八月を迎え、多くの学園では夏休みが始まっていた。通勤時間帯の電車も空席が目立つ毎日だ。にもかかわらず、シャーレはますます忙しくて、目が回るばかり。
保護観察期間も残り二週間と少々。今月の二十日には期間満了を迎え、このまま何事も起こらなければワカモは百鬼夜行に復学し、首尾よく学生の本分を全うすれば無事に卒業もできる。
カレンダーにマーカーで記した二重丸がじわじわ近づいてくる。だけど、私もワカモも、その日のことを口にしなかった。まるで、二人揃って目を背けているみたいだった。
この日の夕方、私は帰り道で一旦ワカモと別れた。期限スレスレの申請書を出し忘れていたことに気づいたのだ。もしもの時に備えて作ったスペアキーをワカモに渡し、やむを得ず先に帰らせた。別々のタイミングで家に帰るのは、この日が初めてだった。
……私は、判断を誤っていた。
家にワカモがいなかったのだ。
* * * * *
防犯のために在宅時も施錠するのはいつものことだったから、玄関扉がロックされているのには驚かなかった。だが、玄関に靴が無い。
ダイニングテーブルには、今朝ワカモが置き忘れたスマートフォンがそのままになっている。朝に仕掛けたタイマーが作動して、エアコンがたった今動き出した。
「……ワカモ?」
呼びかけても返事がない。台所には姿が無い。トイレは開いている。浴室は乾いている。寝室も空っぽだ。ベランダから菜園を見下ろしても……。
腋の下に、じめっとした汗が滲んできた。
ワカモが勝手に外出したことなんて、ただの一度もなかった。すぐに連絡が取れる便利なスマートフォンは、本人と離れ離れになっている。
「ワカモ……っ!」
胸騒ぎに突き動かされるままに、私は家を飛び出した。
D.U.郊外の通りを走り、覚えのある場所を手当たり次第に探し回った。
いつものスーパーへ。
スーパーからの帰り道にある小さい公園へ。
もう少し足を伸ばして、夜の街へ。
夕暮れを過ぎても気温はまるで下がっておらず、アスファルトから上る熱がビルの間に溜まって、視界が歪みそうだ。タオルを首に引っかけて、汗を拭いながら走る。シャツの内側はもうぐしょ濡れだった。喉が渇いてヒリヒリする。
――あぁ、そうだ……
スマートフォンでバッジのシグナルを辿ればいい。こんな単純なことに気づかないなんて。発信源を探ってみれば、何のことはない。自宅の近所の道路にいるみたいだ。
熱を発散しようと、汗がこめかみをぽたぽた垂れ落ちてくる。絶叫マシンが速度を落としていくみたいに、落ち着きが戻ってきた。
しかし、私がそこで発見したのは、地面に落ちたバッジだった。
布と本体を繋ぐ金具のピンが折れて、それで外れてしまったようだ。
外れてしまった? それとも、外された?
どちらにしても、見えたと思ったゴールは目の前で消え失せてしまった。
「…………」
落ち着かなければ。冷静にならなければ。シャツの胸元を強く握り締めて、私は深呼吸を試みた。だけど、頭が熱くて、ジンジンする。取り乱してはならないと念じれば念じるほど、息が詰まりそうになる。
「どこだ。どこにいるんだ」
カンナに尋ねようかと考えたが、保護観察の対象がいなくなってしまったと分かれば、どのような処分がワカモに下るか分からない。それは、もっとどうしようもなくなった時の、最後の手段にしよう。
今はまだ、できることがあるはずだ。大人の私が諦めてどうする。走り回って痛む脚にムチを入れて、再び駆け出した。
――私が目を離したせいで……!
ワカモがいくら強くても、彼女は決して無敵ではない。もしもどこかで、重傷を負って動けなくなっていたら――悪名高い犯罪者の彼女へ誰が手を差し伸べるだろう。そうなったらワカモは、絶望の果てに力尽きてしまうかもしれない。
ネガティブな思考は無限にエスカレートするもので、私は恐怖から逃げるように必死で走り続けたが――彼女の姿はどこにもなかった。
* * * * *
深夜十一時を回った頃、とうとう私は憔悴しきって、自宅に戻ってきてしまった。
ワカモは忽然と姿を消してしまった。
どんなに受け入れたくなくても、これが現実だった。
信頼関係を構築して、確かな繋がりがあったと信じていた。それは私の勘違いに過ぎなかったのか。彼女が悪行から足を洗ったこの二ヵ月半は、幻だったのか。
ともかく、こうなってしまった以上、このままにはしておけない。ワカモの捜索を続けたい思いはあったが、私はシャーレの先生でいなければならない。明日も明後日も、その次の日も。
連邦生徒会とヴァルキューレ公安局宛に今から報告書を作って、捜索願を出そう。
願わくば、一目でいいから、ワカモの顔が見たかった。かつての
玄関に辿り着いたが、鍵を回す手に力が入らない。ドアが重たすぎる。思い切り後ろに体重をかけて引っ張って、ようやく扉が開いた。
「……あれ……?」
灯りが点いている。
さっきまではなかった履物がきちんと揃っている。
ふらつく脚でスリッパを履いて、リビングへの扉を開くと、
「……ワカモ……」
「あ、お、おかえりなさいませ……申し訳ありません、帰りが遅くなって……」
消毒液の匂いがツンと鼻を突いた。ワカモは、床に座って左足の傷口にガーゼを被せ、包帯を巻いている所だった。
「ワカモ……!」
どこに行っていたの。
何があったの。
どうして怪我をしているの。
尋ねたいことはいくつもあったけれど、口よりも先に体が勝手に動いて、ワカモを抱き締めていた。
「ひゃ……! あっ、あの、先生っ――?」
「探したんだよ……!」
心臓が一気に緩んで、全身の肌が粟立った。
「どこを探してもどこにもいなくて、もう会えないんじゃないかと……!」
熱くなる目頭を隠そうとは思わなかった。汗臭さを気にする余裕なんてなかった。保護観察官の義務とか、大人の体面とか面子とか、そんなものなんて最早どうでもよくて、私はワカモの肩に顔を埋め、声を押し殺して泣いていた。
「……お泣きにならないで下さい。あなた様のワカモは、ここにおります……」
ワカモは、優しく私を抱き返し、そっと背中を擦ってくれた。
* * * * *
私が落ち着きを取り戻すと、ワカモは自分の身に起こったことを話してくれた。
ワカモは、三人組の賞金稼ぎに出くわし、標的にされていた。閉所に誘い込んで一人ずつ返り討ちにすることも考えたが、私の指揮のない所で勝手に攻撃を仕掛けるわけにもいかないと判断し、逃げの一手を決め込んだ。
しかしながら、連携の取れた三人組は戦闘力が非常に高く、煙幕で攪乱を図ってもなおワカモに傷を負わせる程だった。肩のバッジが剥がれたのは、自宅周辺から敵を引き離す途中のことだったらしい。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。この通り、私は無事です」
こんなに先生が気にかけて下さるなんて、ワカモは幸せ者です。
ワカモは私の耳元に、うっとりと囁いた。背中を擦る手は、バクバク忙しない心臓を、優しく落ち着かせてくれる。白檀の香りを吸う度に、ささくれ立っていた心がフラットになっていく。やがて、私の目元から涙が乾く頃になると、互いの体が離れた。
「あなた様……」
潤んだ瞳が、私を見つめる。薄く紅を引いた唇の美しさが、つやっと私を誘う。
ワカモが目弾きを施した目蓋を閉じて、顔を近づけてきた――
ぐぎゅうぅぅっ……
「……あっ」
甘い雰囲気をぶち壊しにしたのは、私の腹の虫だった。酔いが一気に醒めて、互いに苦笑いだ。
「ご、ごめんワカモ。夕飯抜きで走り回ってたから……」
「くすっ……夜も更けておりますが、雑炊でも召し上がりますか?」
「うん、そうするよ。とりあえず汗でベタベタだし、シャワー浴びてくるね」
体を起こすと、シャツがびっちりと体に張り付いて、何とも気持ち悪かった。ワカモは救急箱を片付けて、着替えるために一旦寝室へ引っ込んだ。
脱衣所でびしょ濡れの服を脱ぎながら、私は保護観察の日々を回顧した。ワカモと二人で暮らす日々はすっかり当たり前のものになっている。それが失われるなんて微塵も疑わずにいた自分が、信じられなかった。
そうだ。あと少しで、この生活も終わりを告げる。その時が訪れないでほしい。このまま今が続いてほしい。あろうことか、そんなことを考えてしまう。
今日、必死に外を探し回り、どうしようもない諦めと共に帰宅して、ワカモの姿を見た瞬間、私はとうとう確信してしまった。
私は、狐坂ワカモを、深く愛していた。
<続く>