関羽と張飛。史実では劉備配下だった二人の豪傑が、眼前で闘気をぶつけあっている。正直、胸の高鳴りを抑えきれなかった。張飛の外見は完全に子供なのだが、振り回す蛇矛の生み出す圧力は離れていてもひしひしと伝わってくる。ある意味、この世界は果てしなく自由なのかもしれないと一刀は思った。
張飛の攻撃を跳ね返し、愛紗が気迫をぶちまける。天の御遣いを守護する、という本来の目的はそろそろ消えかかっているのではないか。それだけ、愛紗は愉しそうに青龍偃月刀を振っている。舞い踊る黒髪。翻るスカートの裾。美しいと表現するには、あまりにも猛々しい叫びが耳の奥にまで響く。自然と見入っていたところで、隣から袖を引かれた。
「張飛ちゃんと互角以上にやり合えるだなんて、あの子はいったい何者なのかしら」
「関羽雲長。一応、俺の臣下ということになっています」
「……臣下? ふふっ。そういうあなたこそ、いったい何者なんでしょうね、不思議な配達員さん」
おもしろがるような視線で、盧植が下から覗き込んでくる。すべてを包んでしまえそうな長い谷間。無闇にかがむものだから、やたらと主張を強めてくるのだ。愛紗でもかなり大きいと思っていたが、盧植は肌を露出しているだけ迫力が上である。
果てしないといえば、おのれに宿る底なしの性欲にも嫌気が差してくる。ただし、それを拒絶しようとしたところで、なんら成長は見込めない気がしていた。下流に向かっていく水の如く、なにごとも自然であれ。
腕の位置によってむにゅりと変形する盧植の乳房。同時に、風の薄ら笑いが視界に入ってきた。
「やっ。俺なんてなんでもない、ただの人ですよ。北郷一刀です、盧植さん。これからよろしくしてもらえると、嬉しいかな」
「北郷一刀くん、ね。私の真名は風鈴。命を助けてもらったお礼に、受け取ってもらえるかしら」
「ありがとう、風鈴さん。こちらも真名を……、と言いたいところなんだけど」
「えっ。あなた、まさか真名が?」
風鈴が驚いたところで、風がすっと横槍を入れてくる。
「はい、実はそうなのですよー。かくかくしかじか……。そうした事情があってですねえ……」
「ふむふむ。苦労を重ねてきたのね、一刀くんたちも……」
「というわけで、そろそろあのお二人の闘いを誰か止めてもらえませんか? 風は先程からお腹が空いて空いて、凪ちゃん謹製の唐辛子ビタビタ料理でも、やけになって食べてしまえるくらいになっているのですよ」
「ふうん。おまえ、ひとの料理をそんなふうに思っていたんだな。わかった、それなら自分にも考えがある」
「あっ……。悲しいですね、お兄さん。風はいま、平和の崩壊を痛感しているのです。ねっ、これってほんとうに現実なのでしょうか」
「ツッコミどころしかない場面で俺に振るなよ。それはともかく……」
立ち尽くす風は、そのうち真っ白な灰になってしまいそうだった。そもそも風鈴は風鈴で、あれでよくことの概要を理解できたなと思う。
「はーいストップ。半分身内同士の争いで、大切な命を削るものじゃないよ、愛紗」
「えっ……!? あ、あのっ、ご主人様」
「張飛ちゃんも、そのくらいで落ち着きましょうね。先生、命の恩人である方々の前で、あなたを叱りたくないのだから」
「はへっ……? 鈴々だって、風鈴先生に雷落とされるのは嫌なのだ。むむむっ? それに命の恩人って、んんー?」
二人の打ち合いを眺めていて、おおよその呼吸を掴めるようにはなっていた。
まずは、勝手知ったる愛紗を自分が引き剥がす。制止するのが申し訳なく思えてくるほどいい雰囲気になっていたのだが、背に腹は代えられない。風鈴があえて抑揚のない声で呼びかけると、張飛もようやく闘いをやめた。
「えーっ!? お兄ちゃんたちはみんなを助けてくれた正義の味方で、転がってるおじさんたちが悪党だったのだ!?」
張飛の心からの叫びだった。
全員で協力して、気絶している頭巾の男たちを縄で縛り上げていく。そのうち衛兵が身柄を引き取りにくるだろうから、もう心配はいらないと風鈴が言っていた。やはり公孫賛とは親交があるらしく、周辺には風鈴の教え子たちが点在している。中でも張飛は身寄りがないようで、母親代わりとなってかわいがっているのが風鈴だったのだ。
「風鈴さん。黄巾党を名乗ってはいたけど、こいつらどうにも」
「あら。さすがに勘がいいのね、天の御遣いくん?」
「よしてくださいよ、からかうのは。俺の推測でしかないけど、風鈴さんを嵌めた連中、中央にいるんだろう? 追放したまではよかったけど、今度は野放しにしているのがおそろしくなった……ってのがわかりやすい流れかな」
「さて、どうでしょうね。私は、地方で静かに暮らすことができれば、それでいいと思っていた。近くの人たちに学問を拡めて、その輪がいずれ大きくなればってね。はあ……。教え子のみんなや、伯珪ちゃんにまで迷惑をかけて。私、だめな先生ね」
言いながら、風鈴が肩を落とす。
少し自由な動きを見せただけでも、こうなのだ。相次ぐ叛乱により、朝廷は疑心暗鬼に陥っている。それに風鈴を失脚させた人間は、報復をおそれているに違いない。
「してないんだろう、風鈴さんはやましいことなんてさ。だったら、胸張って生きてやろうよ」
「一刀さん。そういうの、あまりよくないんじゃありませんか。ほら、前に言っていたでしょう? せく……がどうとかって」
「あの、凪さん……? なにを勘違いされたのかわからないけど、胸張ろうってのはそういう意味じゃないからね……?」
「だって、その……。一刀さん、最近いっつも見てるじゃありませんか、愛紗さんのアレ」
じっとりとした目線を凪が向けてくる。話題に上った愛紗はいまも張飛とじゃれ合っていて、こちらの相手をしている余裕はなさそうだった。関羽と張飛。やはり、どこかで通じ合う部分があるのだろうか。
愛紗の胸を見ていることを今更否定はしない。すべては、自分の背負いし業なのだ。
「うふふっ。仲がいいのね、あなたたちって。いつまでも大事にしなきゃだめよ、なんでも言い合える仲間は」
「それは、もちろん。あの、いきなりなんだけど風鈴さん」
凪の肩を軽く叩きながら、一刀は改めて風鈴と向き合った。
はっきりさせておかなければならないことがある。無論、劉備玄徳の存在だった。風との逃避行の最中、寒村を襲っている賊を斬った。殺しで追われているのだから、それが数人増えたところで同じだろう、と腹を括って飛び込んだ憶えがある。そんな喧嘩の場に乱入してきたのが、
一目惚れと言えば、そうなのだろう。血なまぐさい闘いをしているのに、愛紗の周囲には清々しい空気が流れているように見えた。殺し合いをしている中で、人はこれだけいい顔になれるのか、と胸がすく思いがした。
出会った瞬間は、自分が愛紗のご主人様になるとは当然想像もしなかった。
劉備と、本来の主君と交われば、泡沫の関係はいずれ消えてなくなる。心の片隅。ネガティブな思いの欠片が、常に潜んでいたような気がしていた。放浪を続け、道を見つけられずにいたのは、その迷いがあったせいなのか。
「お弟子さんの中に、劉備という名前は」
「ほんとうにいきなりね、一刀くん。それにしても、うーん……。りゅうび、ねえ? 伯珪ちゃんの先任である劉虞殿となら、一応面識はあるのだけれど」
「風鈴さんが、劉備を知らない。まさかとは思っていたけど、この世界には劉備がいない」
要素のとっ散らかったこの世界で、答えが絶対であるとは言い切れないのかもしれない。
ただ、黄巾の乱を経ても関羽と張飛のどちらともに繋がりがなく、先生であるはずの盧植にも認識されていない。生まれるはずのなかった間隙を、突発的に出現した自分が埋めた。そして、天の御遣いとして関羽と主従関係を結んでいる。
「お兄さん。どうやら、気持ちの整理はついたようですね」
いつものように、風が不敵に笑っていた。