「25歳でお互いフリーだったら結婚しよう」なんて他愛もない約束を覚えていたダウナー系絵描きの幼馴染に筆おろししてもらって「約束通り」になる童貞の話 作:夜の機動戦士
<エピローグ>
マグロ号で行う最後の定例会。この日、翔真は初めて、カウンターに美春と並んで座った。目の前ではケンさんが刺身の盛り合わせを造っている。包丁を手にするケンさんは、何だか若返って見えた。
「甥っ子夫婦が、店を出すんだ。マルイの裏っ側の所によ。しばらくそこを手伝ってほしいって、頼まれちまった」
「あら、じゃあまだ引退ってわけにはいかないんだね」
「そ~だなぁ。まぁ、頼られたんなら、断れねぇよな。持ってるモンを、ちゃんと伝授してやらねぇとってことだな」
美春がにっこりと目を細めた。今日を最後にこれっきり、なんてならなかったことに、翔真も胸を撫でおろしていた。カウンター席からだと、ケンさんの手元がよく見えた。美春がちらりと目配せして、翔真に向けて笑った。
「あのね、ケンさん。報告したいことが二つあって」
小鉢の切り干し大根を摘まみながら、美春が言った。その二つが、自分の思い描くものであるかどうか。御猪口の日本酒で唇を湿らせて、翔真は待った。
「プロになるんだ、アタシ。ヤンマガ新人賞の大賞もらって、デビューすることになってさ」
ケンさんが手を止めた。顔を上げ、何度も瞬きする彼に、美春は満面の笑みでピースサインを送ってみせた。
「そっかぁ……よかったなぁ! 美春ちゃんの夢だったんだろ?」
「うんっ! 諦めなくて、ホントよかった!」
包丁をそっと置き、ケンさんは破顔した。しわくちゃの顔をさらにしわしわにして、カウンター越しに美春とハイタッチを交わしている。横から見ても、美春の目がキラキラ輝いているのが分かった。友人の成功を祝福できることが、翔真も嬉しかった。
刺身の盛り合わせをテーブルへ運び終えると、ケンさんは天ぷらの準備を始めた。イカ、ナス、海老に、舞茸としめじ。カウンターに阻まれて鍋の様子はよく見えない。泡立つ衣を思い浮かべると、サクッとした歯ざわりが恋しくなり、翔真はポテトサラダの小鉢をそそくさと平らげた。
「それで、美春ちゃん。二つ目の報告は何なんだい?」
ケンさんは鍋に顔を向けたまま、美春を一瞥した。プロデビューの報告に鼻息を荒くしていたはずなのに、美春は縮こまっている。何やら言いにくそうに唇をもにゅもにゅさせ、視線にも落ち着きがなかったが――やがて、意を決したように口を開いた。
「――翔真と、付き合い始めたんだ」
「ははっ。やっとかぁ」
「うん……」
美春は耳を赤らめて、ぽりぽりと頬をかいていた。ケンさんはさほど驚いた様子も見せない。自分の知らないところで、どうやら二人の間で通じる話がされていたみたいだった。どういうことだろう、と翔真が口を開こうとしたら、美春がピンと背筋を伸ばした。
「電話――あっ、編集さんからだ。もしもし、お疲れ様ですっ……!」
慌てて席を立って、美春が店の外へ歩いていった。その場に残されたのは、男二人。ケンさんは菜箸で油の具合を測っていたが、ちらりと視線を送ると、翔真に向けて話し始めた。
「美春ちゃんな、よく一人で飲みに来てたんだ。ここに座って、翔ちゃんの話ばっかりしててよ。さっさと付き合っちまえよって言ってやったんだけど、『今さらすぎる』だの『長く一緒にいすぎて女だと思われてない』だの、カウンターでぐでぐでしててなぁ」
「えっ……アイツ、そんなこと言ってたんですか」
「付き合いが長すぎて、言い出し辛かったんだろうなぁ。まぁ、良かったじゃねえか。翔ちゃんも嬉しいだろ? 綺麗になったもんなぁ、美春ちゃん」
「えぇ、まぁ……へへ」
天ぷらの盛り合わせを揃えて、ケンさんはテーブル席まで届けに行った。油の匂いが鼻孔をくすぐる。ケンさんは早足で戻ってきた。
「で、どうすんだ? 結婚すんのか?」
「しばらく待とうって話になりました。美春も連載が始まるし、アイツが安心して漫画を描いてられるように、俺が仕事頑張って、いっぱい稼がなきゃ、と思って」
「孫の顔は早めに見せてやれよ?」
「いやぁ、はは……」
苦笑いする翔真を見て、ケンさんは目を細めた。カウンター越しに、小鉢が差し出されてきた。鮪のなめろうだった。
「あれ、注文しましたっけ」
「奢りだよ。翔ちゃん、コレ好きだろ?」
「……ありがとうございます」
「良かったよ。店で見かけるたびに気になってたんだ。こいつらどうなるんだろうな、って」
「ケンさんは、美春から色々聞いてたんですよね」
「まぁな。たまに切羽詰まってたから、ヒヤヒヤしたよ。翔ちゃんに彼女できちまったら、美春ちゃん大泣きすんだろうな、って」
「アイツ、そんなに……」
好物のなめろうを、翔真は一口摘んだ。ネギの辛みが口内に広がるが、大葉の爽やかな香りが辛みをまろやかにしてくれる。味噌のコクを舌の奥で反芻していると、美春が戻ってきた。
「ごめんね、ちょっとかかっちゃった。男二人で何の話してたの?」
「えっと、美春が一人でここに来てた話とか」
「ケンさん! 言っちゃったの!?」
「別に隠すことでもねぇだろ。翔ちゃんに今度、ちゃんと話してやんな」
「わ……分かってるけど……」
美春は顔を隠すようにジョッキを傾けた。氷だけがカラカラとぶつかり、冷えた音を立てる。
「ところでよ、翔ちゃんの首ん所のアザ……美春ちゃんかい?」
「えっ」
「ウソっ!? そんな所にはつけて――あっ」
美春は慌てて口を押さえた。翔真も反射的に首の根元を押さえていたが、何のことを言っているのか理解するまでに、数秒かかった。
「何もついてねえよ。いや~、やってんねぇ」
美春は頭を抱え、耳を真っ赤にしてしまった。
終わり
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