昔々、まだ神と人間が共存していた時代のこと。
神々が創り出した豊かな大地に、一匹の狼がいました。その名はフェンリル。彼は北欧の神ロキと、女巨人アングルボザの子どもでした。しかし、神の子でありながら、その姿が狼であったため、神々はフェンリルを愛することができませんでした。
そんなフェンリルのもとに、一人の軍神テュールが現れました。テュールはフェンリルを家族のように扱い、愛情深く育てました。しかし、フェンリルは神の血を引いており、時が経つにつれて、その凶暴さが次第に増していきました。そして、やがてアースガルドに危機をもたらすだろうという予言が告げられたのです。
テュールはアースガルドの民を守るため、フェンリルを拘束する決断を下しました。
普通の鎖では神の子フェンリルを抑えることはできず、彼は簡単に噛みちぎってしまいます。そこでテュールはドワーフたちに、「猫の足音」「女の髭」「岩の根」「熊の腱」「魚の息」「鳥の唾液」を素材にして、魔法の鎖グレイプニルを作らせました。この鎖でフェンリルを拘束したのです。
しかし、フェンリルの神々に対する憎悪はますます深まり、ついには親ともいえるテュールの腕を噛みちぎってしまいました。
それを見た神々は激怒し、フェンリルを槍で刺し殺してしまいました。目の前でフェンリルを失ったテュールは深い悲しみに暮れましたが、噛みちぎられた腕を気にすることなく、フェンリルの死体をユグドラシルの元に埋めようとしました。その瞬間、フェンリルの体が青く輝き、まるで炎のように燃え上がったのです。
そして、その炎の中から赤子が生まれました。
赤子は、フェンリルと同じ金色の獣の瞳を持ち、漆黒の髪をしていました。肌は陶器のように白く美しい。テュールは、その赤子が愛したフェンリルの生まれ変わりだと悟り、今度こそ悲劇が起きないようにと願い、赤子に「ルーヴ」と名付け、大切に育てました。ルーヴはやがて、アースガルド一の魔術師へと成長しました。
「そして、その狼の末裔が私たちルーヴ族なんだ」
「わあっ! 狼の末裔なんてすごい! お父さん、私たちってそんなにすごい血筋なんだね!」
幼い少女は、父親の語るおとぎ話に瞳をキラキラさせながら言った。小さな手をぱちぱちと叩きながら、その場でぴょんぴょんと跳ねている。父親はそんな無邪気な娘の姿を見て、ふっと笑みを浮かべ、優しく彼女の頭を撫でた。
「カナエ、魔術師ルーヴの教えはね、代々受け継がれてきた。だから、俺たちもその教えを大切にしないといけない」
「うん、分かってる! だから私も、お父さんみたいに強くなりたいんだよ!」
カナエは拳をギュッと握りしめ、意気揚々と答えた。その顔には強い決意が感じられた。
「カナエ、魔術師になるっていうのは簡単なことじゃないぞ。訓練だって厳しいし、覚えることもたくさんあるんだ」
父親は娘の真剣な顔を見つめ、優しい声で問いかける。
「それでも、魔術師になりたいかい?」
カナエは一瞬、考え込むように黙ったが、すぐに顔を上げ、キラキラした目で父親を見つめた。
「うん! お父さんみたいに、困った人を助ける優しい魔術師になりたい! それが私の夢だもん!」
「困った人を助ける優しい魔術師か……カナエらしいな」
父親はくすっと笑って、カナエの頭をもう一度撫でた。
「へへ……私、お父さんのこと尊敬してるんだよ?」
「そ、そうなのか?」
「うん! お父さん、いつもみんなのために一生懸命だし、私もそういう風になりたいってずっと思ってたんだ」
「カナエ……」
父親は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに温かい笑顔を浮かべた。
「それなら、魔術師を目指すなら、まずは体調管理が大事だ。そろそろ寝る時間だぞ」
カナエはぷくっと頬を膨らませて、不満そうに父親を見上げる。
「えーっ! まだ眠くないよ! もっとお話聞きたいもん!」
「ははは! お話はどこにも行かないから大丈夫だよ。それに、少しずつ話すからこそ楽しいんだろう?」
父親は微笑んで、カナエを優しく抱き上げ、ベッドに連れて行った。
「むー……なんかずるい!」
布団に入れられながら、カナエはぶつぶつと文句を言うが、その顔にはどこか笑みが浮かんでいる。父親もそれを見て、優しく答えた。
「ずるくないさ。お前だって、いつか大きくなって結婚して、子どもができたら分かるよ。毎晩お話してあげるのが、どれだけ楽しいことか」
「……ふーん。まあ、そのときは考えてみるよ。でも、私、お父さんのお話が一番好きだから、ずっとお話してほしい!」
カナエは布団の中からにっこりと笑って、父親に甘えるように言った。
「それは嬉しいな。でも、今夜はもう遅いから、おやすみの時間だ」
父親は娘の額に優しくキスをして、大きな手で彼女の頬を撫でた。
「おやすみ、カナエ」
「おやすみ、お父さん!」
幸せそうな親子のやりとり。どこにでもあるような、暖かくて何気ない日常。これがいつまでも続けばいいと――あの日までは、そう願っていたのだ。