ヘレッサは目を閉じた。
息はしている。眠っているだけだ。
それでも砂に変わった体は、普通だとは思えない。
『お母様が身を挺して力を封じてくださった。もう、彼に自分が色欲の魔女の代行者だと思いださせません。だからどうか、どうか……今は休んでください』
過去のメアは涙を流すと、スライムの眷属を見る。
さっきまで自分とヘレッサの体を締め付け、凌辱しようとしていた眷属は、主と同じく悲しそうに少しだけ全身が前のめりに倒れていた。
メアは愛する我が子に優しい声をかける。
『メア、お母様を運ぶのを手伝って』
スライムは何も言葉を発したりはしないが、ヘレッサの体を優しく持ち上げる。
──そこで目の前で起きた過去の物語は終わった。
現実の世界、地下迷宮。
だが俺たちがさっきまでいた場所とここは少し違った。
「これは……」
さっきまでいた中層入口とは違う、どこか小さな村のような和やかな雰囲気がある場所。
ドーム型の空間に、家屋がいくつも建ち並ぶ。
俺たちの他には誰もいないが、それでも確かに誰かが住んでいた形跡はあった。
「ここは中層深くにあるセーフエリアです。みなさんが眠っている間に、メアに頼んで連れてきてもらいました」
「眠っていた……? もしかして俺たちは今まで寝ていたのか?」
「はい。わたしが使ったのは対象を眠らせ、過去の夢を見させる古代遺物です。本来は戦闘ではなく記憶を共有する古代遺物なんです」
メアはそう言うと、とある家屋へと足を向かわせた。
状況が掴めず、俺たちは彼女の後を付いて行く。
一般的な家屋とは違う、どこか教会のような幻想的な場所。
「どうして地下迷宮にこんな場所が……」
エリザが不思議そうに声を漏らす。
屋内はさらに教会っぽさが増す。大勢の者が祈りを捧げられる空間に、ガラス張りの窓。
神だとかに興味がない俺には何も感じないが、そういった存在を信じる者からしたら神秘的な場所なのだろう。
「お母様……連れてきましたよ」
奥へ案内されると、そこに彼女はいた。
過去の映像で首から下が砂に変わったヘレッサは、もう、その浸食を顔まで進ませていた。
砂で作られた人形。
おそらく理由を知らなければそう片付けていただろう、よくできた人形だと。だが過去を見た。どうしてこうなったのか知った。
この砂の人形が、元はヘレッサだということを俺たちは知っている。
「そ、んな……」
アリスが口を抑えて後退る。
エリザも癒蘭も直視できない。
記憶の無い俺も、彼女には言葉では言い表せられないほどの恩がある。
「すみません、連れて来るのが遅かったですよね……」
メアがヘレッサに手を伸ばす。
過去の映像では息をしていたヘレッサは、もう息をしていない。
メアが漏らした「遅かった」という言葉の意味を知って、俺は目を伏せた。
♦
俺たちは場所を変えた。
ヘレッサをそのままにしたのはメアの意志だった。
──そして真相を聞いた。
俺の記憶が無くなった理由。
暴食の魔女の代行者であるヘレッサの振り絞った力で、色欲の魔女であるアスリアの力を奪った。
それによってアスリアはあの子供の姿に変わった。
俺が子供になり記憶を失われた理由は、色欲の魔女の代行者として今後、力に目覚めさせないようにだという。
もしも目覚め、何らかの原因でアスリアが元の体と力を取り戻したら、再び眷属が操られる恐れがあるから。
俺に、もう魔女や代行者の件に関わらせないようにしたということらしい。
「だが、俺はこうして色欲の魔女の代行者としての力に目覚めてしまった」
「はい。まさか死を体験すると幻の世界に行けるなんてお母様からも聞いていませんでした。けれど誤算でした。まさかウェルダーと戦ったことで力に目覚めたとは……。わたしは既にあなたは力に目覚めていて、エリザとアリスに眷属を生ませていたのだと勘違いしていました」
「だからあのちき、ボクたちをクレスと引き離したってこと?」
「色欲の魔女アスリアも言っていたように、眷属を操るのは第二段階に入ってからです。なので第一段階しか進んでいないお二人が彼から離れれば、これ以上の成長はないと考えました」
「成長はない……?」
腕を組んで壁に背を付けるエリザ。
その疑問に、癒蘭が答える。
「眷属の成長は、彼と何度も性行為をすることなのよ……。だからもし、彼から離れて関係を断てば眷属は子供のまま成長しない。あの色欲の魔女の言ったように第二段階は一生訪れないということよ」
「ええ、癒蘭の言う通りです」
「でもあなた、優しい先輩みたいなこと言っているけど、本心では彼とイチャイチャしている二人に嫉妬していたんじゃない?」
「……」
癒蘭がおちょくるように言うと、メアは笑顔を浮かべたまま「さあ」ととぼけた。
「メア、一ついいか……?」
「はい」
ある程度のことは聞いた。
まだ聞きたいことは山ほどあるが、今もっとも解決したいことが一つある。
「俺は前の自分の名前を認識できない。これは過去の記憶を奪ったことと関係あるのか?」
「……いいえ、それは関係ありません」
「やはりそうか」
俺が聞き取れないのは俺の過去の名前だけだ。
だが他の過去のことについては聞き取れる。だから関係ないと思ったんだ。
「本当は、記憶と一緒に過去の名前を忘れて生きてほしかったのですが……もう、余計なことですね」
メアはそう言うと、俺の胸に人差し指を触れさせる。
そしてゆっくりと、どこか感慨深く文字を書いた。
終わると、俺から離れたメアはいつも見せてくれたあの笑顔を浮かべた。
「もう、これで大丈夫ですよ」
体に変化はない。
ただ指で撫でられただけ。
そんな俺に、癒蘭は恐る恐るといった感じで──名前を呼んだ。
「……ヴァイズ?」
「ヴァイズ?」
「ヴァイズ……やっと、やっと名前を呼べた。やっと、あなたを呼べた……っ!」
涙を流した癒蘭が、勢いよく俺に抱き着く。