「25歳でお互いフリーだったら結婚しよう」なんて他愛もない約束を覚えていたダウナー系絵描きの幼馴染に筆おろししてもらって「約束通り」になる童貞の話 作:夜の機動戦士
<1>
「……あ、また間違えた」
誕生日の設定と年齢が一致しません。そんなエラーメッセージがスクリーンに表示された。翔真はマッチングアプリの年齢欄に、正しい値を入力し直した。24を、25と。
25。丸っこく並んだアラビア数字を眺めると、約束なんてとうてい言えないような、他愛もない夏の日の言葉を思い出す。その言葉すらも、最近おぼろげに思い出されたに過ぎなかった。
小五当時の自分が今の自分を見たら、一体何と言うだろうか。荒川をガタゴト渡る総武快速線に揺られながら、ふと翔真はそんなことを思った。あのころ適当に挙げた「25歳」になっても、結婚相手は見つからない。
大学進学を機に地元の東京都墨田区を離れ、千葉県船橋市で新たな出会いを探すも、今日まで異性との交際に至れた試しなし。
勇気を出してアプローチをかけようとした女性には、みんな先約があった。いざ二人きりで食事をする機会を得ても、その場で持ちかけられたのは彼氏の話。この人ならいいかもしれないと胸をときめかせた人の右薬指には、もう指輪が煌めいている。そんなことばかりだった。
社会人になって三年目。いよいよ翔真には焦りが募り始めていた。大学時代の友人や同僚の結婚式に招かれ、職場の先輩からは新たな家族が増えたと知らされ、ライフステージを順調に進む他人の背を見詰めては、臍を噛む。一向に進展のないマッチングアプリの画面を漫然と眺めていると、画面上部からメッセージアプリの通知が流れてきた。
〝そろそろ着く?〟
YESのスタンプで返信して、翔真はスマートフォンをポケットにしまった。土曜日の夕方、スーツ姿も疎らな中、電車のシートに腰掛けていた乗客がおもむろに立ち上がる。
『間もなく、錦糸町、錦糸町です。右側のドアが開きます』
松本翔真は、人波に紛れて電車を下りた。
* * * * *
上條美晴とは、高校卒業までずっと同じ学校に通った。大学進学を境にご近所さんでなくなってからも、幼馴染との奇妙な腐れ縁は続いていた。
定例会――中学生の頃にそういう名前がついた――は、最低月一ペースで、翔真が社会人になっても続いた。互いの家にあったプラスチックのコップはドリンクバーのグラスになり、やがて地元の居酒屋の、アルコール入りのジョッキになった。
JR錦糸町駅から徒歩三分ほどの居酒屋「マグロ号」は、今日も夜風に暖簾をたなびかせている。そこは、まだ居酒屋という形態の店を知らなかった頃、翔真が両親に連れられて、上條家と夕飯を食べる所だった。酒を飲める年齢になって、二人だけで訪れるようになっても、店主のケンさんは健在だ。もう75歳という高齢にもかかわらず。
万物は移ろいゆくもの。馴染みの店だけが、今の翔真と美春を繋ぎ止めていると言えた。
「お、いらっしゃい」
戸を引いて暖簾をくぐると、昔より音量の下がったケンさんの声が翔真を出迎えた。客足のそれほど多くない店内を見渡すと、店の奥から美春が手を振っている。それに応じながら、翔真は二人掛けのテーブルに向かって、歩みを進めた。
「待った?」
「ん~ん、アタシもいま来たとこ」
ビールのなみなみ注がれたジョッキがテーブルにどっしり構えているが、割り箸はまだ袋から出されていない。食べ物にも手をつけていなかったようだ。
背中まで伸びた金髪を手の甲で掻き上げ、美春はへらりと笑った。ダウナーな雰囲気に加え、三白眼のせいで美春は目つきが悪く見られがちだ。だが実際に人から恐れられるような性格ではない。口元の緩み方のせいか、笑うとどこかだらしない顔になって、それが翔真には人懐っこく感じられた。
髪をブロンドに染めて、ゴツめのピアスも空けて、どこかスパイシーな雰囲気を纏うようになった。でも、気の抜けた笑顔は昔から変わらなかった。
とりあえず翔真も、ビールと鮪のなめろうを注文した。数分もせずにジョッキがやってきて、ごつっと無骨な乾杯が交わされる。美春が髪を左耳の後ろに送ると、耳に通された金環のピアスが、しゃらりと揺れた。水色のシャツに黒いタンクトップという軽めの装いが、蒸し暑さの募る陽気にあって涼しげだった。
「支援サイトのフォロワー、5人増えたよ、5人」
「今月で?」
「や、今週で」
「調子いいな」
「これで新人賞通ったら、言うことないんだけどね~」
手元のスマートフォンを操作して、美春が公開予定のweb漫画を見せてくれた。美少女イラストと並ぶ人気コンテンツのそれは、可愛い絵柄に反して妙にシニカルな動物たちが繰り広げるエッセイだ。今はまだネーム段階で、台詞もアタリを取っただけの状態だった。いつも何かと警鐘を鳴らすパンダ君だけが、他よりも描き込まれている。
「この漫画、出版社に持ち込んだりしないの?」
「持ち込んでみたんだけど、『連載するには内容が平坦過ぎる』って言われちゃった。既にwebで出してる漫画だし、そういうのは向こうから声をかけてこない限りは……ってパターンみたい」
「プロは厳しいんだな、やっぱ」
翔真は運ばれてきたなめろうをつつき始めた。脂の旨味と味噌のコクが、口の中でとろけていく。お通しの梅水晶も手伝って、ビールが進んだ。
美春が左手で金髪を掻き上げると、微かに酒気を帯びて赤らんだうなじが、ちらりと覗く。滑らかな曲線をなぞるようにして目に入ってくるのは、オフショルダーのシャツから露出した丸い肩。そこから鎖骨のラインに寄り道して、デコルテへ視線が引っ張られる。
肘をついて前屈みになった胸元に、小さなトルコ石をあしらったネックレスが揺れる。成功と繁栄――いつか美春に、トルコ石に秘められた意味を話してもらったのを思い出す。揺れるトルコ石を眺めていると、その奥にくっきり影を作る深い谷間。
――いやいや、見ちゃダメだ。
色っぽい。セクシーだ――脳裏に浮かんだその感想に、慌てて消しゴムをかける。谷間の小さなホクロから、翔真は逃げるように視線を逸らした。幼馴染をそんな目で見ることに、翔真は得体の知れない嫌悪感を覚えてしまう。だが、見てはいけないと思えば思うほど、顔以外の所に目が誘われてしまう。翔真は努めて面を上げた。
顔を見るようにすると、目に入るのは長い髪。高校まで、美春は黒髪だった。時々バッサリやっていたけれど、結んでいても下ろしていても、真っ直ぐでツヤツヤしていて、手入れが行き届いた綺麗な髪だった。黒髪だった頃も、金髪にしてからも、その絹糸みたいな触感は翔真の手が覚えていた。
ミントのフレーバーが香るシャンプーはお気に入りらしく、小さな頃から変わらない。だがその香りは、大人になるにつれてどんどん色っぽさの溶け込んだ甘く豊潤なものになっていき、香水をつけていない時にはそれが前面に現れる。翔真はその匂いが好きだった。今は香水が混じっていて、それもまたいい匂いではあるのだが、ほのかに残念だった。
――また別れたのかな。
細くて長い薬指。美春の右手には指輪がなかった。翔真には一度として恋人がいたこともないのに、美春は今までに何人かと交際し、しばらくしては破局していた。同い年の幼馴染は、メイクで顔つきも昔と少し変わっていて、自分より何倍も大人に思える。
「どしたの? 指に何かついてる?」
「いや、何も。ただ……また指輪が外れてるな、って」
「んぁ~、また別れちゃった。なんか違うんだよな~って感覚があってさ。付き合い始めの頃は『この人とゴールインかも』って思ったんだけど」
もう25だもんな、という一言をビールで流し込み、翔真は苦笑した。ほろ苦さが喉に絡みつく。
「翔真は? イイ人できた?」
「……毎回訊くなよな。分かってるだろ?」
「んだよ~、まだ童貞なの? そんなんじゃ魔法使いになっちゃうよ?」
「うっせ」
「アタシみたいなフリーターと違って、いい会社勤めてるんだからさ。社内恋愛とか、お見合いとか、そういうの何かないの?」
「仕掛ける前に勝負がついてるんだよ。学生のころからもうお相手がいる人ばっかりで」
「そっかぁ~……ふふっ♪」
「なんで笑うんだよ」
美春は咳払いして誤魔化したが、口元はまだ緩んでいる。長い睫毛を瞬かせると、ゆっくりと唇を開いた。
「まぁ、なんていうか。実は足元に綺麗なお花が咲いててさ。気づいてもらえるのを待ってたりとか、するんじゃないかな?」
「何の喩えだよ、それ」
「はぁ~、これだから翔真はさ……」
「……?」
困惑する翔真を庇うように、美春の注文した生絞りレモンサワーが届いた。同時に置かれた刺身の盛り合わせに翔真が箸を伸ばそうとした瞬間、彼は自分の耳を疑った。
「ねぇ大将、お店閉めちゃうってホントなの?」
カウンター席のおばさんが、そう言った。美春が身を乗り出す。
「えっ、ケンさん、マジで?」
「……いやぁ」
ケンさんは、料理の載ったお盆を抱えたまま、愛想笑いした。しかし、翔真と、美春と、おばさんと、その旦那さん。四人の視線が集中して、ケンさんは観念したように首をすくめた。
「女房が逝っちまって、体も言うこと聞かなくなってきてよ。そろそろ潮時かなって思ったんだ。悪ぃね」
「そっか……そうだよね。ケンさん、ず~っとこの店やってたもんね」
美春が、ぽつりと口にした。
ケンさんは今年で75歳。翔真とちょうど50歳差だから、計算するのは容易だった。皺だらけになった枯れ枝のような手は震えている。いつか暗唱させられた平家物語の一節が、翔真の脳裏に浮かんだ。
閉店予定日はまだ少し先らしいけれど、翔真はなんだかすぐそこに「終わり」が来ている気がしてならなかった。
小さい頃に何度も訪れ、大人になっても通い続けた店が、閉店してしまう。ふと実家に帰ったとき、更地になっていた煙草店のことが思い出された。
幼い頃と今とを繋ぎ止めていたものが消失する――寂寥感が、翔真の心に影を落とした。
「さっきの話に戻るけどさ」
美春が、スクイーザーでレモンを絞りながら言った。
「動かなきゃ、現状は変えられないよ」
「…………」
そんなの分かってる、と翔真は言おうとしたけれど、舌が止まった。何だか美春は、翔真にでなく、彼女自身にそう言っているように感じられた。もう絞りきっているはずなのに、美春は、執拗に、執拗に、レモンをぐりぐりと捻っている。
「美春……どうした?」
「や~、なんていうかさ……」
美春が口ごもった。翔真が首を傾げていると、絞り汁がレモンごとジョッキの中へ落とされていった。
ぐび、ぐび、と喉を鳴らしながら、美春は一気に半分ほどレモンサワーを飲み下す。そして、おしぼりで口元を拭い、アルコールが回ってほんのり緩んだ赤い顔で、翔真をじっと見詰めてきた。三白眼も手伝って据わったような目だったが、酩酊には至っていないようだ。
「あのさ」
すぅっと息を吸い込んでから、ゆっくりと美春が唇を開いた。
「明日、休みだよね」
「ああ、そうだけど」
「ウチに来ない?」
「えっ、なんで」
「二次会ってことで、宅飲みしよ?」
「それにしたって、まだ早いような……」
「――誘ってるんだよ」
「…………!」
翔真の喉で、返事が詰まった。
<2>へ続く
<2>へ続きます