「25歳でお互いフリーだったら結婚しよう」なんて他愛もない約束を覚えていたダウナー系絵描きの幼馴染に筆おろししてもらって「約束通り」になる童貞の話 作:夜の機動戦士
<2>
マグロ号を出て、並んで歩く。京葉道路を東へ――亀戸駅方面に歩いていけば、美春の住んでいるマンションに辿り着くらしい。「らしい」というのは、実家を出て何年にもなるのに、お互いに独り暮らしの部屋を訪れたことがなかったからだった。
「なぁ、美春」
「ん?」
「不用心過ぎないか?」
「なにが?」
「その、美春は独り暮らしなんだから」
「うん。それがどうかした?」
「男を家に呼ぶなんて、危ないよ」
「ん~、翔真なら別にいいよ――幼馴染なんだし」
編み上げサンダルを履いた美春が、妙に早足だ。意識的に急がなければ、歩幅が彼女より大きい翔真が、置いていかれそうなぐらいだった。
橋を渡って右折すると、街灯の光が一気にもの寂しくなった。大通りから一回曲がっただけなのに、もう人の気配があまりない。
道路脇でぽつんと佇む自動販売機の光が、暗いアスファルトをぼうっと照らし出す。その光がいやに眩しく感じられて、翔真は思わず目を細めた。その瞬間を見計らったように美春が足を止め、振り向きざまに一歩詰めてきた。
揺れる金髪から漂う、香水混じりの匂い。翔真は心臓が跳ね上がる心地がした。
美春とは、同じ布団で昼寝したこともあったし、まだ男女の体つきの区別も無いような頃、同じ浴槽に入ったこともあった。
恋愛や情欲の対象とするには美春を知り過ぎている。男と女よりもっと内側の存在なのだと、翔真は漠然と思っていた。
しかし――頭一つ低い所から見上げてくる幼馴染に目を覗き込まれると、不思議な緊張が込み上げる。さらに近付く美春に、その緊張は増幅した。
「ねぇ翔真。童貞、卒業させてあげよっか」
「は……?」
翔真は言葉を失った。平坦にそう呟いた美春の意図が分からなかった。
「えっ、何言ってんだよ。冗談?」
「ん~……こういう状況で冗談は言わないかな」
うっすらと笑みを浮かべていたが、美春の目は真っ直ぐに翔真を見据えている。アルコールで緩んでいた頭が、一気に回りだす。
――童貞を卒業するって、美春で……?
失礼かもしれないと思いつつ、翔真の視線が上下する。
美春は昔から可愛かった。今も可愛い。黒髪から染めた金髪も似合っている。白目がちな眼差しは時々圧を感じるけれど、にへっと笑う顔に怖さなんて微塵も感じられなくて、むしろフレンドリーな余韻が残る。
美春を上から見下ろすと、タンクトップを大きく盛り上げる膨らみに刻まれた深い谷間が見えてしまい、翔真は気まずくてそこからまた目を逸らす。妙に目立つホクロが脳裏に焼き付く。
美春のことはふしだらな目で見てしまってはいけない。そう考える翔真の真正面に、美春が回り込んでくる。
「見たでしょ」
「んッ、な、何のことだよ」
「ふ~ん、とぼけるんだぁ……。ま、とりあえず行こっか」
「え……お、おい」
頼りない街灯の光を手繰り寄せて、金髪が夜の暗がりに煌めいた。接着剤でも塗られたかのように、翔真は幼馴染の手を離せなかった。
繋いだ掌は、微かに湿っていた。
* * * * *
エントランスを抜けて、駐輪場を進む。二人分の足音がアスファルトの壁に反響する。エレベーターに乗り込むと、美春の右手が「5」のボタンを押した。
胃袋の浮き上がる十数秒間、二人の間に言葉は無かった。美春は意味ありげに翔真を見詰めては、きゅっと唇を上げてはにかむだけだ。エレベーターの外まで聞こえそうなぐらい、翔真の鼓動は高鳴っていた。
マンション5階の角部屋。玄関からして、翔真の住むアパートよりも広々していた。翔真の知っているようで知らない匂いがしたが、ここに住んでいるのが上條美春であるというのは、何も知らなくても言い当てられるような気がした。
「はい」
玄関に並んだ白いヒールやスニーカーに視線を落としていたら、美春が両腕を広げていた。見慣れた緩い笑みに何か特殊な文脈を考えてしまい、顔が火照った。思えば、美春と二人きりになるのは、翔真にとって久しぶりだった。
「早く」
「早くって何を」
「ハグだよ」
「え、何で」
「何でも」
それ以上の問答をする前に、美春が体重をかけてきた。翔真の鼻に、ミント混じりの爽やかな匂いが広がった。初夏の蒸し暑さの中にあって、心地よい温もりが伝わってくる。背中に回ってきた腕に呼応するように、翔真は華奢な体を抱き留めていた。
「どうしたんだよ、いきなり」
「これぐらいはしたっていい仲でしょ、アタシたち」
「そう、なのか……?」
「いいから。ギュッてしてよ」
甘えるトーンに、カッと頭が熱くなった。翔真の腕に力が籠る。背中に回した左手を腰に滑らせて、力み過ぎないように抱き寄せる。薄手の衣服越しに伝わる体温と、呼吸する度に鼻の奥に積もっていく美春の匂いに、顔から蒸気の出る心地がした。
美春が首を伸ばし、翔真の左耳に口を寄せた。
「どう?」
「どうって」
「女として見れないなんて、言わせないよ」
性別の話をしているわけではないのは、さすがに童貞の翔真でも分かった。異性として見てこなかった幼馴染を、情欲の対象として意識させようとしているのだ。
美春は温かくて、とてもいい匂いがした。ぬいぐるみのようにふんわりしている。腕の中に抱き留めているだけで、胸に炭酸のような幸せが弾けていく。
Tシャツの胸元に大きな膨らみがぐにゅっと潰れる感触もあった。今まで想像したこともなかったその圧倒的な体積。ビリッとした痺れが股間に走り、脳の深い所が熱を持ち始める。
世界の外側に突然引きずり出されたようで、目が回りそうだった。このままでは危険だ――瞼の裏で警鐘が鳴り始めたところで、美春が体を離した。
「さ、上がって」
「あぁ、うん……お邪魔します」
白のスキニーパンツ。パツンと張ったそのお尻には、下着のラインがうっすらと浮き上がっていた。
* * * * *
美春の部屋は、1LDKの間取りだった。アルバイトに加えて、支援サイトやskebでも美春は食い扶持を稼いでいる。自分の住む1Kを思い浮かべて、翔真は少しばかりの居心地の悪さを覚えた。しかしそれも、リビングに繋がるドアの向こうから香ってくる、言いようのない「女の部屋の匂い」に、すぐ上書きされた。
「結構いい所に住んでるんだな」
「自転車操業だけどね。支援者様がごっそり抜けちゃったら、おまんまの食い上げだよ」
翔真の目を引いたのは、作業スペースと思しき机だった。ゲーミングチェアに、パソコンの液晶モニターが二台。その正面には、傾斜をつけて設置された液晶タブレット。変なポーズのデッサン人形も置かれている。何かの参考資料だろうか。
――〝目標が決まっていれば、お勉強も楽しくなりますよ〟だったっけ。勉強熱心な所は、変わってないんだな。
付箋のついた本がブックエンドで並べられており、美春がどれだけ夢に本気でいるのかが、コクピットのようなデスクから窺えた。
「お酒ないんだった、あはっ。麦茶でいい?」
「あ、うん」
酩酊するまでは飲んでいなかったが、もう酒は回っていた。変な緊張感も手伝って、チェイサーの役目を果たしてくれるものが、翔真にはありがたく感じた。
テレビの前に置かれた丸テーブルに陣取ると、美春がすぐ隣に腰を下ろし、肩が触れ合った。動揺を押し殺すように、翔真は麦茶へ手を伸ばす。製氷機から出したばかりの氷が、グラスの中でカランと回った。
「ね、今どんな気分?」
「どんな、って言われても」
テーブルに置かれたグラスの縁を指でなぞりながら、美春が小首を傾げた。翔真は押し黙る。絵の具を塗り重ねるように、美春が「女」を匂わせてくるのだ。何を聞かれているのか、この文脈でそれを察することができない男はいない。シャツの襟の内側、タンクトップの肩紐の下からもう一本、黒いブラ紐が見えた。
「…………」
美春は翔真を急かさなかった。麦茶を口に含んで静かに飲み下し、天井を仰ぐ。美春も何かを言おうとしているように見える。遠くで大きなクラクションの音が聞こえた。手に伝わる冷気に耐えかねて、翔真はグラスを下ろした。
「美春はどうなんだよ」
「アタシ?」
「なんで誘われたのかよく分からなくて。美春の方こそ、あんなこと言って、今どんな気持ちなんだ?」
「ん~……」
伏せた顔から、視線だけが持ち上がって、翔真を見つめた。
「25歳だよね、アタシたち」
「……ええと」
「アタシはフリーだし、翔真は未だに童貞だし」
「…………」
「もしかして、『あの約束』、忘れちゃった?」
「いや……覚えてるよ。正確には、誕生日迎えて、ちょっとしたぐらいに思い出したって所だけど」
「ふ~ん、そっかぁ」
麦茶を飲み干して、美春がグラスを置いた。グラスの側面を、一滴の露が滑り落ちていく。
「一応、アタシはずっと覚えててさ。彼氏がいた時もたまに思い出してて、子どもの言うことだからって思っても、モヤモヤしてさ。24になった時に意識し始めて、アタシが彼氏と別れてから、誕生日を迎えて25になって、あぁ翔真ももうすぐ25だな、このままだとどっちもシングルだな、って思ったら、こう、なんていうかさ――甘酸っぱくなってきちゃって」
美春が青白い肌をほんのり赤らめ、ゆっくりと翔真に体重を預けてきた。ハグして感じた体温と柔らかさが、脳裏に蘇る。
「あぁ、好きだったなぁって、思い出しちゃった。初恋をこんなに引きずるなんて」
「初恋……」
「うん。ショー君が初恋。――今も好きだよ、多分」
「……!」
「じゃなかったらさ、いつまでも二人で会ってなかったと思うんだ」
美春の赤裸々な言葉が揶揄いや冗談でないのは、紅を引いたように染まる頬や耳から、さすがに翔真でも察しがついた。
突然打ち明けられた、誤解を許さない、ストレートな好意。口から心臓が飛び出しそうで、翔真は咄嗟に唇を結んだ。脈打つ振動が指先まで響いていく。床についた手の甲に、体温が重なってきた。
「いつまでも童貞だの彼女ができないのってさ。チャンスじゃん。捕まえておきたいじゃん。でも、何ていうか、今さらだよね。ずっと月一で会っておいてさ。15年モノだかそれ以上だかって重すぎるし、いざ誘おうと思っても、踏ん切りつかなくって」
ケンさんの愛想笑いが、翔真の脳裏をよぎった。
美春が不自然に強引だったのは、そういうことだったのだ。翔真は合点した。
自分の肩にかかった髪の匂いは甘く、返事を促すように覗き込む美春と目を合わせていると、心をもぎ取られてしまいそうな心地がした。
「……美春」
「その気になってきた?」
「その気……」
「翔真もさ、好きになってよ、アタシのこと」
「好きに、なる……」
「そ。好きな人とエッチするのって、すごく気持ちよくて、幸せだよ」
「…………」
「――幸せになろうよ。一緒にさ」
手の甲を撫でていた美春の指が、翔真の指の股に触れる。
翔真は、しっとり柔らかな手を、そっと握り返していた。
<3>へ続く
<3>へ続きます