「アトレア……?」
やはり名前を聞いても思いだせない。
「わたしだってわかるようにヒントも出していたのに、ここに来て顔を見るまで思い出してくれないなんてひどいですね?」
「……残念だけど、わたくしに仲間を疑うという感覚はないの。あなたが裏切っていたなんて、微塵も思っていなかった……わたくしも、他のみんなもね」
「……」
「アトレア、もう一度だけ聞くわ……本当に、あなたが十年前、彼を罠にはめたの?」
癒蘭が問いかける。
その表情は、まだ信じられないといった感じだった。
メアは少し間を空け、目を合わせず答える。
「はい、そうです。わたしが人質として捕まったフリをして、彼が一人で救いに来るよう仕向けました」
「……そう、わかったわ。もう聞かない、何も聞かない」
癒蘭はコン助を撫で、そっと囁く。
「──あの女を殺しなさい」
『グルルルゥアアッ!』
コン助が勢いよく駆けだす。
地面の草を抉り、真っすぐにメアのもとへ。
彼女を守るように探索者たちが壁を作るが地面に転がる石ほどにも役立たない。
左右に動いて障害物をよけると、無防備なメアの目前で振り上げた腕を一切の躊躇いも無く振り下ろした。
だが、
「……助けて、メア」
メアがお腹を撫でると、彼女の下腹部が光を帯びる。
次の瞬間、宙に浮かぶ水がコン助の腕を包み込み、その一撃を止めた。
「あれは、スライムか……?」
液状の見た目で透明とは違う薄い青色の水の塊は、液体の一部が飛び散っても地面を這って本体へと戻っていく。
魔物の中でもっとも弱いとされるスライム。だがメアの前で立ちはだかるスライムは、俺が今まで見てきた大きさの数十倍はあり、コン助と同じぐらいの大きさがあった。
「相変わらず、ぬるぬるした見た目ね……」
「ひどいですね。ドМな癒蘭も前に好きだって言ってくれたのに、このぬるぬるした見た目。それに柔らかくて気持ちいいですよ?」
ねえ、とスライムに声をかけると、スライムは『もぎゅ』と小さく喋った。いや、鳴いた。
メアは形を変えたスライムをイスにして座る。
「クレスさん、取引をしませんか?」
「取引?」
「クレス、あの女の言葉に耳を貸すな」
既に細剣を鞘から抜いていたエリザがメアを睨み付ける。
メアもまた、表情は笑顔のままだけどエリザを見ていた。
「わたしはいま彼に話しかけているんです。邪魔しないでもらっていいですか?」
「悪いが、旧友である癒蘭が敵意を示した時点でお前と話す気はない。十年前、罠にはめたのが本当だというのならなおのこと」
「そうだよ! どうせまた罠にはめようって魂胆なんでしょ!」
アリスと頭に乗せたラビーは揃って手を振り上げ抗議する。
「……邪魔だな、ほんと」
メアが初めて表情を変えた。
冷めた、感情のない無表情。
「わたしは彼と話したいの。癒蘭ならともかく、何も知らないあなたたちは喋らないでください」
「私とアリスは、何も知らないかもしれない……。だが、クレスの側にいると決めた。もう、逃げないと……」
「……そうだよ。ボクたちだって喋る権利ぐらいある!」
「アトレア、後輩には優しくしないとダメよ。先に彼と結ばれた者は後に彼と結ばれた者に優しくする。それが彼の考えだった……それも忘れた?」
「……はあ。もういい」
スライムから立ち上がると、メアは手を伸ばす。
「わたしたちの望みは彼をお母様のもとに連れて行くこと。交渉決裂というのなら、無理にでも連れて行きます」
シュッと風を切って手を振り上げる。
いや、何かを上に投げた。その瞬間、ありとあらゆる光が失われ──闇に包まれた。
「これは──癒蘭、エリザ、アリスッ!」
何も見えない闇の中、周囲に向かって叫ぶ。
だが返事はない。歩いても、走っても、さっきまであった草の地面を踏む感触も、体が風を切る感触もない。
どこまでも続く闇の中、そんな感じだ。
だが不意に眩い光が生まれると、景色が大きく変わった。
「ここは……」
地面を力強く叩く強い雨が降り注ぐ。
空には雨雲。俺が立っている地面は石造りの橋の中心。
景色に色が無い。遠くに見える木も、橋の下に広がる川も、それら全てが薄暗い灰色の世界。
ここは現実か?
「ここはおよそ十年前、あなたとわたしが最後に会った場所です」
色を失ったメアが橋の向こうから歩いてくる。
「これは、暴食の魔女の力で見せた幻影か何かか?」
「いいえ、これは古代遺物の力です。その者の過去を映像として作り出し見せる古代遺物。なのでここは、あなたには無い記憶。わたしにある記憶の中ということになります」
「……他の三人はどうした?」
「同じく彼女たちにも自分の過去の記憶を見せています。危害は加えていませんから安心してください」
ですが、
「見たくない過去を見て、平気でいられるかどうかはわかりません」
「……なぜこんなことをする」
体が動かない。
ただ橋の上で立ったまま、首から上しか動かず、メアを見ることしかできない。
「言ったではないですか。わたしたちの目的はあなたをお母様のところに連れて行くことだと。でもその前に少し、お話ししませんか?」
「話し?」
メアはにこりと微笑んだ。
♦
「なんだよ、これ……」
走っても走っても、何も変わらない。
ボクがいる景色が変わらないのか、ボクの人生が変わらないのか。
遠くに見える煌びやかな世界を目指しても、ずっと足下は暗いまま、何も変わらない。
「なんでまた、貧民街にいるんだよ!」