果てのない流浪だった。
目的や、あてすらない旅である。風の吹くまま気の向くまま、知らない土地を流れに流れていた。
小舟に揺られていると、つい眠ってしまいそうになる。ふと、濁った水流に手首から先を浸してみた。土の匂い。河を流れる水の色。すべてが、五感に刺激を与えてくれるようだった。
自分という存在は、どこからきて、いったいどこへゆくのか。この土地で目覚めてから、ずっと夢物語の中にいる気がしてくる。馴染んだ制服と、ひと振りの刀。それがなければ、見ている景色や旅の疲れさえも、夢の副産物としか思えなかったのだろう。
胸のあたりに、金糸のような髪がふれている。誰から見ても、慇懃無礼な少女だった。自分の身体を簡易ベッドのように使い、鼻唄まじりに飴を舐めている。
船頭が、小舟を器用に操って、岸に近づけていく。陸路で進んでも問題はなかったが、自分のわがままで舟を使わせてもらったというのが実情なのである。だから、少々杜撰な扱いを受けようと、文句をぶつけるつもりはなかった。
流浪の旅は、すなわち路銀との闘いでもある。手っ取り早く稼ぐのなら、羽振りのいい商人の用心棒をすることだった。どこにいっても、野盗や山賊の脅威があるといった荒れ具合なのである。それを思うと、自分がいかに恵まれた環境で生まれ育ってきたのか、強く実感できるのだった。
「おい、程昱」
「ふぁい? なんでしょうか、関羽ちゃん」
連れの二人が、いつものように睨み合いをはじめる。といっても、本気でやり合っているのは関羽と呼ばれたひとりだけなのだが。
程昱には、遠慮という概念が存在しないのではないか。それで、関羽が我慢できなくなり声を荒げる。そういうやり取りを、繰り返してきた旅でもあった。
舟の舳先が岸にぶつかる。軽い揺れがあり、それが収まったのと同時に程昱が陸に逃げ出した。程昱の小さな背中を関羽が追う。手には、背丈を越えるだけの武器が握られていた。青龍偃月刀。義の刃を煌めかせ、今日も関羽は赤ら顔で程昱に教育を施そうとする。
「懲りませんね、まったく。行きましょうか、自分たちも。さっ、一刀さん」
「ああ。悪いな、楽進」
長い銀髪が美しい。三人目の連れである楽進が、傷のついた腕を伸ばしてくる。関羽に負けず劣らず真面目な性格をしているが、こちらの方が幾分か穏やかである。
楽進の手を掴んで、北郷一刀は立ち上がった。雄大な黄河がどこまでも流れていっている。自分の流浪がいつまで続くのかは、わからなかった。
関羽、楽進、程昱。心得のある人間が聞けば、それだけで心の躍るような顔ぶれなのではないか。三人は字に加えて、それぞれ真名という別の名前を持っていた。
それぞれ、愛紗、凪、風だった。ほとんどの場合、一刀は三人を真名で呼ぶ。彼女たちにとっては神聖な真名なのだろうが、自分にとってはそちらの方が気楽に感じるからだ。
実際、ここは三國志の世界なのだろうか、と悪あがき的な思考をすることがある。
治安の悪さでは、間違いなくあてはまる。都である洛陽には皇帝がいて、各地には力のある豪族が散らばっているらしかった。ただ、日本語しか知らないはずの自分が普通にコミュニケーションを取れているのが、不思議ではある。
文字に関しては悪戦苦闘している真っ只中であり、時間をみては三人に教えを乞うている。
「おい兄ちゃん、さっきからなにぼさっとしてやがるんだ。河の底に沈められたくなかったら、さっさとこっちにきやがれってんだ」
「わかった。わかったよ、風。とりあえず、街についたら飯にしようか」
「ふふふー。その素直さは、お兄さんのれっきとした武器ですねぇ。謙虚なお心を、どうかいつまでもお忘れなきよう。天下をあまねく照らす日輪となる御方なのですから、あなたは」
「そう言うおまえこそ、ご主人様に対する礼儀をだな……。あっ、こら、逃げるなっ」
「くふふー。待てと言われて素直に従うお馬鹿さんが、どこにいますか。逃げるが勝ちなのですよ、こうした場合は」
この世界で、まだ何者にもなれていない一刀のことを、愛紗はご主人様と呼ぶ。
騒乱を収める天の御遣い。ちょっと剣を遣えるだけの俺のどこに、そんな力があるのだろうか。ほかに自分を燃やせるものがなかったから、剣の道にのめり込んだ。高校に進学してからは、地元では敵なしと評判だった祖父に土をつけた。ただ、それも狭い世界での話である。身内を倒した程度で少しでも浮かれた自分は、まだまだ修行が足りていない。
これが夢の中であれば、とっくに愛紗の願いは叶っていたのかもしれない。だからこそ、いま踏みしめている地面のかたさが、リアルに神経を通じて伝わってくるのだろう。
馴染みのない風や土の匂い。そして想像をこえた雄大な流れのある大地が、自分に違う道を見せてくれるのではないか。かすかな期待が、一刀の中で渦巻いている。
「この世界、どこかにあの劉備がいるのかな。ははっ。もし出会ってしまったら、俺はそこでお役御免もありえるのか」
「一刀さんがなにを心配されているのかわかりませんが、少なくとも、自分だけはどこまでもお供しますから」
「おおっ。やりますねぇ、凪ちゃんも。お兄さんの心を鷲掴みにする匠の技、風は感心するばかりです」
「やっ……。というか、風はいつの間に逃げ帰ってきていたのだ。追いかけていった愛紗さんの姿は、どこにも見えないのに」
「いえいえ。風もうら若き乙女ですので、表にできない秘密がちらほらと。あっ、そうやって噂をすれば」
「はあっ、はっ……。ふ、風に弄ばれるとは、関雲長無念の極み。これでは、ご主人様に合わせる顔がどこにも」
しばらく周辺を駆け回っていたのか、汗だくになって愛紗がもどってくる。
湿り気の増した艷やかな黒髪。風と凪がそばにいる手前、あまり凝視するのもどうかとは思ったが、見てしまうのは男の性だ。
「だったら、たまにはご主人様らしく、命令でもしてみようか。しっかり顔を見せてくれるな、愛紗?」
「むむむ……。このような些事に、ご主人様の貴重なご命令を浪費しないでいただきたい。どうせなら、蔓延る賊を打ち払ってこい、とかそういうのをですね」
「ええー、そうなのですかー。風だったら、そうですねぇ。お兄さんのお小遣い一ヶ月分で、飴をありったけ買ってこい、とかそんな感じ?」
「そのくらいにしておくんだな、風。また、愛紗さんに地の果てまで追われたいのか」
「いえいえ。そこはほら、一刀さんの威厳ある一喝でどうにかですねぇ」
これみよがしに風が一刀に抱きつき、愛紗に向けて親密アピールをしてみせる。もはや、波風を立てる気しかないような振る舞いだった。小悪魔的というか、愉しければ万事問題ないのが風なのである。
それをつい許してしまえるかわいさがあるのが、また憎らしい。
「ご主人様。いずれあなたに仇なす佞臣を、ここで私が斬ってさしあげます。ですから、どうかそこをおどきくだ……さいっ!」
「うおっ。ストップ、ストップだ、愛紗」
「天の言葉の意味を、愚かな私は介しません。ここは、ただ押し通るのみっ」
「だから言ったろう、風。もうそのくらいにしておけ、とな。助けないぞ、自分は」
「うへぇ……。凪ちゃん、そんな殺生なぁ」
愛紗の放つ気迫の一撃が、前髪を掠めていった。
こうなったら、誰を狙っているのかほとんどわからなくなる。風を人形のように操り、ぎりぎりのところで青龍偃月刀を回避する。徐々に愉しくなってきているあたり、自分もよほどまともではないな、と一刀は内心笑っていた。