──ヴァイズ。
この名前に愛着も聞き覚えも無い。
記憶が戻っていないのだから当然だ、俺がこのヴァイズと呼ばれたことは一度も無い。
だけど涙を流し、心の底から嬉しそうにしている癒蘭の反応を見て、これが俺の本当の名前だということはわかった。
相手の名前を呼べただけでここまで喜ぶ。
きっとこの名前には、過去の俺と彼女が築いた多くの思い出があるのだろう。
そのことを思い出せなくて心苦しく感じることを表に出さず、俺は癒蘭の体を抱きしめた。
「メア……いや、アトレア。ありがとう」
「──ッ!」
彼女の本名もアトレアだ。
であれば眷属の名前であるメアではなく、アトレアと呼ぶべきだろう。
彼女と築いた記憶の無い俺が呼んでもいいのかわからなかったが、彼女は顔を背け、涙を流した。
そして小さな声で「……ごめん、なさい」と呟く。
「過去のことへの謝罪か? それはお前が謝ることじゃない。お前も、ヘレッサも、あの過去の映像を見たかぎりだと俺の身を案じてやったことなんだろ?」
「それでも! それでも……わたしは」
「俺には記憶が無い。だけど、過去の俺がアトレアを愛していたのは見ていてわかった。だから」
アトレアへ歩み寄り、彼女の頬を撫でる。
「もう一度やり直そう。記憶の無い俺で良ければ、一緒に」
「でも!」
「もう、いいから頷きなさい!」
癒蘭が腕を組んで眉を寄せる。
「あなたが裏切ったという事実は確かにあったわ。あの日、ヴァイズとアトレアが帰ってこなかったときからわたくしたちはずっと苦しんだ。だけどね、この事実を話して、それでも怒るような子なんていないわよ」
「でもわたしは」
「あーもう! あなたって昔っから真面目で固いわよね! だから、ヴァイズにもよく『お前は超が付くほど真面目だな、セックスしているときはあんなに──』」
「なっ! そ、そそそ、そのことは彼の前で言わないでください!」
頬を赤く染め、涙目で癒蘭に詰め寄る。
そして癒蘭はアトレアに笑顔を向ける。
「それに、みんなにも自分の口から説明しなさい。きっと怒らないで、あなたが無事だったこと喜んでくれるはずよ」
「……」
「まあ、あの口うるさいエルフは永遠と小言を言ってくるでしょうけど、そこは覚悟しておきなさい」
「わたしはあなたみたいに彼女と仲悪くないので大丈夫だと思いますけど」
「ムカッ! 別に仲悪くないわよ、あの女が勝手にわたくしのことをライバル視しているだけ!」
長年の付き合いだからだろう、二人を特別な雰囲気が包み込む。
その光景を眺めていると、心が和む。
「私たちは、クレスのことをどっちの名前で呼んだらいい?」
エリザとアリスも二人の輪に入らず俺の隣に立つ。
「どっちでも構わない。好きな方で呼んでくれ」
「そうか」
「うーん、ヴァイズ……クレスがヴァイズかあ。エリザはどうする?」
「私か? 私は……」
少し考え、笑顔で応える。
「彼女たちみたいに何十年も呼び慣れた名前じゃないから、この機会にクレスからヴァイスに変えるのもいいかもしれない。……だけどやっぱり、私にとってクレスはクレスなんだ。地下迷宮で初めて会ったときも、背負って助け出してくれたときも……ベッドで愛し合ったときも、私はクレスをクレスと呼んだ。たった数ヶ月しかない関係であっても、私はクレスをクレスと呼びたい。ダメ、だろうか……?」
エリザに見つめられ、俺は首を振る。
「いいや、構わない。それと言わなかったが、エリザに今までと別の名前で呼ばれたら、もしかしたら嫉妬するかもしれないからな」
「他の男の名前を呼んだと思ってか?」
「ああ」
「まったく、じゃあこれからは大変だな。クレスと呼ばれたりヴァイズと呼ばれたり」
「そうかもな」
俺にとってヴァイズという名は過去の名だ。
記憶があればその名で呼んでほしいと思ったかもしれないが記憶はない。
それにクレスという今の名には少なからず愛着がある。
今は亡き育ての親でもある団長が『振られた女の名前を付けた』とかいうクソみたいな理由で付けた名前だけど、それでも大切な名前だ。
だから今の俺を完全に消したくはない。
今の俺を消して、全てを記憶の無い過去の俺に変えてほしくはない。
「じゃあ、ボクもクレスって呼ぼう! やっぱクレスはクレスだしね!」
どうやらアリスも、最初からこっちの呼び名でいこうと思っていたらしい。
「そうか。それより、いいのか……?」
「いいのかというのは?」
「過去の映像を見ただろ。このまま俺の──色欲の魔女の近くにいていいのか?」
癒蘭とアトレアと違って、二人の眷属はまだ子供だ。
話を聞くかぎりでは俺と性行為を重ねれば眷属は成長するらしい。
このまま成長したら、モーナとラビーも──。
「色欲の魔女は嫌いだ。過去の映像に出てきたあの女の笑顔には嫌悪感しかなかった。あのまま止められなかった光景を想像したら……」
目を伏せたエリザだったが「だが」と言葉を続けた。
「それがクレスから離れる理由にはならない」
「そうそう。というよりそれ聞いて逃げるの、なんかムカつくもん! ボクのラビーにあんなこと絶対させないんだから!」
ふんふんと拳を突いて戦う意志をアピールするアリス。
「それにだ。お前は……もしも私たちが離れたいと言ったら、素直に離してしまうのか?」
正直なとこ、それがもっとも安全ならそうすべきだと思った。
だけど覚悟を決め、一緒にいたいと言ってくれる二人に伝えるべき本音はそうじゃないとわかった。
だから二人の体を抱き寄せ答える。
「そんなわけないだろ。お前らは俺の大切な女だ。嫌だと言っても、そんな考えが消えるぐらい何度も抱いてやる」
「そ、そうだろ! ふん、それでこそクレスだ!」
「うわー、エリザなんか鼻息荒くない? もしかして発情してるー?」
「なっ、そ、そんなわけないだろ! バカなこと言うな!」
「ムキになってー、余計に怪しいよー?」
「アリス!」
「ねえ三人とも、イチャイチャするのは後にしてもらえる?」
大きくため息をついた癒蘭。その隣にいるアトレアは、さっきまでの重苦しい表情はしていなかった。
「そっちも話はついたのか?」
「ええ、昔話に花を咲かせてね。それで、アトレアからお願いがあるそうよ」
「お願い……?」
アトレアを見る。
彼女から古びた紙を渡された。
そこに記されていたのは──何の変哲もない砂時計の絵だった。
「これは?」
「これは古代遺物の一つで──過去に干渉することができると言われています」