も、今は時間をかけて休養中、という訳だ。
思ったよりも余裕がない話に、ミリシアが眉を顰める。
「あれ、じゃあどうするんです? 巡洋艦に積んでる機体を貸してもらうんです?」
「まあそれもありだが、そうするぐらいならいっそ巡洋艦に砲撃で吹っ飛ばして貰う方が早いかもしれんな。どっちにしろそれは最終手段だ、こっちでやれる事やってからにする」
「やれる事って……あ、まさか」
仕留めるのに航空機を持ち出すような獣が相手である。装備がオーバーホール中なのに何ができるのか、と考えたミリシアは、はっとして目の前の人間に視線を戻した。
そうである。
ここには、全長5mの巨大ヤドカリの化け物やら、時速60kmオーバーで走ってくる切り裂きヒトデとやりあえる人間なのかおかしい人がいるのである。
アレックスはしれっと頷いた。
「ああ。おれが直々に銀月を狩る」
尚。
奥さん全員から猛反対された。当然である。
「だから大丈夫だって言ってるじゃん……」
「そういう問題じゃありません」
総督館の地下。シューティングレンジも備えられた武器庫で、アレックス達が狩りの準備を整えていた。
ブツブツ文句をいうアレックスのほかに、ネルスとイオリの姿がある。三人とも、かつて袖を通していた軍のアーミージャケットに袖を通し、プラスチックアーマーを手際よく装備している最中だ。樹脂でできたアーマーは、寒冷惑星での運用も想定しており、極寒の雪原でも凍傷を引き起こしたりはしない。もともと宇宙規模で展開していた人類軍の装備だけあって、ありふれているようでよく考えられているのだ。いうまでもなく惑星防衛軍の装備よりも優秀である。
ただ、武装だけは違う物を運用する。
軍で支給されていたようなレーザーライフルではなく、火薬式、それも連射を想定していないボルトアクション式だ。これにはいくつか理由がある。
まず、ターゲットとなる銀月の特性だ。銀月の毛は、半透明の角質が特殊な形で付着しており、断面が三角形になっている。これが天然のプリズムとなり、レーザー系の攻撃の威力が激減するのだ。名前の由来でもあるこの光を反射して煌めく毛皮は、恐らく雪原での環境に適応した結果だと考えられているが、そもそも銀月は突然変異のミュータント体だ。あまり合理的な理由とは考えない方が良いだろう。まあとにかく、そういった理由で本来生物特効であるレーザー兵器は適切ではない。
そして次に環境だ。人間が棲める程度とはいえ極寒のウィンザードの環境では、レーザー兵器はその威力を発揮しづらい。雪というのは思ったよりもマイナスの熱量を大きくため込んでいるため、その環境では熱で対象を殺傷するレーザー兵器の加害能力はおちる。またバッテリーは低温に弱く、低温環境下に置いておくと思ったよりも早く電力切れに……となりかねない。
そういった理由で、ウィンザードの環境で銀月を狩るなら火薬を用いた実弾銃が有効だ。
とはいえ、火薬銃ならなんでもいいわけではない。ある意味レーザーガン以上に故障しやすい火薬式の銃は、やはり低温環境での運用には適さない。連射式の複雑な構造の銃は到底望むべくもなく、その結果、原始的ともいえるボルトアクション式の長銃がこの星では現役なのだ。
ただ、銃を持つのはアレックスとネルスだけだ。妻の中から実戦能力と適正で選ばれた二人だが、イオリには実銃の運用経験がない。一応、護身用にレーザーライフルを持たせたうえで、補助に回ってもらう事になる。
ニーナとミリシアはお留守番だ。ミリシアは操縦テクニックこそ優れているが、兵士としては並み。ニーナは最近肉体鍛錬を怠っていたのが仇となり除外とあいなった。まあ別に退役したからふにふにでも問題はなかったのだが……。
監視といっても過言ではない二人の様子に、アレックスは子供のように唇を尖らせて文句を言う。
「俺としてはお前ら連れてく方が不安なんだけど……」
「一人で行くとか言い出すからです、まったく」
「ん。アレックスさんのそういう所、ちょっと悪い癖だと思う」
「別に無茶はしないって。十分余裕もって狩れると思ったから言っただけなんだけど……。どんな奴かしらない防衛軍の連中を連れて行っても、船頭多くしてなんたら、って奴だろ」
「だったら私たちなら問題ないですよね? 気心知れた仲じゃないですか」
「そういうお前らこそウィンザードの雪山甘く見てないか……?」
イオリもネルスも、テコでもついてくるつもりである。そもそも、最初はミリシアにニーナ、挙句はリリーナまでついてくると言い出したのを、なんだかんだ言いくるめて二人にまで絞り込んだのだ。これ以上は互いに妥協できそうにない。
「はあ。全く。仕方ないな、俺から離れるんじゃないぞ」
「「了解!!」」
軍の時のように、ぴしりと敬礼して返事をする二人。全く調子がいいんだから、と肩をすくめながら、アレックスは軍服の上から最後に、ウィンザードの獣の毛皮で作ったコートを羽織った。首回りに狼の上半身があしらわれた、高級感溢れる逸品だ。この狼は、かつてアレックスがこの星で狩った群れのボスである。
灰色のそれは、アレックスの白髪交じりの黒髪によく似合う。仕立てのよいコートを羽織った彼は若き王のような佇まいであり、イオリとネルスは思わず見入ってほぅ、と息を漏らした。
忘れがちだが、彼女らの愛する夫はそういえば平均より上の容姿であった。戦場だと容姿なんてどうでもよかったし、ベッドの中ではそれ以前の問題なのであまり気にしなかったが。
まじまじ見つめられて、居心地悪そうにアレックスは襟元を正した。
「な、なんだよ、そんなにジロジロ見て……。ほら、いくぞ。……ん?」
ぴくり、とアレックスが動きを止める。疑問に思う若妻達だったが、すぐに理由は知れた。
ドドドド、と人の走る音が近づいてきている。彼女らよりも感覚が鋭いアレックスは速く気が付いたのだろう。
やがてその足音は武器庫の前で止まり、一瞬おいてドアが勢いよく開け放たれた。
その向こうにいるのは、恰幅の良い熊のような大男の姿である。走ってきたせいか顔を紅潮させている彼は、ウゲ、というアレックスの表情にもかまわず、胸を張って叫んだ。
「話に聞いたぞアレックス! 銀月を黙って狩りにいこうだなどと、お前は自分の立場が分かっているのか! 私もつれていけ!」
二人そろって若妻が視線をアレックスに戻す。御曹司は額に手をあてて、頭痛を堪えるように頭を抱えていた。
「こうなるから黙ってすまそうと思ってたんだよ……」
昨晩の雪ですっかり白銀に染め上げられた大雪原。まばらに針葉樹の森が点在する氷結の荒野を、何人もの人間が一定の距離を開けて進んでいく。互いに互いをカバーし合いながら調査網を広げていくのは、ウィンザードの猟師組合の者達だ。
猟師、と聞くと、一般的には準戦力……あくまで市民生活の隣にある、害獣等の駆除を目的とした市民団体という印象を抱くだろう。
しかし実際の所、例え他の星の猟師であっても、兵士にはない特殊なスキルを備えたある種の特務兵であるのが事実だ。兵士は上の命令に従って過酷な任務に耐えられるよう肉体を鍛え、長距離でも銃弾を命中させられるよう訓練を積むが、それらと獣を追う能力というのは全く別のものだ。得物として銃を使うというのが同じだけで、地理に精通し、僅かな痕跡から標的の獣の存在を確定させ、傍目からでは判別不可能な獣道を探し、ついには隠れ潜む獣の急所を狙い撃つ。またただ獣を狩るだけではなく、それによって発生する自然への影響も考慮し、人と獣の間に調和を保つ。それが猟師というものである。
だが惑星ウィンザードにおいてはそれだけでは足りない。植民惑星であるウィンザードにおいては、人と自然とのはっきりとした境界線が設けられておらず、また大自然の猛威は未だ人を圧倒している。そして生息する獣も非常に強靭かつ凶暴であり、猟師に求められる能力もより厳しいものとなる。
故に、惑星ウィンザードの猟師は皆全て惑星防衛隊の成績優秀者から選抜され、厳しい訓練を受けた精兵である。通常よりも厳しい訓練を受け、一般的には許可が降りない強力な武装の使用を許された彼らは、かつては人類軍に徴兵されても活躍し、名を轟かせた時期もあった。
要塞惑星マビノの誇るマージシャン。
有毒惑星スコーアの誇るスコーア・ガイスト。
そういった、少数でありながら、否、少数だからこそ名を知られる特殊兵の中に含まれるような精鋭集団が、極寒惑星ウィンザードのビースト・イェーガーなのである。かつてはアレックス自身もまた、その一員であったのは言うまでもない。
もっとも、そういった精兵集団は、いつしか人類軍の中で姿を消してしまった。アレックス達がそうであったように、次世代の芽があらぬ形で潰されてしまったのか、今や人類軍の中にそういった他と比べて際立つ特殊戦力はもう残っていない。これもまた、堕ちた星見達の陰謀だったのかは未だ混乱の中釈然としていないが、口惜しいが彼らからすれば、測定不能とすら言われる人類総軍の中でなお名を馳せる精兵たちは、生贄として目を惹いたのかもしれない。
そのせいか、雪原を探索する狩人達は皆年老いているか、逆に酷く年若い者達ばかりだ。
アレックス達の犠牲で、その同年代の徴兵は最小限に抑えられたが、だからこそ彼ら彼女らが防衛軍に回される事はなかったからだ。上級市民ともいえる引き抜かれた者達の穴埋めに彼らが回された事で、軍にはぽっかりと一定の年齢層が欠ける事になったのである。
そんな歪な集団の中で、ウィンザード一家の姿は酷く目立っていた。彼ら彼女らは、その欠落した適齢層であるからして。
「……随分質が落ちたなあ、うちの猟師も」
「ふむ、そうか? ベテランはよくやってくれているが」
「経験は大事だけどさ、それだけじゃやっていけないと思うよ、父さん。まあ、一応、引継ぎはやってるみたいで安心したけど……」
猟師一行を後ろから視察するような場所に陣取るのは、惑星総督の親子。熊のような巨体を分厚い防寒服に身を包み、肩には大砲と見まがうような銃を担いでいるのは、この星の総督、ガル・ウィンザードその人である。惑星総督みずから害獣の駆除に乗り出すなど普通であればとんでもない話だが、この星は特筆する事のない当たり前の出来事である。別に総督が最強でなければならない、といった決まりは無いが、ウィンザードの一族、特に男子は猟を好み、その立場上装備にも恵まれ経験を積む事が出来る事からか、自然と実力にも恵まれ猟師を率いる立場となる事が多かった。民草からしても、自分達のトップが率先して害獣を狩りにいくのは頼もしくもあるようだ。
その隣に居るのは、獣のコートを羽織ったアレックスだ。コートの下に人類軍の軍服を垣間見せる彼は、不満たらたら、といった顔で猟師や父親を見渡している。その背後には、従僕のようにイオリとネルスが控え、夫の銃を代わりに持っている。義父と夫、その両方の前だからかどちらもいささか緊張気味で、ピシリと背筋を伸ばして儀仗兵のように佇んでいる。普段の彼女らを知らない者からすると、緊張感に満ちて姿勢を正す二人は『めちゃめちゃ出来る美人のエリート兵士』という感じで、まだ十代半ばの若い猟師の中には二人に魅入って頬を赤くしているものもいた。妻に色目を使うなど言語道断だが、まあ気持ちもわかるし大目に見ておくか……とアレックスは見なかった事にしている。そもそも、まだ外に向けて婚約発表もしていない。色々手続きがあるのだ。妻達が惑星に慣れる時間も欲しいし。
アレックスが不満げなのは、そういった部下達の目ではなく、当然ながらガルがこの場に居る事である。
いうまでもないが、惑星総督というのは雲の上の人物であって、普通、自ら前線に出て害獣狩りをするものではない。いやまあ、宇宙は広いというか、開拓惑星ではそういう事をしなければ民草がついてこない、という事情で率先して戦場に出る総督が居ない訳ではないが、少なくともウィンザードにおいてその必要はない。それでもガルがこうして狩場に立っているのは、いうなれば趣味だ。ウィンザードの男子は、代々狩りを楽しむ傾向がある。民草の為、領民の為、と理屈をつけては狩場に赴き、その成果を家宝としてきた。とはいえ、危険な事には変わりはない。いままでたまたま、歴代総督に殉職者が居なかっただけの話なのだから、今すぐにでも帰ってほしいというのが彼の偽らざる本音だ。
しかし、アレックスはあくまで次期総督であり、現総督はガルである。その彼が行く、といったのなら、残念ながら止められないのが現実だった。
そのガルは、息子の不満に首を傾げながら、ぽんぽん、と銃で肩を叩いた。
「何をそんなに不満なんだ? ワシとて訓練は怠っとらんし、まだまだこうして現役だぞ。猟師の連中も、まあ若いのはちょい不安だが、過不足ない能力はあるはずだ。大体、若いのにこうして経験を積ませないとこの先困るだろう?」
「そうなんだけどさあ。……相手は銀月だろう? 火力が足りない」
「後ろのアレでもか?」
ガルが振り返った先、最後方から一団についてくる姿がある。
えっちらおっちら複数人でソリに乗せてひっぱっているのは、旧式の野砲だ。ただ、砲身は最新型のものに換装してある。曲射ではなく直射で対象を狙い撃つ、いうなればスナイパーキャノンと呼ぶべきその代物は、惑星外では対戦車砲と呼ばれている部類のものだ。人類が異星生物との戦争に突入して100年以上、その砲が名前通りの本来の運用をされる事はなくなったが、それでも慣習的にその名が残り続けている。火力は申し分なく、直撃すれば制圧級でも一撃で仕留める事が可能だ。人類軍の防衛線でも、塹壕などに火砲として採用されている。なるほど、戦車や航空機を満足に維持できない規模の低い軍でも、野砲ぐらいなら十分な数があってもおかしくはない。
そして確かに、その砲であれば、ウィンザードの大型獣であっても仕留める事が可能だろう。だがアレックスは不満げに顰めた眉を緩める事はない。
「機動力がな。何かあった時には捨てていくしかない」
「心配しすぎじゃないか? そもそも銀月といえど、航空戦力の力を借りるのはあくまで万が一すら無いようにするための安全策であって、別に猟師どもでも狩れる相手だろう。ワシだって、若いころに銀月を狩り立てた事があるぞ。ほら、居間に飾ってある毛皮、お前だって知ってるだろう?」
「まあそうなんだけどさ……」
「……ふむ。ま、お前は異星生物との戦争から帰ってきたばかりだからな。猟師の勝手を取り戻すのも時間がかかるだろうて。そう気を張らず、リハビリだと思ってゆるゆると構えていればよい。後ろの妻達をあんまり心配させないようにな」
戦場帰りの息子が、PTSDとかそういうのを患って過敏になっているのだろう、と考えたのだろう。熊のような父親は、あくまで呑気だった。
実の所、ガルは異星生物の脅威をよく知らない。惑星ウィンザードは前線から遥か遠い銃後の星だ。その分税は多く取られるかもしれないが、安全は保障されている。それに悪戯に異星生物の脅威を喧伝して、不安を必要以上に広げる事は軍も厳禁としていたからか、代表的な種についても詳しい詳細は民間には伏せられているのが常だ。先兵級、猟兵級、制圧級、そういった怪物達について、名前こそ知っていてもそれがどれだけ恐ろしいか知る事になるのは、徴兵され軍事教練を受けてからだ。
だから、もしかするとガルは、異星生物よりウィンザードの現住生物の方が恐ろしいとでも思っているのかもしれない。さらにいえば当然ながら、アレックスがDEATHとかいう人類軍からしてもどうしようもない化け物と交戦した事や、堕ちた星見というオカルト塗れのなんでもありと戦った事も、当然知らない。両者の間で戦場というものに、認識の差が生じるのは仕方ない話だった。
ガルはアレックスに大人しくしているよう優しく言い含めると、歩調を速めて前に出た。猟師たちと情報交換をするのだろう。
その背中を見送るアレックスは、ふぅ、とため息をついて手にした銃の表面を撫でた。
と、そこで彼の背に妻達が声をかける。同じ戦場、同じ理不尽を経験した彼女達はアレックスの心理をよくわかっていたが、それ以上に不可解なものを感じていた。
「アレックスさん。何か、ずっとイライラしてますけど、何か気になる事が?」
「ん。確かに猟師さん達、アレックスさんに比べればしょぼいけど比較対象が悪いだけだとおもうな」
「……まあな」
正直、アレックスと猟師たちでサバイバルゲームをやったら多分スコアで100:1ぐらいの差がついてアレックスの圧勝だろう。だがそれはアレックスの能力がバグってるだけで、彼らが無能だからではないという事は勿論客観視できている(本当に?byミリシア)。
そんな彼らにお客様扱いされているのは嘗められているようで不愉快でもあるが、そんな事でいちいちイライラするほどアレックスは子供ではない。彼が神経をささくれさせているのは、別の理由だ。
「……なんかな。人数多いと足引っ張られるような気がしてるんだよ。想定が甘いというか」
「まあ、アレックスさん一人ならどこで何を相手にして生き残れるとは思いますけど……」
「ん。だからといって一人で向かわせる訳にはいかないでしょ」
「そういう話でもなくってなあ……。なんか、ヤな感じするんだよ、今回の銀月。突然変異体だから銀月に決まった習性とかないんだけど、いつもと違うっていうか……」
「うげ。やめてくださいよそれ。アレックスさんの嫌な直感だけは未来予知みたいなもんなんですから」
「良い事は全然予測できないんですけどねー」
「やめろそれを言うなマジで。哀しくなってくる……」
今更ながら己の哀しい習性を指摘されて、本気で落ち込むアレックス。失言にイオリとネルスがあわあわと慌てた。
「あ、で、でも大丈夫ですって! 見た所皆さん、一般的な兵士よりは鍛えてますし!」
「そ、そうそう! 惑星防衛軍も馬鹿にできたもんじゃないですね!」
「露骨な話題逸らし有難う。……でもまあ、確かに、そう悪く言うほどじゃないか。少なくとも獣が潜んでいるのを見逃す感じではないし」
気を取り直して、アレックスはあくまで客観的に猟師たちをそう評価した。
最後方に野砲を連れているのは、一見すると無防備に見える。が、ローラー作戦で獣一匹取りこぼさなければ、後方は安全地帯であるのは間違いない。特筆して減点もないし、確かに、ある程度の能力を備えているのは間違いない事実であった。
嫌な予感は確かにあるが、だからといって音頭を仕切らせてもらえる訳ではない以上、大人しくしておくしかなさそうである。成る様になるしかないね、とアレックスは気を緩めて、先を行くガルに追いつこうと足を速めた。
そのガルはというと、20mほど先で何やら猟師の一人と話し込んで足を止めているようだ。もしかして……とアレックスが近づくと、彼の接近に気が付いたガルは緊張感に満ちた顔で振り返ると、一つ頷いて告げた。
「銀月のものと思しき痕跡が見つかった。ここからが本番だ」
痕跡とやらは、200m程西にいった所に残されていた。外縁を担当していた猟師が目敏く見つけたという話である。
周辺1kmにわたって木の生えていない雪原。その只中が、まるで巨人が雪遊びをしたかのように揉みくちゃになっている。近づいてみると、周辺に血や獣毛が散乱しているのが見えた。寒冷である事を差し引いても血痕の状態から、さほど時間が経過していない事が見て取れる。
恐らく、銀月の狩りの跡だろう。血と足跡がさらに西にむかって点々と残されているのを見て、一同はそう判断した。
足跡に近づいて大きさを確認する。かなり大きい。
「でかいな。足跡でこのサイズなら6m前後になるな」
「狩っていたのは……痕跡からするとオカナダレか? 普通のシルバーズ・タイタンじゃ襲いもしない相手だが、オカナダレをエサに出来るぐらい強いって事か」
「あるいは、彼我の戦力さを理解できない手合い、かだな。銀月なんて大体頭おかしいらしいし」
「突然変異体だからな……」
猟師達が集まって情報交換と意見交換をしている。
その中にあって、アレックスはむっつりと地図を確認していた。
「いま、ここで……ここから西に行くと、こうで……。標高は……むむ」
「アレックスさん?」
「……面白く無い」
端的な答え。
地図によれば、ここから西に行くと広大な森、と言っていい地域に差し掛かる。さらに標高も上がっていくので、このまま向かうと目的地の見通しが悪い。坂の下から上は見えないし、林立する針葉樹の大木は獣の巨体を隠す遮蔽物になる。まるで猟師を誘い込んでいるかのような立地条件に、アレックスは不快そうに眉を顰めた。
とはいえ、肉食獣が仕留めた獣を食べるにあたって、安全な場所へ運ぶのはそう珍しくはない。銀月ほどの巨体であるならば、隠れるにも相応の場所が必要だ。意図したのではなく、ただ手近な場所へ移動しただけだと言われたら、納得せざるを得ない程度であるのも事実だ。
だが、と彼は自問する。
銀月ほどの怪物が、そんな周囲の有象無象を気にするか?
確かにいかな捕食者側の動物であれ、睡眠や食事のときは無防備だ。なんなら、せっかく手に入れた食料を横取りされる可能性もある。普通の肉食動物であれば、不思議でも何でもない。
しかし相手は銀月だ。シルバーズ・タイタンの突然変異体。本来思慮深いシルバーズ・タイタンと同じ種族とは思えないほど短慮で暴力的なのが、銀月という化け物だ。故に考えなしに人里を脅かし、結果的に人類を敵に回し討伐されてきた。もし彼らにもう少し配慮というものがあれば、人と悪戯に敵対する事なく子孫を残す事もできたかもしれないが、現状、銀月は発生した個体全てが害獣として処理されてきた。
つまりは奴らは、野生動物としてはあり得ないレベルで考えなしなのである。
その銀月が、護身?
どうにも、しっくりこない。
「……どうします?」
「説得する材料が足りない。とりあえずは現状は従うさ。万が一には備えておいてくれ」
「了解」
妻達と今後の立ち回りを手短に決定し、アレックスはこの後の段取りを話し合っている養父の元に向かう。彼はちょうど、複数のベテラン猟師とこの後の展開を決めているところだった。
「おお、アレックス。どうやらお前の出番はなさそうだぞ」
「ここからどう詰めるんですか?」
「うむ。この先の丘陵に銀月がいる可能性が高い。猟師を全周に伏せて、銃撃で追い立てた所を野砲で撃つ。風の向きや地形を考えても、奴はまだ我々の接近に気が付いていないはずだ」
「……了解」
野砲の伏せ方や人員の配置も、特段反対するほどのものではない。
ただ、そう上手くいくかな……という疑問を抱いているのはアレックスだけのようだ。ベテラン猟師やガルは過去の成功例をなぞる事に不安はないようだし、若い猟師達はこれが初めての事だから、判断基準を持たない。
ある意味アレックスだけが違う。
取り越し苦労だといいんだが……そう思いながら、彼はおとなしく父親の指示に従い、後方に待機する事にした。
「よし、やるぞ」
手早く猟師を周囲の森に配備し、準備を終えたガルはその仕上げとして、二人のベテランを引き連れて丘を上がり始めた。雪に刻まれた銀月の足跡を追うように、小さな人間の足跡を残して先に進む。
彼らは追い出し役だ。この先にいるであろう銀月に対し先制攻撃をくわえ、その後周囲の狩人の攻撃によって銀月を野砲の方に誘導する。銀月といえど野生動物だ、痛撃を受ければ反射的にその反対側に逃げていく。興奮状態であれば逆上して向かっていく事もあるが、だからこその不意打ちだ。過去に何匹もの銀月が大体同じような手順で狩られており、言うなれば既定のマニュアルに従う訳である。トドメが違うだけで、前回も前々回も同じように駆り出しは成功してきた。
ガル達は当然、これまでと同じように何ごともなく終わると信じていた。
「良し。丘を越えるぞ」
ギリギリまで察知されないように低く身を伏せて、銃に初弾が装填されている事を確認。顔を見合わせ呼吸を統一し、ガル達は一斉に丘の上へと飛び出した。
「銀月! ここまでだ……」
銃を構えて標的の姿を探す。
雪原には何もない。ただ、まっすぐ伸びる足跡が一列。それが伸びていった先、処女雪の真ん中に、でん、と大きな獣の亡骸が横たわっている。
でっぷりふとった、茶色い毛皮を持った獣。オカナダレと呼ばれている、大型の草食動物だ。巨大な牙と背面の大きな脂肪瘤が特徴の、短い四本の脚で歩く四足動物であり、ウィンザードに生息する草食動物では最大クラスだ。寒さにも強く脂肪瘤に栄養を蓄えられるため冬の間は雪の中に埋もれて過ごす事もあり、雪の積もった丘だと思って昇ったら、それが崩れて中から出てきた、という逸話から来たのがオカナダレだ。その巨体と大きなキバによる攻撃力から、ウィンザードでもこれを捕食する動物はほとんどいない。それを仕留めているあたり、流石銀月、というべきだろう。
だが、不可思議な事にその獲物の横に、銀月の姿は無かった。
すでに食事が済んだのか? 否、それにしては足跡が無いし、何よりオカナダレの死体からは小さな湯気がのぼっており、まだ体温が残されているのが見て取れる。仕留めてそう時間はたっておらず、肉もほとんど口にしていない。
想定外の事態に、ガル達は困惑して銃口を下げた。
「なんだ……何故いない?」
「足跡はまあ、他の獣もバックステップするから不思議じゃないが……わざわざ仕留めた獲物をのこして? どこにいったんだ?」
ベテラン猟師達も経験のない状況に困惑するばかりだ。
その時だった。
突然、静寂に満ちた雪原に、銃声が響いた。それも一つや二つではない。
当然自分達ではないガル達は困惑し、遅れてその出所に気が付いた。
「……森に伏せていた連中に何かあったのか!?」
「総督様! 森の中に何か居ます!」
ベテラン猟師の一人が気が付く。
雪原を取り囲むように広がる森の中、木々の間を何か銀色の影が動き回っている。やがてそれらは雪原にも進出してきて、その正体をガル達の前に露にした。
銀色の毛並みを持つ、六本足の肉食獣。その相貌は狼に似ている。
ウィンザードウルフ。惑星全域に広く生息する肉食動物だ。収斂進化によってか、群れを形成するこの手の肉食動物は不思議と皆、“狼”と呼ばれる生物に似通った姿を取るが、それぞれの惑星でどこまで独自進化した生き物でもある為、特徴的な部分もある。ウィンザードウルフの場合は、足が六本あるのが特徴だ。
恐らく先ほどの銃声は、ウルフの接近に気が付いた猟師達が自衛のために発砲したものだろう。
だが、ウルフは凶暴な肉食動物であれど知性も高い。人間との接触、そのリスクを鑑みて、人を襲うような事はほとんどないはずである。困惑したガルはしかし、すぐに理由を理解した。
「……オカナダレの死体か!」
死に立てほやほや、まだ湯気をあげるオカナダレの死体。あれだけあれば、ウルフの群れ一つを満足させるに十分な量であるはず。人間より遥かに優れた嗅覚をもったウルフは遠方からその存在を嗅ぎ分け、他の動物に奪われる前にと大急ぎでやってきたのだろう。そして、隠れていた猟師に気が付かず、こうしてニアミスした。
十分なベテランであれば、悪戯に発砲するのは控える。だが、ここに集めていたうちの半分ほどは、経験の足りない若者だ。間近に接近してきた凶暴な肉食動物を前に抑えが効かず発砲してしまい、群れに犠牲が出たウルフが攻撃に出た、と考えられる。
恐らく森の中は混戦状態だ。容易く獣に殺されるような教育はしていないが、もはや彼らも自分の事で手一杯なのは想像に難くない。
そして雪原に出ていたガル達も、その仲間とみなされたのだろう。雪原を駆け抜けてまっすぐに数匹のウルフが向かってくるのを、ベテラン猟師が即座に処理する。
「ち……」
自らも銃の引き金を引きながらも、ガルは舌打ちする。
まさか、ウルフとの同士討ちを狙ってくるとは。銀月としては、いや、そもそも野生動物としては随分手の込んだ事をする。
だが、残念ながら呼び寄せた戦力が不足している。ウィンザードウルフ程度では、ガル達を全滅させる事など出来はしない。とにかくこの場を潜り抜けてしまえば、あとはなんとか……。
この場に及んで楽観的なガルだったが、次の瞬間、彼はいかに自分が甘い考えだったかを思い知らされた。
不意に、彼らの頭上に影が差す。反射的に見上げた彼らの頭上を、ミリタリーグリーンに塗装された金属塊が、鳥のように宙を舞って通り過ぎた。それが、待機させていた野砲であった事を彼らが理解した時には、野砲は雪原に叩きつけられ、めちゃめちゃにへしゃげながら雪を巻き上げていた。振動で地面が揺れ、三人ともがその場に膝をつく。
「な、なん……?」
茫然とスクラップと化した野砲に目を向ける。砲身も防盾もシャーシも、全部バキバキに変形しており、タイヤはパンクして裂けていた。誰がどう見てももはや使用不可能となった野砲を見つめながら、半ば本能的に野砲が飛んできた方に目を向ける。
雪原を取り囲む木々の一角。
野砲に衝突したのだろう、背の高い樹木が一本、根本から折れて倒れ込んでいる。そして折れた木の株を跨ぐようにして、巨大な獣がその姿をゆっくりと現した。
銀色の毛皮。熊に似た、分厚く大きな四本の手足を持ち、二足歩行する体型。だがその背中は、右側が不自然に盛り上がり、そこから第三の腕とでもいうべきものが生えていた。奇妙な事に全ての腕に指とよべるものはなく、代わりに鳥や爬虫類と同じような大きな円錐状の爪が一本ずつ備わっている。腕が三本あるというより、指が三本、体から直接生えているといったほうが適切な、異形と言ってよい体形だった。その顔も不気味であり、口は左側だけ耳元を通り越してこめかみまで裂けた、深刻な裂傷を患っているかのような造形。そのせいか左目は無く、異様に発達した右目だけが爛々と輝いている。
悪夢のような歪な怪物。
「ば……化け物……」
先代の銀月を知っているガルでさえ、思わずそう呻いてしまうほどの異形。
それこそが今代の銀月、その姿であった。
ガルの言葉が聞こえたかのように、銀月は大きく息を吸い胸を膨らませると、これ見よがしに口を開いて雄たけびを上げた。雪原に、耳を劈く奇怪な雄たけびが響き渡る。
『ギィィイイイ……ァアアアア!!』
その叫びを聞いて、ウィンザードウルフ達は竦み上がり、我先に森の奥へと逃げていく。そんな彼らに一切の関心を払う事なく、銀月はノシノシと雪原に歩を進める。その眼光は、勘違いのしようもなく、間違いなくガル達人間にだけ注がれている。
「……っ!」
これは、不味いかもしれない。
ガルは緊張に、ゴクリと生唾を飲み干した。
一方。
かつて“死神”だなどと呼ばれた一人の青年は、奇怪な雄たけびにも動じる事はなく、さも不機嫌そうに状況を見守っていた。ため息一つついて手を伸ばす彼に、若妻がボルトアクションの長銃を手渡した。
「駄目そうだから行ってくるわ」
「了解しました。流石にあれを相手だと私達は足手まといですね。……ミリシアに連絡を?」
「頼むわ」
「ん。いってらっしゃい」
まるで出勤前の朝のやりとりのように、気負いなく話すアレックスとその妻達。
彼女らの他には護衛のつもりでつけられた二人の若い狩人がいるが、彼らは雄たけびに竦み上がって戦意をすっかり失っているようだ。信じられない者を見るような目つきの彼らの肩をすれ違い様に軽く叩き、アレックスは今から散歩にいくような気負いのない歩調で丘を登る。
そう。忘れてはいけない。
彼は、絶死の戦場を三度乗り越えた隻眼の魔獣。望む望まぬに関わらず、人知の及ばぬ戦場において、それでも最後に致命的な場所に立つ鬼札の中の鬼札。
例え今代の銀月がいかに異様であっても、彼を動揺させるには物足りない。
「ま。少しはやれるってとこ、父さんにも見せとかないとな」
ボッ、と。
足元の雪を巻き上げて、灰色の青年は殺意に満ちた風となった。
人間の限界を越えた速度で、雪原を駆け抜けるアレックス。勿論、秘めたる力が覚醒したとか、そういう訳ではない。
彼の軍服の下では、無機質なモーター音が唸りを上げている。いつぞや、オペレーション・タイダルウェイブで支給された強化外骨格。本来ならば軍に返還されるべき装備だが、帰郷にあたって便宜が図られ、他のいくつかの装備と共にアレックスの手に渡ったものだ。戦場が戦場、相手が相手であった為に一度として戦地では発揮する事のなかったその性能の本領を、何の因果か平和なはずの植民惑星で発揮している皮肉に、知らずアレックスの口元に投げやりな笑みが浮かんだ。
つくづく、自分は平穏とは無縁な人生しか送れないらしい。
「ま、それも仕方ないがな」
嘯いて、長銃を構える。
視界の先では、ノシノシと近づく銀月に、養父達が銃撃で応戦している。だが、その攻撃は分厚い銀月の毛皮に阻まれ多少の出血を齎すだけだ。やはり、奴にトドメを刺すには大口径の火砲が必要不可欠だ。
そしてそれを、銀月もわかっていた。
奴の狙いは途中でアレックスも看破していた。肉を囮に狼達を呼び寄せ、混戦状態を作り出す。その狙いが人間達の殲滅ではなく、自分を殺しうる野砲の排除であった事も気が付いたが、しかし救援は間に合わなかった。混戦は人間達の注意を散らし、野砲を無防備にするためのもの。あとは隠れていた自分の手で直接野砲を排除すればいい。
しかし、たかが獣がそのように計画的な策略を仕組むだろうか。策略には情報が必要だ。ならばあの銀月は、ウィンザードの領民がどうやって銀月を狩るのか知っていた事になる。いつ、どうやって?
銀月の元となるシルバーズ・タイタンはそこそこ長生きだ。もしかすると、奴は前の銀月の子供か何かで、親がどうやって殺されたかを見ていたのかもしれない。それならば、他の人間に目もくれず、まっすぐガルの元に向かっているのも納得がいくというものだ。
銀月は身を揺さぶって銃撃をあしらいつつ近づくと、ガル達に向かってその凶暴な左腕を大きく振り上げた。その先に備わった奇妙な爪を目にして、アレックスはなるほどな、と一人納得する。
報告では、通信塔の装甲に刻まれていたのは三本の大きな爪痕だった。獣がひっかいたなら、そうはならないはずだがあの腕を見れば納得だ。三本腕というより三本指である。
ところで。
左腕を大きく振り上げた事で、皮膚が引き延ばされ、自慢の毛皮、その守りが薄くなっている事に銀月は気が付いているのだろうか? よりによって、急ぎ走るアレックスの眼前で、無防備な脇を晒す。その機会を、彼が逃すはずもない。
「悪いが。まだ親孝行には足りないんでね」
長銃と、すっかり手に馴染んだハンドガン。
その両方を構え、アレックスは引き金を引いた。
ボルトアクション式の単発銃と、大口径のハンドキャノンが共演するように唸りを上げる。本来ならば走りながら撃てるものではないが、軍服の下に装着した強化フレームのなせる業だ。
およそ人体に向けるべきで無い過剰火力は、その設計思想の通り、正しく獣へと猛威を振るった。
銀月の強靭な毛皮は並大抵の強度ではなく、その下にも分厚い皮下脂肪が広がっている。だからアレックスはまずハンドガンの爆発性の弾丸を打ち込み、毛皮の層を荒らしたところに長銃の重たい弾丸を叩きこんだ。それは強靭な防弾繊維のような皮膚を突き破り、その下の脂肪層をかき分けて、その奥にある太い動脈を切り裂いた。
ブッ、と赤黒い血の華が咲く。銀月の銀色の毛皮と雪原が赤く染まった。
『ギィアッ!?』
苦悶の声を上げる銀月。
通常の生物であれば十分な致命傷。太い動脈を傷つけられれば血を止める事もできず失血死する。だがミュータントである銀月は肉体構造が歪に変化しており、それだけでは失血死にはいたらない。さらに脇を閉めるように腕を固めれば、異常活性した新陳代謝によって肉体が傷口を埋めにかかる。増殖する細胞が太い動脈であっても塞ぎにかかり、代わりに別の経路が開拓される。それによって失血死を免れた銀月は、ぎょろり、と肥大化した右目で射手の姿を捉えた。
狼の毛皮を纏った一人の青年。手には、煙を吹く二つの銃が握られている。
その事実を認識した銀月の目が、怒りで血走った。
彼は今まさに仕留めようとしていたちっぽけな人間の事を一瞬で忘れ、不遜にも自分を傷つけた小さな生き物に対し怒りの雄たけびを上げると、雪原を揺らして突進した。
「おっと」
迫りくる巨体に対し、アレックスは特に恐怖を感じる様子も見せず、その場で急停止。粉雪を巻きあげて制動すると逃げるように背を向けて走り出す。元居た場所に戻るのではなく、誰もいない場所に銀月を誘導しようとするその動きに、いかれる獣は疑問も抱かず追いすがった。
『ガグァアア!』
考え無しに追っているわけではない。標的は人間にしては素早い動きだが、銀月とは歩幅があまりにも違う。森に逃げ込まれる前に追いつける、そう判断しての事だ。
実際に、逃げる人間の背中は、どんどんと大きくなっていく。銀月は負傷した左脇をかばいながらだが、それでも体格に差がありすぎる、当然の結果だ。
十分に人間を射程に捕らえ、銀月は勢いを上げてそのちっぽけな背中を押しつぶそうと右腕を振り上げた。
人間の胴回りの数倍はある、丸太のような腕がその頭上に振り下ろされる。
雪原に爆発のように雪が舞い散った。砲撃に等しい衝撃に、小さな人間の肉体は原型をとどめないほどに破壊されるはず、しかし。
銀月は、手ごたえの無さに首を傾げた。
その視界の端を、灰色の影が過る。
「ほいっと」
『ギィッ!?』
銀毛が舞い散り、銀月の首から血がしぶいた。
見ればアレックスは長銃の先にナイフを取り付け、即席の近接武器にしていた。ただそれはよくある槍状ではなく、銃身に対し直角にとりつけた鎌状の武器だ。取り付けているのも銃口ではなく、それを支えるフレームだ。一見木材で頼りないそのフレームは、ウィンザードの寒冷地帯で300年以上かけて生育した超高密度の最高級木材であり、下手な金属以上の硬度と密度をもちながら適度にしなりがあって温度変化にも強く、この寒冷地帯においては最高の素材である。銃身とフレームの間には緩衝構造が設けられており、衝撃が銃身を歪ませる事はないようになっている。鎌状に取り付けるのは、テコの原理を利用するためだ。そもそも獣相手への槍の運用は、投げるのでなければ相打ち覚悟で相手に下側から刺す事である。獣の体重を利用して深く突き刺すこの戦術は、ウィンザードの巨大で強靭な体を持つ獣相手には相打ちになればよい方。だからこその鎌型の取り付け方なのだが、まさか強化外骨格を利用して飛び回りながらすれ違いざまに切り裂くなどという使い方は、おそらく誰も想定していなかったに違いない。
渾身の一撃を回避し、痛打を与えたアレックスは再び銀月からの逃走を開始する。首元の傷口を血が止まるまで押さえていた銀月の前で、まるで挑発するように木々の奥へと消えていく彼の姿を、血走った瞳が追い求めた。
『ギガァアア!』
完全に頭に血が上った銀月は、興奮のあまり歪んだ雄叫びを上げながら木々へと突っ込んでいく。その巨体では邪魔になる大木を、多少のケガもお構いなしになぎ倒し、小さなアレックスの姿を探し求める。
その頭部には、大きな右目の他にもぽつぽつと、形もサイズもバラバラな目玉が毛皮のなかに埋もれている。明らかに変異体である事を象徴するその瞳が、ぎょろぎょろと薄暗い林の中でアレックスの姿を探し求めた。
と。その一つが突然、血煙と共に弾け飛んだ。
『ギャウッ!?』
頭を押さえるようにしてかがみこむ銀月。その姿を、50mほど離れた木の影でアレックスは観察している。その手には硝煙をくすぶらせるハンドガン。
わざわざ銀月が立ち直るのを待ち、彼に自分の姿を認識させてから木々の奥へと走る。その後ろに、折れた大木が風を切って投げつけられた。むなしく林立する木々に受け止められ、雪と木片をまき散らしながら林の一角が崩壊する。
怒りに満ちた銀月の咆哮が空に轟いた。
「あれだけおちょくれば、俺以外の事は忘れてるだろ……」
銀月が自分の後を追いかけてくるのを確認し、アレックスは苦笑いを浮かべる。
余裕は全くない。だが、あの場においては、奴の目を自分以外に向けさせる訳にはいかなかった。奴が少しでも冷静さを取り戻せば、アレックスの事を無視して養父や猟師達を狙い始める恐れがあった。そうなった場合、質量差もあいまってアレックスにそれを止める事は難しい。
野生の獣とて、子を守るものだ。ならば、それを逆に考える程度の事はできる。
特に人を襲うような獣は、戦略性とは別に弱い者から襲っていく。ただ単に弱いやつが襲いやすい、というだけなのだが、それが人間の社会性に対してたまたま、厄介極まりないという話だ。
だから多少の危険は了承の上で、ああやって挑発してアレックスだけを追うように仕向ける必要があった。
言っておくが、勿論殺せるものなら殺すつもりだった。容赦なく急所を狙って引き金を引いた。だが残念ながら、手持ちの火力ではたとえ急所を狙っても銀月の命を奪う事はできないようだった。やはり、体格もあるがミュータント化している事で素直に死んでくれない。そもそも、大本と比べると「なんでこれで生きているのか」といったレベルで体内構造が変質しているからこそのミュータントである。
かといって、露骨にアレックスに銀月を殺す手段がない、と悟られてしまうのも不味い。だから、あえて弄ぶように通常であれば致命に繋がる傷を与え、こうして追いつけそうで追いつけない距離を維持して銀月を誘導し続けている。
「もう少し先にいけば、山岳地帯だな……」
銀月の方が足が速い以上、いつまでも逃げてはいられない。そして先ほど確認した通り、林の木々は遮蔽物としては頼りない。ならば、銀月の動きにくく、アレックスが有利に立ち回れる地形に誘導するほかはない。それがこの先の山岳地帯だ。
この先はクレバスなどが存在する起伏の激しい地帯だ。そして銀月は、大本が走破性の高い動物ではあるが、あまりにも巨体になってしまったため、高低差のある地形を苦手としている。この先であれば、強化外骨格の補助も踏まえれば十二分に地形戦に持ち込む事も可能だろう。
ちらり、と装備のバッテリーを確認する。そろそろ残量が乏しい、どこかで一旦隠れる必要がある。
さて、どう立ち回るかな……そう考えていたアレックスの脳裏を、ピリリと嫌な予感が通り過ぎた。
直感に従って急制動、せっかく稼いだ速度を殺してでも反対方向にバックステップ。
一瞬遅れて、本来であれば2秒後にアレックスの姿があった場所に、巨大な大岩が降り注いだ。
「ちっ……」
舌打ち一つして視線を向けると、8時方向、想定していなかった場所からぬっ、と銀月がその姿を現した。予想よりもかなり距離が近い。その顔は牙をむいていながらも「てこずらせやがって……!」という達成感にも満ちている。
どうやら、アレックスの把握していなかった獣道があったようだ。事前に十二分に地形図に目を通していたが、自分で歩いて回る余裕はなかった。これがかつてならば、近隣を巡視するのが日課だったので見落とす事などありえなかったが、ウィンザードに帰還してまだ一週間も経っていない。流石に身の回りを整えるのが優先で、周辺の散策など出来ていなかった。
『ガアア!!』
吠えながら向かってくる銀月に対し、アレックスはちらりと周辺の地形を確認した。
このあたりはまだ起伏に乏しい。もう1キロほど奥まで走りたいところだ。それまでバッテリーが持てばいいが。いや、そもそもこの場をどうやり過ごすか。
「くそ、いっつもこんなんばっかだな、俺!」
『ガァウォ!』
四つん這いで走ってきた銀月が跳躍し、上空から全体重を乗せて踏みつぶしに来る。それを回避した先を第三の腕で狩るつもりだろう。当然予想したアレックスは、ギリギリでむしろ逆に銀月の腹に飛び込むように回避し、追撃をやり過ごす。
そのまま巨体の影に隠れるように立ち回ろうとしたその時、ぐん、と足元が深く沈みこんだ。
「なん!?」
『ギアッ!?』
アレックスのみならず、銀月も驚きの声を上げる。みるみるうちに足元に積もった雪がデコボコに崩れ、地響きと共に滑落していく。
崩落だ。
どうやら銀月の一撃で地盤が崩壊したらしい。かなり広範囲にわたって地面が逆ドーム状に陥没していくのが見えた。
「くそっ!」
アレックスは最後の抵抗で強化外骨格の出力を最大に跳躍し、その場から離脱を図る。が、強く踏み込んだ先がそのままの勢いで沈んでいき、跳躍はできたものの想定の半分ほどしか飛べなかった。目の前で地面だったものが崖と化し、重力が体をつかんでどこまでも引きずり下ろしていく臓腑の浮く感覚。届けと伸ばした指は何もつかめず、そのままアレックスは銀月と一緒に地の底へと落ちていった。
カツン、と蹴り飛ばした石が空洞に音を立てた。
反響した音がやがて小さくなって消えていくのを確認してから、アレックスは歩みを再開した。
「……前にもあったな、こんな感じの事。あの時は一人じゃなかったが……」
ふう、とため息をつくアレックスには傷一つない。ただ、強化外骨格はオーバーヒートし、反応が停止している。こうなるとちょっと動きにくいギプスのようなものだ。
「まさか、地盤が緩くなっていて、その下に空洞があったとはな……。仕切り直しができたのを喜ぶべきか、脱出する道がわからないのを悲しむべきか」
崩落に巻き込まれた後、アレックスは落下中も姿勢制御を行い、どうにか壁に取り付く事ができた。ほぼ直角に近い壁に居座る事は出来なかったが、それでもそのまままっすぐに落ちて地面に叩きつけられるよりはマシだろう。
銀月の姿は見えない。崩落の時点でアレックスが跳躍して距離を取っていたのが幸いしたようだ。このまま地面に叩きつけられて死んでいればいいのだが、そう甘くはないだろうな、とアレックスはうっすらと生存を確信していた。
まあ、獣の事はどうでもいい。まずはアレックスがこの場を生き延びなければならない。
崩落した崖の底にあった空洞、あるいは洞窟を見つけた彼は、とりあえずその中を探索しているところだった。空気の流れがあったからだ。
「しっかし、なんかこう、妙に歩きやすいというか……通路みたいな洞窟だな。いや、もしかして本当に通路か? 惑星ウィンザードに先史文明の類はなかったはずだが」
首を傾げながら先に進む。惑星ウィンザードは文字通りウィンザード家が開拓するまでは無人の雪原惑星であった。環境の厳しさと野生動物の凶暴さから、それまでは人が住んでいなかったはずであるし、知的生命体が発生した痕跡もない。だが、アレックスの今歩く空間は、音の反響からしてもまるで地下通路のようであった。床は平坦に整理され、壁や天井も必要以上にデコボコしていない。とても自然に発生したようには思えない。
「まあ、入植に失敗したけど人が住もうとしたとか、あるいは発見されてないだけで知的生命体が居たのかもしれない、と言われれば否定はできないけどさ……」
どちらにしろ。この通路は長く使われていないようだった。人の気配も感じない。
30分ほど、警戒しながらゆっくり進むと、急に音の反響が大きく広がる地点がある。どうやら、この先は開けた空間のようだ。
「……地下居住空間、ってとこかな」
広がる空間を目の当たりにして、アレックスは首を傾げた。一応、ハンドガンの残弾を確認し、長銃の具合を確認する。
「……よし」
まだ戦える。アレックスは覚悟を決めて前に進んだ。
ドーム状の空間はそう広くない。直径20mほどの半円球の空間で、その半分ほどは壁のように大きな柱だかなんだかが占めている。壁には大きな凹凸の気配があり、どうやら空間に何か建物があるというより、そこに横穴を掘って生活空間にしていた、そんな気配がある。知的生命体でなくても、地底に生息する動物か何かの巣、という可能性もでてきた。相変わらず生物の気配はないが、しかし、アレックスの感覚はこの空間に踏み入った直後からある物を捉えていた。
この冷たい暗闇の中に、何か熱源が存在する。そしてパチパチという音。
どうやら、柱の裏側にそれは存在するようだ。
物音を立てないように近づき、柱の影まで忍び寄ると、アレックスはばっ、と転がるように飛び出ると銃を構えた。
少しでも怪しい動きがあれば撃つ、そのつもりで突き付けた銃口の先、オレンジ色に燃える炎がアレックスの目に映った。
焚火。
なんの変哲もない、薪を集めて暖を取る様子。その傍らには、襤褸を纏った男の姿。
さして訝しむ事もない、あり触れた光景だ。それが、こんな極寒の惑星の地の底でなければ、アレックスも特に気にしない。
「何者だ。ここで何をしている……ってのは、俺も一緒か。失礼、俺はアレックス・ウィンザード。ちょっと色々あって、こんな所にいる。あんたは?」
「…………。……旅人だ」
最初、無視されたかと思うほどの沈黙ののちに、男が答えた。不思議と耳にはっきりと響く、バリトンの声。声だけで色男だというのが聞いて取れるようだ。
「旅人? 惑星ウィンザードはしばらく前から封鎖されているが」
「その前からだ。2年ほど前にこの星に来て、こうやって雪原を彷徨い歩いている。……最近は居心地の良い住処も見つけた」
ぽんぽん、と地面をたたく男。アレックスはしばし悩んでから銃を仕舞い、しかし男から距離を置いたまま、その場に座り込んだ。
「……どうした。温まらないのか」
「好奇心を満たす方が先だと思ってね。……地上の騒ぎは聞こえていたか?」
「ああ。何やら騒がしいと思ったが。狩りかな」
アレックスの装備を見て、男が逆に訪ねてくる。アレックスはこくりと頷いた。
「ああ。まあ仕留め損ねて、一緒に地の底だ」
「その装備では、この星の獣は狩れまい」
「………………」
訳知り顔の男に、アレックスは疑惑に満ちた視線を向ける。怪しいからと言って彼が露骨に疑惑を向けるのは珍しい。逆に言うと、彼をしてそういう態度に出さざるを得ないほど、男は怪しい人物であったからだ。怪人物と言ってもいい。
だが、ここに他の人間がいれば違う反応を示しただろう。
男の声は、度量と器量に満ちている。すべからく上に立つ者の、圧倒的なカリスマとでもいうべきか。並大抵の者であれば飲み込まれ、男に微塵の違和感も抱かないだろう。だがアレックスは逆に、そこにこそ不信を抱いた。アレックスとて、この男に好感を感じなかったわけではない。むしろ、家族に感じるような深い安堵すら感じていると言っていい。
それこそが、あまりにも深刻な違和感だ。
男の姿と、本質と、今こうしている現実が、何一つ噛み合わない。アレックスには、男に好感を抱く、その“理由”がない。
警戒を色濃くするアレックスを、男は帽子の下から、興味深そうに見つめる。その視線は、気味が悪いほど余裕に満ちていた。
「……あんた、星見か?」
「ふ。まあ、似たようなものではあるだろう」
「…………」
つまり、星見ではないとアレックスは判断した。
やはり何一つ信用できない。だが、敵か、と言われると違うようだ。それはつまり、この切羽詰まった状況では関わらないに越したことがないという事だ。
とはいえ、休息は必要である。ぱちぱちと燃える焚火で暖を取りながら、強化外骨格の状態を確認する。
どうやら、バッテリーが上がってるだけで、基本システムに問題はなさそうである。関節のサーボモーターもいかれてはいない。まあ、制圧級とかも銀月に負けないレベルの化け物だ、それらと戦う事を想定した装備なのだからこの程度でへばってもらっても困るのだが。
無言でカチカチと整備をしていると、男が呆れたように呟いた。
「やれやれ。どうやら、君と顔見知りになるのは難しそうだ」
「俺にも、相手を選ぶ権利はありますので。もしそれが不本意だというなら、その人を見下す視線を止めた方がいいです」
「……そう見えるかね?」
「ええ。とても。俺程度に勘が働く人には、その思うようにしよう、っていうの、やめた方がいいですよ」
「ふ。そうか」
アレックスの言葉にはいささかトゲがあったが、男は特に気にする様子はないようだった。彼はその場を立ち上がると背を向ける。
「おい。火の始末はちゃんとしていけよ」
「君がもう少し温まるのだろう? そこに餞別も置いておいた、どうかそれで勘弁してくれたまえ。あ、そうそう。ここを出るにはこの先へ向かえば地上に繋がる道がある。……恐らく、君を追いかけてきた化け物がそちらに先回りしているだろう。注意することだ」
「あ、おい」
アレックスには奥の出口とやらを指し示しながら、男は反対側……アレックスがやってきた、どこにも続いていない道へと歩き去っていく。思わず呼び止めようと手を伸ばしたアレックスだが、しばし考えてから手を戻した。多分、心配はいらないだろう。
「いやまあ……宇宙は広いからな。まだまだ変な奴がいるって事か……」
シルバのような星見や異星生物の存在を知って、世界はまだまだ広いという事をわかっていたつもりのアレックスだったが、まだまだ知らない連中がいるらしい、と改めて知らされるとは思わなかった。
男が座っていた場所に目を向けると、都合の良い事にバッテリーや弾薬が置いてある。こうなることを予想していたような準備の良さは、残念ながらアレックスからすれば良い印象どころか悪印象にしかならない。
この状況を予想していて、何かしらの利益を得るつもりだったという事が見え見えだからだ。
頭はいいし知恵も回るようだが、どうにも人の心がわかっていない手合いらしい。
シルバと連絡が取れたら、対策を考えた方がよさそうである。ただ、なんていうか。どこかで会ったこともあるような気がする。
「ま、ここに捨て置くのもあれだから、有難く使わせてもらうけど」
置き土産をいただくと、アレックスは焚火をブーツの靴裏で踏み消した。薪もほとんど燃え尽きかけていた火はそれで容易く消えて、黒い煙が一筋、風に靡いて流れていく。
彼はそれを追うように、暗闇の中を再び歩みだした。
男の言う通り、反対側の奥にはまた別の通路がつながっていた。消した焚火の煙が風にあおられて棚引くのに案内されて、アレックスは通路をいく。途中から道は上方向に向かっていて、地上に繋がっているのが露骨なまでだった。数時間も歩くと、頭上からわずかな光がさしてくる。久方ぶりの地上が近い。
男のいう事が本当なら、この先に銀月が待ち構えているはずだ。
それがわかっていても、男のいう事に従うしかないのが癪である。ほかに道がなかったとはいえ、だ。
さらにいえば銀月が待ち構えているのは多分、焚火のせいだ。今は道案内になっている焚火の煙だが、この要領で地下深くで燃やした炎の匂いを、地上にいながら感知されたと考えれば、銀月が待ち伏せしている事の説明になる。
「要はマッチポンプじゃないかよ……」
呆れつつも、他に選択肢はない。幸い、弾丸は十二分にある。やりようはあるはずだ。
そう決意を固めながら、アレックスは地上に出る。途端、差し込んでくる白銀の光に目を細める。長い間地下に居たせいで、雪原の照り返しは目に痛い。
地下通路の出口は、どこかの山のふもとのようだった。あたり一帯は見通しのよい雪原が広がっており、枯れた木々が柱のように立ち並んでいる。あまり見覚えのない場所だ。現在位置を把握するには、一度高い所から周辺を見渡す必要があるだろう。
だが、その時間はなさそうだ。
風を切る音を耳にし、とっさに身をひるがえすアレックス。直後、彼をかすめるようにして大木の幹が砲弾のように飛来し、地下通路の出入り口に突き刺さった。衝撃で岩肌が崩れ、通路がふさがれてしまう。
もともと戻るつもりはなかったが、まずは退路を塞ぐ、という事か。
大木が飛来してくる方角に目を向けると、案の定。そこには銀月が目を血走らせてアレックスを待ち構えていた。出入口すぐで待ち伏せしなかったのは、奴としても本当にアレックスがここから出てくるか自信がなかったか、あるいはアレックスと接近戦をする事に不安があったのか。
銀月が三本腕の爪を振るい、周辺の枯れた大木を切り刻む。それを抱える銀月に、アレックスは失望の失笑を向けた。
野生動物が、剛力を謳う怪物が、少し翻弄されただけで投擲に頼る。その実に浅はかでみっともない事。
確かに、あれがダメならこれはどうだ、は人間が文明を発展させたメカニズムだが、銀月のそれは、ただの逃避だ。自分の強みを生かせない者は、野生で生きていけるはずもない。
「まあいい。せいぜい遊んでやるよ」
長銃を構え、強化外骨格をアイドリング状態に切り替える。
両者の間に数秒の静寂が訪れ、いままさに、戦いの火蓋が切って落とされようとしたその時。
「アレックス、さ~~~ん!!」
場違いな呼び声が、緊張を裂いた。
雪原に轟くエンジン音。粉雪を巻き上げ、小石を跳ね飛ばして疾走するのは一台のトラックだ。林立する枯れ木の間を潜り抜けて巧みに疾走するその車輛の荷台には、惑星防衛軍の採用している野砲が積まれている。当然、トラックの荷台に乗せて運用する事など想定していないそれは、何故か横倒しの状態で、ロープでぐるぐる巻きに固定されていた。その砲座にしがみつくようにしているのは、黒と金、長い髪をなびかせる二人の美女。まさかと思ってアレックスが運転席に目を向けると、そこには予想通り、ブラウンのウェーブヘアと、三つ編みの黒髪が特徴的な女性の姿があった。
「ミリシアさん! いまです!」
「あいよぉお!!」
ミリシアが運転席でハンドルを切る。急カーブしたトラックは、その急な方向転換にバランスを崩し、そのまま背中から横転する。ガシャン、とトラックが横倒しになり、結果、横向きに固定されていた野砲が正常な状態で地面に設置した。その砲座にしがみついた主砲手であるイオリが砲身を旋回させ、ニーナがその補佐をする。キリキリキリ、と音を立てて野砲の照準が銀月に向けられた。
いや、まあ。荷台に積んだままでは確かに発砲できないだろうが、それにしたって力業が過ぎる。ミリシアの悪魔的な操縦テクニックありきの事で、到底真似しようなどと思える芸当ではない。アレックスは呆れるあまり肩を落としたが、その口元には隠せない笑みが刻まれている。
『ガァオ!?』
突然の闖入者に硬直していた銀月が、鈍く輝く砲口の輝きに我に返る。慌てて身をひるがえして射線上から退避しようとするが、歴戦の砲手はその僅かな時間すら獲物に与えなかった。
号砲が一度だけ山野に轟き、それきり世界は静かに眠りについた。
「どうして俺の居場所が分かったんだ?」
帰り道。
左半分がすりおろされたようになっているボロボロのトラックの助手席で、風を浴びながらアレックスは運転手に尋ねた。他のメンバーは荷台で文字通り背を伸ばしている。
ガタガタと揺れる挙動不審なトラックの制御に苦心しながらも、ミリシアは前を見ながら端的に答えた。
「情報源は複数。猟師さんからの地形についての報告と、“あの子”からの共感が大きいかな」
「あの子……共通体か」
人間に似ているようで似ていない、辛うじて人型と呼べる異星生物の姿を思い返す。そういえば、ミリシアはしばしば、親子だから共通体からテレパシーを受け取っている事があった。それは基本的に深刻な事態に助力するようで、どうでもいいような事でも送られてきたりもする。ただ、それはあくまで異星生物が認識している範囲の情報であるはずであり、異星生物の侵入を許していないウィンザードでその手の情報が得られる、というのは不思議ではある。
今もアレックスの体内に残っているゼノファージの影響か? あるいは単純に、すでにウィンザードに侵入している個体がいるのか。
護衛任務もできそうなスケスケ切り裂き魔の事を脳裏に思い浮かべながら、アレックスは続きを尋ねた。
「あるいは、変な男、か?」
「……やっぱアレックスさんもあってたんですか」
「ああ。誰なんだろうな。星見じゃない、とは言っていたが」
「わかりませんね……。あんな人知らない、って猟師さんや養父様も言っていましたし。得体が知れない存在にはいい加減慣れてきましたけど……」
「ま、敵じゃないならそれでいいさ。何せ俺たちは今やただの善良な一般市民だ。切った撃ったとは無縁の存在でいたい」
「隊長がそれ言います? あっ」
ミリシアが思わず、といった体で口元に片手を当てる。ガコン、とトラックが大きく跳ね、荷台から悲鳴とクレームが聞こえてくる。それに平謝りしつつ、ミリシアはちらりと横目をアレックスに向けてきた。苦笑しつつ、彼はわざと怒ったように腕を組む。
「こら。俺らはもう軍属じゃないだろう?」
「すいません、ついクセで……」
「こりゃあもう、ミリシアが奥さんだって事を教え込まないとなぁ?」
「え? それって……」
ぼっとミリシアが顔を赤くする。愛しい妻のそんな表情を間近で眺めながら、アレックスはははは、と笑った。
「さ、とっと帰ってリリーナ達を安心させてやろうぜ。あと各方面への謝罪もな。お前らのことだからまた暴走特急で飛び出してきたんだろ」
「……え、えへへへ」
「可愛く笑っても許さんからな??」
釘を刺しながらも、アレックスの心は晴れやかだった。
彼女達の為に身を砕くのは、なんだかんだで。
嫌いじゃない。
ああ。俺は幸せ者だ。アレックスは喜びをかみしめながら、助手席の硬いシートに身を預けた。
にぎやかに騒ぎながら雪原を走るトラック。
崖の上からそれを見下ろす陰が、一つ。
あの、地下でアレックスを出迎えた男である。彼は襤褸を纏ったまま、非人間的な視線を眼下に送っていたが、ややあって背後を気にするように首を傾けた。
「貴様たちと敵対するつもりは今の所余にはない」
彼の背後には誰もいない。ただ、よく見れば雪の中、小さな足跡が残されている事に気が付けるだろう。完全に姿を透明化できても、自分自身が存在する事実までは消すことはできない。
すぅ、とインクが染みだすようにして、空間に実像が結ばれる。
DEATH。異星生物の誇る最高の暗殺者にして破壊工作員。そして同時に、最高クラスの護衛でもある。アレックスの重要度を思えば、彼がここに派遣されているのは道理ですらあった。
ただ、この惑星は彼にとってアウェーでもある。それでも尋常の相手であれば何の問題もないはずだった。
フシュルルル、と息を吐き、警戒の様子を見せるDEATH。彼が光学迷彩を解いたのは、この相手には何の意味もないと見て取ったからだ。
「重ねて言う。貴様と今、ここで刃を交えるつもりはない。私はただ、息子の様子を見に来ただけだ」
低く告げて、男はトラックに視線を戻す。人知を超えた視力は、その助手席に座るアレックスの、気の抜けた笑顔をはっきりととらえていた。
「期待外れではあったがな」
『そして同時に、想定を大きく超えていただろう?』
語り掛ける声は、勿論DEATHのものではない。男と同じ声色で、男とは全く違う口調で幻聴が語り掛けてくる。それは当然、傍らにいる異星生物には届かない言葉だ。
男にしか聞こえない幻聴に、苛々と眉が顰められる。男は懐から懐中時計を取り出すと、ガシャリとその蓋を開き、文字盤に目を向けた。だが彼が見ているのは、刻まれた数字ではない。ガラスに反射する、己の鏡像だ。そこに映る彼自身は、口元を皮肉たっぷりにゆがめ、軽薄な笑みを浮かべていた。
『どうだ? いったとおりだろう。たった一人の未来予知者が見た破滅の未来は変えられない。神はサイコロを振らない、未来が予定調和の内にあるのなら、定められた滅びを覆す事は叶わない。だが、複数の未来予知者がバラバラに違う未来を見たら? どうだ、お前の当初予定していたよりも面白い結果になっただろう? 四人の超人類による、統一された人類による聖戦。破滅をただ引き延ばすだけに終わる愚挙が、混沌に満ちた予測不能な未来にすり替わったご感想は? 偉大なる者よ』
「……何も変わらない。何も変えられない。未来はすでに確定している」
『そうかい。まぁ、好きにするんだな』
「……ふん」
それきり、幻聴は鳴り止んだ。
男は不快そうに鼻を鳴らし、懐中時計を懐に戻した。一連の動作も、言動も、横から見てもさして破綻しているものではなかったため、傍らにいたDEATHも男の言葉が誰に向けられたのか、その真の意味を悟る事はなかった。もしかすると突然一人で喋りだして勝手に自己完結してなんなんだろう……ぐらいに思ったかもはしれない。
「……余はセカンドテラに帰還する。ここに二度と来る事はないだろう。せいぜい、愚息の機嫌取りに終始するがいい、大いなる全能者よ」
踵を返し、男はDEATHに背を向けて去っていく。
その背中をしばらく彼は見送っていたが、やがて危険は去ったと判断したのだろう。光学迷彩を起動し、彼もまたその場から姿を消す。
後にはただ、無人の雪原だけが残された。