彼女と出会ったのは、ある雨の日だった。祭りのあった日だ。なんの祭りか、青年は知らなかった。
自分のバイト先の喫茶店で、雨が降っているというのに外の席で彼女は俯いていた。今日は早めに店を閉めるつもりだったので、そう言ったが、なかなか出ていこうとしない。あまりに鎮痛な面持ちに、追い出すこともできなかった。
「中で休んでいってもいいよ」と言うと黙ってついてきた。
危機感がないのだろうか。
あるいは、そういう判断ができないほどに悲しいことがあったのか。
――それとも、どうにでもなるという判断か、と青年は鼻を鳴らした。
これが外の話であれば、舐められた、と感じるのかもしれないが、ことこの学園都市では、そうはいかない。よっぽどの実力者であれば、十分かそれ以上に抵抗・制圧だってできる。
――羨ましい話だ、と彼は思った。
彼はここに住み込みをさせてもらっている。
店主はしばらく旅行に行っている。もともとひとの少ない店ということもあり、何時に店を閉めるかは彼の裁量次第だ。
部屋の真ん中に体育座りの子である。
雨を吸って重たそうなセーター、腕に張り付いたシャツ。
塗れたままではかわいそうだろう、とタオルを渡した。
「これも、良かったら」
洗濯したまま、畳まず放っておいた上着やらを渡す。
礼も言えないほどの沈思黙考っぷり。女の子がここまでになるということは、失恋だろうなと彼は思った。
風呂でも沸かそう、と彼は思った。知らない家の風呂に抵抗があるかもしれない、というか、そりゃああるだろうが、今にも折れそうなほどに凍えている子を放置することもできなかった。着替える時間もできる。
「常盤台の制服だったな」と彼は考える。
有名校だ。この都市に住んでいる人間であれば、判別できないわけがない。「そんな子も失恋するのか」。可能性としては考えられても、ありえそうになかった。決まってお嬢様だ。高嶺の花だから、うまくいけば逆玉だ。「それこそない話だよな」
彼もまた失恋したばかりだった。
一方的に連絡がつかなくなったのだが、調査もしようとしなかった。ずっと前に気持ちが冷めていたのだろう。突然の出来事ではなかったから、失恋した直後のことは覚えていない。何か問題はあったのだろうが、一体何だったのだろうか。
自分がやっていることが理想的なのかは分からなかった。
彼は「塗れた子猫を保護するようなものだから」と結論づける。たとえば妹がそんな状態だったとして、放っておけるだろうか。
そして、ただの保護な以上、雨が止めば然るべき場所に届け出なければならない。
「常盤台って門限、何時なんだ?」
湯が沸くまでの間、彼は少し調べてみようとする。
温かいお茶を淹れて戻ると彼女は着替えを済ませていた。机の上には濡れた服が、それでも丁寧に畳まれていた。煎餅布団の真ん中に座っていると、さきほどより一回り小さく見えた。彼は内心狼狽した。疼きかけたが、抑制する。相手は中学生、よくても高校生だぞ。外見要素をもう少し追加する。
「最近フラれちゃってさ」と語り出す。
相手が急に名指しされたかのようにビクっとした。
「なんのことよ」
その反応は、暗に自分のことを示しているぞ、と指摘はしなかった。
「おれのことだよ。あるいはカノジョのこと」
今日みたいな夏祭りの日だったなあ。用事があるとか言ってた。土産になるかと思って、一人で行ったんだ。写真でも撮って、”また行こう”ってさ。――ロマンチストね、と鼻で笑う。――そしたら、雨が降ってきた。嫌な雨だったよ。で、キャーキャー言いながら逃げる人混みの中にさ、いたんだよな。――。少女は黙り込んでいた。――知らない男と一緒だったよ。用事があるって、別の男とのデートだったんだ。
ほとんど嘘だった。昔からでっちあげるのだけは得意だ。
それは彼女が今日経験したこととを適当に想像して、男女を入れ替えたストーリーだった。細かいところはもちろん外れているだろうが、大筋は当たっていたと見えて、彼女は膝をキツく抱き、時折鼻を啜った。
「大変だったね」と彼は言う。
「……別に何ともないわよ」と彼女は言う。強がりだ。「ただ、あいつが誰かとくっつくなんて、考えたことなかった」
「本当に?」
「どうなのかしら……」
青年は、それ以上は尋ねないようにした。
この子が、その男とどのように付き合っていたかを聞くのは、さすがに掘りすぎだ。常盤台の女の子がどんな恋愛をするかには興味があるが、一人の女の子が相手となれば、それは踏み込みすぎな気がした。
携帯のアラームが鳴る。
「制服を乾かす間、お風呂でも入りなよ」と言う。「おれはカウンターにいるから、移動するところは見えない。乾燥機の使い方もわかると思うし」
つ、と彼女は彼の袖を掴んだ。上着がずり落ちて、彼女の細い腕が明らかになる。その白さが目を引いた。クラっときた。「
「まだ、寒いのよ」
彼は膝をついた。
目を閉じて、彼女は何かを待っていた。
それが自分でないことは、彼にも分かっていた。
分かってはいたが、他に方法がなかった。
彼は彼女を抱きしめた。
温かさに驚いた。彼女は寒いと言ったが、ちゃんと皮膚の下には熱が通っていた。生きている人間の熱量だ。そして、きっとそればかりでないのだろうな、と彼は思う。さまざまな感情が渦巻いているのが手に取るように分かった。混乱や緊張が、錯綜している。自分が失恋したのだと気づいた時もそうだった。
「ねぇ、そういう時、どうしたの?」
「誰かにこうしていて欲しかったかな」と答える。
失恋とは、植木鉢泥棒に似ている。
「……、そう」と彼女は言った。
背中に回していた手を上にスライドし、彼女の後頭部に添える。
彼女はふ、と軽い声を漏らした。緊張に震えていた。
頭の中で、自分が何をしようとしているのか、と問う声があった。諌めるような声だった。
目の前には小さな唇があった。その上に一滴の涙が乗っていた。彼はそれを吸いこむように、唇を合わせた。つけて、離す。二、三度そうすると、彼女の方も呼気を求めて唇を開ける瞬間があった。見逃さず、舌を滑り込ませる。
少女は目を閉じたまま、ビクッとする。体の動きが止まる。
唇をこじ開けた後は、歯の上に舌を乗せて、待った。
どうとでもなれ、という気持ちだったし、相手に任せる番だった。
彼女が嫌なら、そのまま上下の歯を下ろして、舌を噛めば良い。
反応を待っている間、彼女の口の中は唾液で溢れていった。甘い味が舌先に触れる。涙の味は溶けた。身を引くようにして待機していた舌が、おそるおそる近づいてくる。そこまでくればもう十分だった。青年は舌を絡め取り、右に左にくねらせる。
「ンッ、ンッ」
と彼女は言いながら、青年の背中を叩いた。
「ゴホッ……息、できない」
「鼻でするんだよ」
「恥ずかしいじゃない、鼻息」
なぜかその言葉が彼に火をつけた。「気にしないで」もう一度彼女の頭を捕まえて、深いキスをする。
こういうキスは初めてらしい。それともキス自体が初めてなのか、青年には分からない、常盤台のお嬢様たちは進んでいると聞いたこともあるが、目の前の子もそうだとは限らない。
はじめこそ、彼女は口で呼吸をしようとしていてた。舌先に呼気が当たる。生きている者の息。熱っぽく、それもまた甘い。こういう息をする生き物が、どうして失恋だとかそういうことになるんだろうな、と彼は頭の隅で考える。
一向に離してくれない相手を見て、彼女も諦めたようだ。鼻息が漏れてくる。なぜか鳴くような声だった。ふん、ふん、ふん。
舌のまぐわいはどんどん激しくなっていく。ぐるりと当たるたびにピリピリとする。快楽をそのまま舐め取っているようなものだ。それらの物質は頭に抜けて、快楽単体で埋めていく。他のことなんて考えている余裕がなくなってくる。
慣れないキスに、彼女は呼吸のタイミングが掴めずにいた。
力なく、彼の胸を押す。
それを合図に、彼も彼女から唇を離した。
全身を眺める。
体の薄さに幼さが透ける。丸く小さい肩、肋の浮いた胸には小さな乳房があって、下着に鼓動を隠している。腰にいたっては二周りも細いのではないか、と青年は思う。そのおそろしく華奢な身体に、一個の人格が詰まっている――そのことに彼は感動とか畏怖のようなものを覚えた。おそらくは失恋し、それ以前はどうにか恋をして、ついさっきまではキスに適応しようとしていたのだ。
そういった一連のギャップを前にして、青年はとてつもなく固くなっていた。罪悪感と、これからしでかすことへの興奮もあった。ともすれば不可侵の少女
沈黙を詰めたような彼女は、戸惑いながらこちらを見ている。青年の本体ではなく、青年の顔を。そこから何かを読み取るように。純真さ故の過ちだったが、正しい反応だった。絶対的に正しい。
その清純さが、どうしてもほしい。荒くなる息を抑えこむように、彼は唾を飲み込む。決定的なほど大きな音がした。
それでも、彼は優しく彼女を押し倒した。