「じゃあワカモ、今日も一日、頑張ろうね」
「はい、あなた様」
保護観察期間が始まってから二週間あまりが経とうとしていた。梅雨の到来を実感する六月上旬の蒸し暑い朝、ワカモは私に同伴してシャーレに到着した。彼女はオフィスのエレベーター前で予定の確認をして、そのまま自習室へ向かった。
学業にあまり真面目でなかったワカモは、このままだと卒業までの単位が足りなくなってしまう。そこで、私は連邦捜査部の権限を利用して百鬼夜行の教材をもらい、彼女に補習を課していた。早めに設定した課題のペースになかなか苦労しているようだ。だが、そうでもしないと、困るのは復学後のワカモだ。
今日も今日とて書類の山と格闘していると、トリニティ総合学園の羽川ハスミが、小走りで執務室に駆け込んできた。
「先生、ご報告があります。その、バルコニーの花壇に……」
「あぁ、ワカモかな? 大丈夫だよ。訳あってシャーレで身柄を預かっているんだ。肩にバッジをつけているでしょ? 花壇の手入れを頼んだだけだから、安心して」
「そ、そうなのですか。先生がそうおっしゃるなら……」
ハスミの暗赤色の瞳は、まだ当惑に揺れていた。
シャーレの当番へやってくる生徒で、ワカモの噂は知っていても、彼女を実際目にした者はそう多くない。しかしながら、ハスミのように、ワカモの巻き起こした事件に関わったことのある者は、慌てて私へ報告にやってくる。
「そっとしておいてあげれば、それでいいよ。でも、もし何か不審なことをしていたら、すぐ私に知らせてね」
「ええ、かしこまりました」
銃弾の全てを私が預かって、ワカモは武装解除されている。丸腰でないことが分かるように愛用のライフルを担いではいるから、いきなり襲われるようなことはないようだ。
それでも、お尋ね者である「災厄の狐」の姿は、それだけで警戒心を呼び起こす。今までの行いが悪しき尾を引いているのは確かだった。
ワカモとの共同生活が始まって、明確に変わったことがある。食習慣だ。多くの生徒から私はその杜撰さを度々指摘されていたが、最近は血色が良くなったと言われることが多くなった。
今日持たせてもらったお弁当も、ふんわりした厚焼き玉子や、甘じょっぱい粗挽きの肉団子が嬉しい一方、アスパラ炒めの緑やミニトマトの赤で彩り豊かで、見た目にも美味しい。しかしながら、桜でんぶで鮮やかなハートが白飯の上に描かれていたりするので、人前では開くには勇気が要る。一人になった時を見計らってデスクで頂くのがほとんどだ。
私の懐事情を早々に教えておいたおかげなのか、ワカモは料理本に付箋を貼って勉強し、スーパーのおつとめ品や冷蔵庫の残りものを上手にやりくりしてくれる。「あなた様のため」と献身的な努力をしてくれるのは、何とも有難かった。
「……今日は、こんな所かな」
午後六時。緊急性の高い業務はひとまず決着した。やらなければならない仕事はまだまだあるけれど、今日はミレニアム自治区へ訪問しただけでお出かけが済んだから、まだマシな方だ。以前だったらこのまま残業だったが、今はそういうわけにはいかない。ワカモを連れて家に帰らなければならないのだ。私も私で、業務の進め方を工夫する必要に迫られていた。
見られても問題ない書類を選んで鞄に詰め、ワカモを迎えるべく、靴を履き替える。バッジのシグナルをスマホで探ると、どうやら彼女は休憩室にいるらしい。
「ふふ……うふふ……どうです、あなたの命はあとわずか。じわじわと、着実に追い詰めて、その命の儚さを教えて差し上げます……」
休憩室の椅子に腰かけ、ワカモは梱包シートをぷちぷちと潰していた。私が声をかけると我に返り、さっとそれを鞄にしまった。狐耳を寝かせて、照れ笑いを浮かべている。破壊衝動の代替行為としてプチプチ潰しを思いついたようだが、ストレス解消の現場を私に見られるのはどうも恥ずかしいらしい。
「やぁワカモ、お疲れ様」
「ええ、お疲れ様です。……先生、本日の課題はこちらに」
「うん、チェックするね」
課題達成シートと照合し、承認のスタンプを取り出した。進捗管理の証に押すスタンプを彼女は気に入っていて、きっちり課題を仕上げて出してくる。
保護観察が始まった頃よりも、ノートが見やすくなった。ノートの中身は、頭の中身。学んだことを整理してアウトプットできているのが見て取れた。
「うん、よく頑張ったね。今日はネコさんにしようか」
「……! ありがとうございますっ……!」
シートの空白が最高ランクのスタンプで埋まっていくのを見て、ワカモは目を輝かせる。十八歳という年齢の割に無邪気なリアクションだった。それだけ、まともな学校生活を送っていなかったのかもしれない。こちらの承認に顔を赤らめて喜んでいるのを見ると、こちらとしても、たっぷり褒めてあげたくなる。
「じゃあワカモ。帰ろうか」
「はい、あなた様。……その、今晩は、召し上がりたいものはございますか?」
「うーん……あ、今日は、煮魚の口かな……」
「では、そのようにいたしましょう。金曜日はお魚の安売りをしていますから、今からならば、なおさら好都合です」
休憩室を後にしながら、ワカモはスマホのメモ帳を確認していた。
ルームシェアの相手ができたことで、私はある意味、家の中でも気が抜けなくなっていた。いくらプライベートな空間とは言っても、品の無い所は見せられない。
一定の緊張感が出るのは悪いことではないが、ワカモとの生活を送る上で、対処に困ることもあった。
「あなた様、お風呂をどうぞ」
湯上りのワカモが、バスタオル一枚で浴室から出てきた。数歩分の距離が開いているのに、濃厚な石鹸の匂いが私の所まで漂ってくる。
「ワカモ……ちゃんと服を着ないとダメだよ」
私は努めて冷静に話した。
収縮色の黒い制服姿では目立たないが、衣服の下に隠されたワカモの肉体は、はちきれそうな程に瑞々しくて豊満だ。バスタオルの縁から零れんばかりのバストはふっくら柔らかそうで、かと思えば肉付きの良さに対してきゅっとウエストはくびれている。
標高の高い双子山に負けず劣らず、お尻もボリュームがある。むっちり肉厚な太腿に、曲線美の見事なすらりと伸びた美脚といい、気を張っていないと視線を奪われそうになる。タチの悪いことに、ワカモは己のスタイルの良さを武器として自覚しており、すぐ私に誘惑を仕掛けてくるのだ。
「ふふっ、先生の前ならば、このワカモ、生肌を晒しても……」
「そういうのはよくないよ。節度を守らないのは、だらしないから」
ワカモを諭すのに私はいつも慎重だ。言葉に勢いを持たせてしまえば、思い込みの激しい彼女はたちまちに取り乱してしまう。
さて、今回はどうだろうか。
「……はい、かしこまりました」
従順な返事に、私はほっと胸を撫でおろした。ところが、彼女は脱衣場へ引き返さず、ひたひたとこちらに足音を近づけてくる。
「――お背中を流しましょうか……?」
ねっとり湿った囁きに、思わず尻が跳ねてしまった。
「もう、ワカモっ。体を洗うのは一人でするからっ」
何かにつけてワカモのアプローチは積極的だ。のらりくらりとかわし続けるのにも神経を使わされるが、かといって無下にもできない。
「うふふ……失礼いたしました」
含み笑いをしながら、今度こそワカモは脱衣場へ戻り、
浴室に向かう時にちらりと見ると、ワカモはインナーカラーの赤が入った髪を櫛で丁寧に梳かしていた。カラスの濡れ羽色の、腰まで伸びた黒髪は、ドライヤーで乾かすにも時間がかかって大変そうだ。私が風呂から上がる頃には、ツヤツヤした毛並みの尻尾のブラッシングをまだしているかもしれない。
「……次に同じことをされないようにしないと」
鼻腔に残る風呂上がりの匂いを、大人の理性で振り払った。
二人暮らしが始まって以来、私のQoLが向上したのは確かだ。掃除されたリビングを目にすると、自分の寝室を散らかしっぱなしにはしていられない。家事を任せきりにするわけにもいかないから、せめてと思って、洗い物やトイレ掃除は常に私が先手を取る。
家に帰っても仕方がないからこのままシャーレに泊まろう。そう考えていた自分が嘘に思えるぐらい、自宅が心地よくなっていた。それは紛れもなくワカモのおかげであったのだけど――彼女の厚意に甘えている気がして、私は後ろめたさを抱えていた。
「……冷たっ!」
温水を待つのを忘れた私に、シャワーヘッドが冷や水を浴びせてきた。
* * * * *
六月の中旬になって、D.U.は本格的に梅雨入りした。ジメジメした空気に肌がべとつく。
雨の降る中での出動は、シャーレの招集に応じた生徒達にとっても気が滅入るようで、浮かない顔をされることも多かった。硝煙は水分を含んで泥混じりになり、青春真っ盛りの清潔感を汚していく。
特にトリニティの生徒は制服の白い子が多く、濡れた場所や泥がついた場所がよく分かってしまう。私はつい、「ありがとう」の前に「ごめんね」を口にしがちだった。
この日私は、朝にアビドス、昼にトリニティ、そして午後からはゲヘナと、あちこち飛び回っていた。
風紀委員会での用事が済んで、ようやくシャーレに戻れるところだ。睡魔を遠ざけておくのに、ブラックコーヒーが有難い。
「……そろそろ来るみたい」
シャーレから呼んだ迎えがゲヘナ自治区に入ったと、スマートフォンに通知が来た。あと数分で、風紀委員会本部のヘリポートに、自動操縦のヘリコプターがやってくる。揺れがきついが、最短距離でシャーレに帰るには、空路が一番だ。
「コーヒーごちそうさま。ありがとね、アコ」
「お粗末様です。こちらこそ、先生がゲヘナにいらして助かりました。連邦生徒会に直接文書の承認を依頼すると、書式が違うだの不備があるだのと口やかましいので。きっと、ケチをつける上手さで選ばれたのでしょうね、あの方々は」
「ところで先生。噂を耳にしたのですが……『災厄の狐』が近隣にお住まいだそうですね。D.U.で並んで歩く姿をチナツが目にしたそうで」
「近隣――まぁそんな所だね。保護観察中なんだ。学園間の政治に関わりが薄いし、テロリストとして行動を起こさなければそれでよし、と判断されているみたい」
「ご苦労お察しします。あんな危険人物がご近所とは、先生もご不安でしょう」
治安の悪いゲヘナで危険人物には慣れっこのアコが、苦々しい顔をしていた。
「不安、ではないけど――」
息苦しい――と口にしかかって、私は慌てて唇を噛んだ。
「……ヘリが到着したみたい。またね、アコ」
「えっ? ……えぇ、お疲れ様です」
私の言葉の続きを待っていたアコは、目を丸くした。つつかれたくない思いが、私の顔に出てしまっていたかもしれない。ヘリの到着までは、まだ数分あった。
小降りだった雨は昼過ぎの勢いを取り戻し、曇天のねずみ色を一層濃くしていた。ヘリコプターに乗り込むまでの間なら、と私は傘を開くのを面倒くさがっていたが、突如強く吹き付けた風に、全身を派手に濡らされてしまった。
溜息と共に乗り込み、扉を閉じて、行先をインプットする。
念のために酔い止め薬を服用しようとしたが、薬ケースは空っぽだった。
買いに戻ろうかと思えば、もう機体が浮かび上がる。
何だか今日は、噛み合わない。そんな気分にさせられた。
格納庫に入ってしまえば、もう雨は他所の出来事だ。だから、私がヘリの中に傘を置き忘れたのに気付いたのは、シャーレのビルを出る直前のことだった。
「あ……置いてきちゃったな、傘」
「あら、それならば、こちらへ」
ワカモが、携えていた傘を優しく開いた。雨雲で濁った空の下に、鮮やかな紅がぱっと咲いた。
私の持っているビニール傘とは全く異なり、骨の本数が非常に多く、その骨と持ち手が竹で出来ている。開いた傘には、白く太い円が広がっていた。「蛇の目傘」と言われる和傘らしい。
「ありがとう、ワカモ。助かるよ」
私は、素直に彼女の申し出を受け入れた。濡れるのを気にせずにいられるほど、雨は緩やかではない。シャツはともかく、ジャケットをずぶ濡れにするわけにはいかなかったのだ。
「先生と相合傘とは……うふふ、今日は良い天気です……」
ぴとっと肩がくっつき、
今や、私の心の中に、彼女の存在は根を下ろしていた。
だが、私は先生だ。私と彼女の間には明確な線を引かなければ。
彼女の前では、私は一人の男であってはいけないのだ。
地下鉄の最寄り駅から自宅までの道程を歩いていると、ワカモの左肩が色濃く湿っているのに気が付いた。シャーレを出た時よりも雨脚は強まっていて、道路のあちこちに水溜まりができている。
「ワカモ、肩が濡れているじゃない」
「よいのです。大切なあなた様を雨に濡らすわけには参りません」
「私は平気だよ。ほら」
傘を少し押してワカモをすっぽり収めたが、すぐに押し返されてしまった。
「いえ、このワカモなどよりも、あなた様の方が……」
「……ワカモ」
「あなた様は、私の歩むべき道を照らす天の光。いついかなる時でも、最も健やかであってほしいのです。そのためならば、私が多少雨に濡れることなど些事に過ぎません」
「…………」
彼女が私を心配してくれているのは、よく分かる。無差別で大規模な破壊行為を繰り返したテロリストという経歴が、嘘に思えるほどだ。
だけど、私へ向けられる優しさが、挨拶のように差し出される好意が、胃もたれのように重たいことも、否定しきれなかった。
息苦しい。
そんな一言が滑り出てしまいそうで、また私は唇を噛んだ。
* * * * *
マンションに帰ってくると、ワカモは自分の身支度もそこそこに、夕飯の支度を始めようとした。シャワーを浴びるならあなた様が先に、と言って聞かなかった。尻尾の毛束が濡れてテカテカしているのに、私が気付いていないと思っているのだろうか。
冷めた体をシャワーで温めながら、私は考えた。
ワカモにとって私は一体何なのだろう。
己のことをこうも差し置いて私に尽くすなんて、歪んだものを感じる。
一目惚れなんです――
ワカモは以前そう言った。バレンタインのチョコレートと共に、明確に好意を伝えてきた。保護観察が始まってからも、その心は変わっていないようだ。私の指示には疑問を持たず従うし、常にかいがいしく尽くしてくれる。無理しがちな私の体の心配だってしてくれる。
だけど私は、自分を卑下してまで私を持ち上げようとする彼女を見ているのが、切なくて、苦しかった。明確に「上と下」を作られているようで、かえって距離を感じた。
良い子にしているワカモは順調に更生しているように思えたが、これは、違う。もっと深い所で、すれ違いを起こしている違和感があった。
今日の夕飯のメインは、野菜たっぷりのポトフだった。鶏肉とジャガイモとニンジンは一口大に切り揃えられ、圧力鍋で煮込んだタマネギはとろとろになっている。具材に染みこんだ旨味が溶けだして、優しい味わいだ。疑いようもない、ワカモの気遣いが伝わってくる。
「今日のゴハンも美味しい」
「ふふ、光栄です。ありがとうございます」
「うまくいかない一日だったけど、いい感じに終われそうだよ」
「あなた様に、そのようなことが……?」
ワカモはキョトンとしていた。
「そういうこともあるよ。ミスをして当番の生徒に叱られることだってあるもの」
「あなた様を叱るとは、礼を失した不届き者ですね……」
「そう悪く言わないであげて。その時の原因は私にあったんだから」
「ですが……」
私が最後の一口を食べ終えた所で、ワカモの表情が曇りだした。
「魂の深くにまで響くお言葉で、私を力強く導いてくださるあなた様が、失敗などなさるはずが……」
「……ワカモ」
後頭部で、毛の逆立つ感覚がした。共同生活を続ける内に芽生えた違和感は、いよいよもって胸郭いっぱいに膨らんでいた。
「私のことを持ち上げすぎだよ」
スプーンを置いて、私はワカモの瞳を見据えた。
ハッとした顔になって、ワカモが目を伏せる。
沈黙が流れた。そして稲光。
激しい雨音に、雷が混じりだした。
「仕事のミスはもちろん、寝坊だってするし、今日だって傘の忘れ物をして、君の傘に入れてもらったよね。私は特別じゃない。普通の人間だよ。それどころか銃で撃たれれば致命傷だし、力比べをしたら、絶対ワカモには敵わない」
まくしたてそうになる感情へ、懸命にブレーキをかけた。だけど――私は、思った以上に不満を抱えていたようだった。大きい溜息を、我慢できなかった。
「ワカモは、私を色眼鏡で見て、過大評価しているよ。目の前にいる個人の私じゃなくて、先生の役割を負った私――いや、違うな。ワカモ自身の中にいる、理想像のような何かを、ずっと見ているんだ」
「そ、そんなことは……。あなた様と過ごすひと時、あなた様にかけて頂くお言葉の一つ一つ――そういった全てを私は大切に噛み締め、憧れを持ってあなた様を見つめているのです」
ワカモの双眸が潤みだす。
「……過度の憧れは、目に見えるものを歪ませてしまう。現実の私が期待外れだと感じた瞬間、きっと君は、大きな失望を抱くよ。『裏切られた』って怒りすら込み上げて、それをぶつけずにいられなくなるかもね」
「こ……このワカモが、幻影を追っていると? 胸を甘く焦がすこの想いが、まやかしであると? そ……そんな……ご迷惑、でしたか……?」
「そうは言わない。ワカモが好意的に接してくれるのを、迷惑だなんて思ったりはしない。でも、ワカモの期待には――」
「も、申し訳ありませんでした! ワカモは……ワカモは……っ!」
ワカモは膝の上で拳を固めてこらえていたが、とうとう目蓋から大粒の涙をこぼして泣き出してしまった。私のフォローが間に合わず、スイッチが入ってしまったワカモは、ぼろぼろ流れる涙を隠そうともしない。
――ああ、やってしまった……。
ワカモの気持ちに寄り添いながら過ちを伝えてあげたかったけれど、うまくいかなかった。どうすればよかったのだろう。分からない。私も、自分の中で渦巻く感情を持て余してしまい、途方に暮れてしまった。
ワカモに泣かれると、いや、誰であっても、自分の言葉で悲しまれるのは辛い。私が食器を片付ける間もワカモは泣き止まず、両手で顔を覆って嗚咽をあげていた。
洗い物を終えて戻ると、ワカモはソファーの上でうずくまっていた。尻尾は丸まり、耳はしんなりと力なくしおれ、洟を啜って震えている。
大雨警報でも出そうな雨音と、すすり泣く声。
それが、私の家に悲しい隙間を作っていた。
落ち着くまで、見える所にいてあげよう。そう思ってテーブルからワカモを見守っていたが、その内ワカモはソファーを立ち上がった。頼りない足取りで近寄ってくる。私を見下ろす泣き腫らした目に、胸がズキズキした。
「……あなた様。申し訳ありませんが、今晩は先に休ませていただきます」
か細い声でそう口にすると、ワカモはよろよろと寝室に向かっていった。
「その……考える時間を、ワカモに下さい……」
「あ……」
ワカモを傷つけてごめんね。
その一言を伝えたかったのに、寝室の引き戸は音もなく閉じられてしまった。
* * * * *
その日以来、私とワカモの間には、薄い壁ができた。交わし合う言葉はお互いにどこか空回りしていて、ネガティブにもポジティブにも傾かない、気まずい空気が漂うことが増えてしまった。
ワカモは以前と変わらず私を慕ってくれるが、課題の出来が今一つ、という状況が続いた。「明日はネコが取れるように頑張ろうね」と励ますと彼女は首肯してくれるのだが、スタンプの代わりにAの文字が記録用紙に並ぶ日が続いた。
夕食を済ませてから寝るまでの間、ワカモは虚ろな目でプチプチと梱包シートを潰した。私の声に反応はしても、心に起こった波紋はすぐに消えてしまう。
残りの月日をどんな思いで過ごせばいいのか。
どうやってワカモに歩み寄って、わだかまりを解けばいいのか。
見頃を迎えた
濡れた葉っぱの上から、カタツムリが私を責めていた。
じめじめした六月の残りが、そうやって過ぎていった。
<続く>