七月の上旬。できるだけ屋内に引きこもりたくなる季節が、今年もやってきた。まだセミは鳴きださないが、この調子ならあと数日もすれば、ニイニイゼミを皮切りに、たちまち外が騒がしくなることだろう。
「……あ、見てごらん」
ワカモと連れ立ってシャーレに向かう朝、マンション敷地内の一角に作らせてもらった小さな菜園で、夏野菜がたっぷりした実をつけていた。
「ええ、苗の時はあんなに小さかったのに、すくすくと育って……」
ワカモが、赤く実ったトマトを掌に乗せた。そのすぐ隣では、キュウリが鮮やかな緑となって、朝の涼しい風に揺れている。
「ここに来てからワカモが大事に見てくれているおかげだよ。ありがとう」
「い……いえっ、そんな、特別なことをしているわけでは……」
俯くワカモ。けれど、歩き出す前に尻尾を揺らして、はにかんでくれた。喜んでいる所を見るのは久しぶりだ。それぐらい、ワカモは笑っていなかった。
帰ってきたら、トマトとキュウリはそろそろ収穫して、ワカモに頼んで、今夜の食卓に並べてもらうとしよう。
その日の夕方、ワカモを連れて家路を歩いていると、空気が何だか焦げ臭いのに気が付いた。戦いの臭いだ。状況を探ろうとすると、遠くに爆発音がして、空気がビリビリと揺れた。
「……ウチの近くだ!」
こちらを狙う者は、すぐ近くにはいないようだ。ワカモは銃を手に取って、周囲を警戒している。銃撃戦や爆発音はキヴォトスにおいて決して珍しいものではない。談笑していた少女達が、次の瞬間には銃を構えることだって当たり前だ。
* * * * *
「あっ……!」
慎重に歩みを進めて自宅に辿り着くと、菜園が破壊されていた。爆発物が投げ込まれたのだろうか。ここを狙ったわけではなさそうだが、自転車が一台、爆発の衝撃で真っ二つに裂けている。幸い、建物に被害は出ていない。
「…………」
ワカモが菜園の前に立ち尽くしていた。
拳を硬く握り締め、わなわなと肩を震わせている。
「ゆ、許しません……誰が、こんなことを……!」
その場でワカモが暴れ出しそうになる気配を感じ、私は駆け寄ろうとした。ところが、右足を踏み出した瞬間、背後からの声に呼び止められた。
「危ないですよ! すぐ屋内に避難してくだ――あっ、先生!」
盾を構えたヴァルキューレの生徒が、マンションの前を通りかかった。
「よかったら教えてほしい。この辺りで何が?」
「シラトリ地区で襲撃が発生したんです。商店からの略奪が狙いのようですが、機動隊との衝突が住宅街の一部でも起こってて……先生も気を付けてくださいね!」
早口にまくしたてると、隊員は無線で呼ばれてすぐに駆けていってしまった。
こんな状況を対岸の火事としておくわけにはいかない。スマートフォンを取り出して、カンナへ通話を試みる。三回コール音がしてから、応答があった。
『先生、どうされたのですか?』
「シラトリ地区で襲撃だそうだね。状況を教えてくれる?」
『コーギータウンでチンピラ共が暴れています。どこから持ち出したのか、タンクが二台。ロケットランチャーも確認されています』
「住宅街も、一部被害を受けてる。街を守らないと。手伝わせてくれない?」
『えっ……ですが、先生がおいでになるのはあまりに危険です』
「分かってる。私は前線には立てない。私は自分の力で戦えない。でも、こんな夜の呼び出しにも応じて、力になってくれる生徒がいるんだ」
ワカモへ視線を送ると、目が合った。
アイコンタクトを送ると、彼女は静かに頷いてくれた。
『ありがたい申し出ですが、コーギータウンの破壊活動を防ぐのに少々手を焼いていまして、ご協力いただくにしても、具体策を申し上げ辛いのです』
「弾薬も無限じゃない。それに、妙にコストのかかるやり方をしてる。街で暴れているのは陽動じゃないかな。転売価格の高いものをどこかで盗もうとしているかもしれない。こちらはこちらで、独自に動いてみるよ」
『……ご協力感謝します。それでは、くれぐれも気を付けてください。危なくなったら、後は我々に任せ、ご協力いただく生徒と共に現場を離れて下さい』
「了解。それじゃ、カンナも気を付けて」
通話を終えて、私はワカモに向き合った。
力を持たない私の正義感と義務感を背負い、事態を解決に導くための武力を今すぐに行使できるのは、狐坂ワカモしかいない。戦いを禁じられたワカモしか。
「ワカモ。責任は私が取る。何かあったら、全て私のせいにしていい。今だけでいいから、君の力を貸してくれないか」
「あ、あなた様……」
「頼む。私の代わりに戦ってほしい」
「おっ、おやめください! どうか頭をお上げに……。先生が頭を下げるなんて」
ワカモが、私の前に跪いた。
「ご指示を下さいませ。このワカモ、喜んで、あなた様の力となって戦います」
下から見上げるつもりが、私はワカモに見上げられてしまった。
「……分かった。ありがとう、ワカモ。弾薬を入れた箱は、この鍵で開くから」
「ええ。身支度を整えてまいります。三分以内には」
小さな鍵と家の鍵を渡して数分後、ワカモは白狐の仮面を手に戻ってきた。インカムを装着しながら、彼女はにやりと口角を上げた。
「あなた様には黙っておりましたが、実は――弾薬を没収した程度では、私を武装解除することはできないのです」
「えっ?」
仮面を着けたワカモが腕を振ると、じゃらじゃらと音を立てて、鎖鎌やら分銅鎖やらが、幅広の袖から下りてきた。銃を持たない左手には、手裏剣が三、四枚重ねられている。
「暗器……」
「忍術の心得がありまして。欺き、惑わし、不意をつくことこそ、忍の忍たる所以。たとえ暗器がなくとも、体術という武器を隠しております。私を戦えないようにするには、手足を封じるほかありません」
弾丸をセットして、ワカモが肩に銃を担いだ。歩き出そうとした瞬間、思い出したようにお面を脱いで、ワカモが素顔を晒した。
「これを預かっていただいてもよろしいですか?」
「うん、いいけど、どうして?」
「今のワカモは、『災厄の狐』ではなく、あなた様の生徒ですから」
「……分かった。持っておくね」
インカム越しの通話が機能していることを確かめると、「行ってまいります」とワカモは煙の立つ方へ駆け出していった。あっという間に背中が見えなくなった。
* * * * *
「……我々は望む、七つの嘆きを。……我々は覚えている、ジェリコの古則を」
私はパスワードを呟き、シッテムの箱を起動した。画面いっぱいに、OSのアロナが映し出される。
「アロナ?」
『はい先生、アロナちゃんですよ!』
「戦闘準備をお願い。狐坂ワカモと回線を繋ぐから、モニターして」
『ワカモさんですね、了解です。ドローンカメラを呼び出しました。数分後には追い付いて、画面のワイプに出てくるはずです』
「うん。それと……コーギータウン周辺に集合している識別信号と類似するものが、どこか別の所でも確認できたりしない? 単独ないし二、三人の少数で」
『識別信号はヘルメット団ですね……あっ、いました! 画面に出します!』
アロナがモニターに出した信号は、コーギータウンから離れたプラドアベニューを指していた。三人並んで、美術館の並ぶ通りを移動しているようだ。
「これだ。……ワカモ、聞こえる? コーギータウンの電気街を突っ切って、プラドアベニュ―へ向かって! 恐らく、騒ぎに乗じて美術品を盗み出そうとしている輩がいる!」
承知しました、と抑えた声が聞こえた。インカム越しに銃声や爆発音が聞こえてくるが、ワカモは意に介さない。
『わ、わ……ドローンが引き離されていきます! 追いつけません! ワカモさん、脚が速すぎませんか?』
信じがたい速度で、ワカモが猛然と地図上を駆けていく。車道のど真ん中を疾走しているようだが、交通規則違反はこの際目を瞑っておくことにした。
そうして、予想されていたよりもずっと早く、ワカモは目的地に到着した。あと数百メートルでターゲットと接触することを告げると、ワカモは速度を落として、物陰に身を潜めた。ようやくドローンが追い付き、画面の隅にプラドアベニューの様子が映し出された。
* * * * *
「よし、ヴァルキューレの連中はいない。今の内に、ガッポリ持っていくぞ」
フルフェイスの赤いヘルメットで顔を隠した少女が、二人を先導する。肩に引っかけた大きな袋にはまだ何も入っておらず、ぺったんこだ。
「いやぁ~、リーダーはさすが頭いいっすね! 撃って奪うよりこっちの方がずっとスマートだ!」
「おい、黙ってろ。誰かに聞かれたら面倒なことになるだろ」
「閉館後の美術館に来る変人なんているわけないですって――」
「いるんですよ、それが♪」
美術館の屋根の上から、ワカモが少女達を見下ろしていた。月光を背中に浴びながら、不敵な笑みを浮かべている。
「おい、あいつ……狐坂ワカモじゃないか?」
「何しに来た! お前に分けるもんはねーぞ!」
「……結構です。美しいものなら間に合っておりますから」
ワカモは三人を品定めするように見下ろしながら、インカムに小声で語り掛け、先生の指示を仰いだ。イヤホンの向こうからは「できれば周辺に被害が出ないよう、縛り上げて無力化してほしい」と注文が入った。
「お安い御用です」
久方ぶりに、ワカモの血が騒いでいた。
「なぁ……アイツを捕まえて、警察に突き出そうぜ。ワカモがやったってことにしてさ。三人でかかれば何とかなるだろ」
「お宝に加えて報奨金まで貰えるかもな、へへへ……」
「よーし、覚悟しろっ、『災厄の狐』!」
黒いヘルメットの少女が発砲した。その後を追い、屋根に向かって二挺のアサルトライフルが火を噴く――が、その弾丸の全ては、虚しく夜空に向かって放物線を描くだけ。ワカモが既に姿を消していることにも気づかず、三人はマガジンの弾が尽きるまで撃ち続けていた。
「おしっ、やったか?」
勝ち誇る三人は、哀れにも何も見えていなかった。
ドン――
ワカモの愛銃「真紅の災厄」が、背後から一人の後頭部へ、重いライフル弾を放った。
至近距離ではヘルメットで衝撃を軽減できるはずもなく、電池が切れたように彼女は地面に倒れ伏した。意識を失い、ヘイローが薄れて消えていく。
「えっ――」
「うしろっ――」
二人が発砲音と火薬の匂いに気づいた刹那、至近距離から側頭部へ放たれた弾丸に、もう一人が崩れ落ちる。
「あなたがた三人程度で、私と戦いになるとお思いですか?」
「よ……よせっ、アンタは『こっち側』だろ! アタシ達の味方じゃないか!」
「味方? はて、いつ私があなた方を味方と見做したのでしょう?」
「ひ……」
「ようやく得られた大切な実りだったのに、あのお方に捧げるはずだったのに……あなた方ごときが踏みにじるとは……!」
「なっ、何を言って――ひいっ!」
ワカモは赤いヘルメットのリーダーを羽交い絞めにして跳躍した。
美術館の屋根よりも高い位置で、天地が反転する。
敵もろとも地面に向かって頭から墜落し、位置エネルギーのもたらす全ての衝撃が敵の頸部にかかる忍法「
銃撃では燃える怒りが治まらぬ。ワカモは体術で手を下すことを選んだ。
「覚悟なさい」
ドリルのようなきりもみ回転。冷たい囁きがヘルメットを凍り付かせる。
「よ……よせっ! 高い、高い、高い! この高さは死ぬ! 死んじまう!」
「騒がしいですね。静かな夜空に相応しくありませんよ? あの二人を見習って、大人しく地面をお舐めなさい」
「うああああっ、ああーーーーーー!」
――ごしゃっ……
数秒後、鈍い激突音と共に、絶叫は沈黙に変わった。襲撃の首謀者は糸の切れた人形のように倒れ、ぴくぴくと痙攣している。三人にまだ脈があることを確かめつつ、ワカモは腰に巻き付けていたロープで、火事場泥棒を縛り上げた。
「狐坂ワカモっ!」
ワカモが先生へ報告を済ませようとした所へ、尾刃カンナが姿を現した。鋭い三白眼がワカモを睨みつけている。ハンドガンを手に取り、交戦も辞さない構えだ。ワカモのライフルの銃口からは、まだ煙が上がっていた。
「ここで何をしている。お前は保護観察中だろう。武力行使の一切を禁じられている身のはずだ」
「…………」
「何をしている、と質問した。答えろ――」
「…………」
ワカモは、カンナに背を向けなかった。
信じるべき人を信じて力を行使した。
成すべきことを成した。
加減を間違えはしたが、ワカモは自分の行いに恥ずべき点はないと信じた。
「私の指示だよ」
カンナもワカモも、同時に声の出所へ振り向いた。
* * * * *
コーギータウンの現場を離れるカンナの姿を見かけて、私は慌てて走った。向かう先が同じと分かって後を追ったが、カンナの姿は瞬く間に見えなくなってしまい、日頃の運動不足を痛感させられた。ようやくプラドアベニューに辿り着いたと思ったら、ワカモとカンナが睨み合っていた。間に合ってよかった。
「先生、これは一体……?」
「我が家の一部が被害に遭ってて……ここに来る途中、流れ弾を食らって運ばれていく人も見かけた……。はぁ、はぁ……襲撃を止めないとっ……被害が更に拡大すると思って……私が、ワカモに、シャーレ顧問として協力を要請したんだ。ワ……ワカモは、私の指示に従っただけだから。責任は私にある……っ」
「あ、あなた様……!」
呼吸が整わず、私は、げほげほとむせた。カツカツ足音を鳴らして、ワカモが駆け寄ってくる。
「……なるほど……」
カンナが銃をホルスターにしまった。
「私よりも早くチンピラの陽動を察知し、ヴァルキューレの上位組織たる連邦生徒会の権限を代行して、美術館に盗難被害が出るのを防いだ、と……」
「そう解釈してもらえると助かるよ」
「……この辺りは、破壊の形跡が無いようですね」
縛り上げられた三名が路上で倒れているのを除けば、いたって平和な光景だ。
「周囲に被害が及ばないように、とのご指示でしたので」
カンナは、私とワカモをじっと見つめた。「狂犬」の二つ名を持つだけあって、強烈な威圧感だ。しかし、カンナはフンと鼻を鳴らすと、敵意を殺した。
「狐坂ワカモは、保護観察官の指示の下、襲撃の首謀者を先んじて拘束し、適切な手段で治安維持に貢献した。公安局はこれを奉仕活動の実績と認める。多少脚色は加えますが、防衛室にはそのように報告しておきます」
「……ありがとう、カンナ」
カンナの判断に、私は深々と頭を下げた。ワカモの復学が閉ざされる可能性もあったのだ。当の本人は警察組織や連邦生徒会を嫌っているせいか、ツンと眉間に皺を寄せているが。そこへ、一件落着の合図を出すかのように、ヴァルキューレの護送車がやってきた。
「では、事後処理は我々にお任せ下さい。ご協力ありがとうございました、先生」
まだ意識の戻らない三人が、護送車の中に放り込まれた。そのままカンナも中に乗り込んで、プラドアベニューを去っていった。
「……家に帰ろうか、ワカモ」
「はい、あなた様!」
パトカーと救急車。遠くからサイレンの音が聞こえてくるが、人通りの無い夜の美術館通りは、静かなものだった。
* * * * *
この辺りは消灯されている建物が多いからだろうか。自宅から見上げる空よりも、星が多く見える気がした。銀色の砂を散りばめたような暗い藍色の空。大きな月が雲の背後から顔を出すと、足元が照らされたような気がした。
「ねぇ、ワカモ」
「何でしょう」
「ちょっと遅い時間だけど、夕飯のリクエストをしてもいい?」
「ええ、もちろんです」
ワカモは声を弾ませていた。
「こっちに向かう前にね、気付いたんだ。焼けた菜園に、生き残りがあったんだ。キュウリ一本と、トマト一個だけだったけど」
「……っ!」
ワカモが大きく目を見開いた。
「二人分には少ないけど、一緒に食べよう。トマトは冷やしトマトで、キュウリは野菜スティックがいいな。胡麻味噌で頂くのが好きなんだ」
「うふふ、帰ったらすぐに支度いたします」
「うん……それでね、ワカモ」
信号が赤になった今だったら、口にできる気がした。喉に力を込める。
「あの日はごめんね。私はワカモを傷つけてしまった」
「え……?」
「私の我儘だったんだ。嫌な所もある一人の人間として、等身大の私を見てほしいってモヤモヤした思いを、素直に口にできなかった。ワカモを咎める言い方をして、謝ることさえ先延ばしにしてしまった」
「……あなた様……」
「ごめんねワカモ。私の過ちを許してほしい」
「……過ちを犯していたのは、このワカモです。あなた様のご指摘通り、こうあって欲しい、こうに違いないと、私はいつの間にか、目の前にいるお方を見ずに、都合の良い理想を押し付けておりました」
「…………」
「で、ですから、許していただきたいのは、私の方で……」
赤信号で立ち止まった私達は、いつの間にか信号が青になっているのにも気付かなかった。足を出そうかと思ったら点滅し始めて、ぐらっと二人揃って前傾姿勢になってしまう。次の信号を待とうと思った。
「じゃあ、お互い様ってことで、どうかな。仲直りがちゃんとしたい」
「なっ、仲直りも何も、あなた様と私は――いえ、そう、ですね。私も、どこかぎこちない距離感から、歩み寄りたいと……ずっと思っておりました」
スラックスのふくらはぎに、ワカモの尻尾が触れた。
「そうだね。じゃあ、こうしようか」
「……っ! あっ、あ、あなた様、そ、そんな……っ」
触れていた手の甲を取って指を絡めると、ワカモはドギマギして、これから収穫するトマトみたいに真っ赤になってしまった。だけど数歩も進めば、彼女も私の指の股を握り締めてくれた。
汗ばむ夏の夜に、ワカモの手はひんやり心地よかった。
マンションの菜園に戻ると、焼け焦げた残骸に守られるようにして、一組の野菜が残っていた。片手に収まってしまうそれらをワカモは大事に両手で包むと、千切れた自転車に視線を送った。
「あれが……今まで私のしてきた行いなのですね」
憂いを帯びた瞳で、ワカモは唇を噛んでいた。