四角く切り取られた真夏の青空にぽっかり浮かぶさかな。ふわふわ漂っていて、かわいいな。まるで昔持ってたちっちゃなぬいぐるみみたい。
真っ白な病室のなかで、変化のある風景は、この小さな窓の外だけなんだ。いつもいつも窓の外だけしか見てないと、もう時間もなにもわからなくなる。
だから、まるで神さまが空に配置した暗号のようなさかなの群れの配列を、ボクはいつも解読しようとしてるのさ。
時々若いショートヘアの看護師さんがやってきて、いろいろ身の周りの世話や、よくわからないことをしてくけど、なんにも話してくれない。だからボクも何も話しかけたりはしない。
無表情で、まるで仮面をかぶってるみたい。きっと、この人も家に帰れば、ひとに戻るんだろうと思うけど、ボクに対してはそういう顔をぜんぜん見せてくれなくてつまんないよ。
ちょっと小学校の時のななめ前に座ってた子に似てる。あれは何年生の時だっけ。
いろいろ忘れちゃって、なんかとても大事なことまで置き忘れてしまってるような気がするけど、もう遅い。だって、ボクはもう壊れて、終わっちゃったんだから。
時おりやってくる初老のお医者さんは、ちょっと話してくれる。それが仕事なんだろう。
覚えてることを書き留めておいたらどうかなって言って、1冊の大学ノートと、かわいい青色のうみうしのついたペンを渡してくれた。このうみうし、かわいいなぁ。そういえば、やっぱりこういうキーホルダー持ってて、バッグにつけてたっけ。あれ、どこいっちゃったかな。
ボクがかわいいもの大好きだって知ってるから、選んでくれたんだと思うけど、あの真面目そうなお医者さんが選んだとはとても思えないから、誰かに頼んだのかな? あの看護師さんかな? だったらいいなぁ。
ぼーっとしてると考えがまとまらなくてあっちこっち散らかっちゃうけど、ノートに書いてると、いろいろな思い出が、いいこともつらかったことも、哀しかったことも、夏のおわりのくらげみたいに、ぽつぽつと記憶の海面に浮上してきて、風に吹かれてあてどなく流される。
だから、ボクは自分の軌跡をこうやって書いてみるんだ…
1
ボクが毎日通っている郊外の山の中の大学は、とっても大きい。学生も先生たちもいっぱいで、知らない人ばかり。ボクがわかるのは、せいぜい同じ地理学部のクラスの友だち(全員じゃない)と、バンドのメンバーくらいだ。
みんな特になんにも言わないけど、多分ちょっと変わったやつと思われてるかもしれない。でも、大学なんて「ちょっと変わったやつ」はごろごろしてるから、そんなに目立たないのがうれしい。
もよりの駅から山のなかの道をしばらく登り、トンネルを越えると、大学の裏門。そろそろ日差しも本気を出し始めた6月末、ずっしりと重いエレキ・ベースを抱える身にはなかなかきつい行程だ。
坂道の途中で、後ろから声をかけられた。
「吉田ぁ、待ってまって」
振り向くと、同じクラスの佐々木ユウキが速足で追ってきているところだった。
「おはよ、ユウキ」
「ベースが歩いてるかと思った」
「重いんだよう」
「ベースに持たれてる感半端ないな」
ボクは男にしてはちょっと小柄だから、正直ベースを持ち歩くのは結構きついのだ、特にこういう坂道とか。
「また今日もかわいいかっこしちゃって」
笑いながら、ちょっとからかうような口調で話しかけてくる。ボクがかわいいと言われるのがうれしいとわかってるから、毎日会うと開口一番、こう言ってくれる。やさしいなぁ。
「うん」
やっぱりそう言われるとうれしくて、ついうつむき加減で照れちゃう。これは半分演技でもある。男子が見て多分かわいいと感じるだろうしぐさ。ボクって最低だよなぁ。鏡の前でいつも練習してるから、そういうのはばっちりだ。もちろん、恥ずかしいのも本当なんだけど。
大学に入って服装の自由を得て、ボクはもうがまんできなかったんだ。高校生の時、憧れてた女子の制服、白いワイシャツに赤いリボンタイ、ベージュのカーディガン。コスプレといわれても反論できないけど、それでもいい。着たいものを着ることにした。
最初はメンズでもちょっとかわいい系の服装だったのが、だんだんユニセックスよりの、レディースばっかり着るようになってきた。背も低いし、体つきも華奢だったので、胸のあたりにちょっと違和感があるけど、普通に着れる。ちなみに、ボトムスはチェック柄のズボンだ。
こうして、実に中途半端な男の娘の誕生です。でもいいの、こういうどっちつかずな感じが好きなんだもん、しょうがない。
素材はそう悪くない(はず、と思いたい)から、毎日鏡の前で確認してみるけど、まあいけてる、と思う。ぱっと見なら、女の子と思われても不思議はない。
本格的な女装ならまた違うんだろうけど、こういうあいまいな服装なら、大抵の人はスルーか、一瞬「えっ」という表情をするだけですむ。まあ本当は、もっと見てほしいって気持ちがないこともないんだけどさ…
クラスのみんなは、だんだん変身していくボクを見ても、特になにも言わなかった。多少とまどいはあったと思うけど、それを表にだすことはなかった。ボクがいないところでは、そういう話題も出ただろうと思うけれど、ボクに対しては、みんな態度を変えたりもせず、生暖かく見守ってくれてるという感じで、少しでも踏み込んできたのは、ユウキくらいだ。
中学や高校だったらいろいろ齟齬もでてくるんだろうけど、大学生ともなれば、みんな大人な態度を崩すことはない。きっと大学って狭く閉ざされた環境は、世界で一番自由な社会なのかもしれない。
「授業まだでしょ? ボクはちょっとコーヒーでも飲んでくけど?」
「あ、おれも行くわ」
ふたりで大学の中心にある生協に向かう。食堂やら本屋、文具店なんかがまとまってる建物で、大学生活の中心だ。1階の広い食堂は、各サークルがなんとなく決まった場所にたむろっていてほぼ独占してるけど、2階にちょっとおしゃれ系の喫茶店があって、ボクは朝大学に来ると、大抵そこで軽く食事をする習慣になってた。
「午前は、GISだっけ?」
「うん」
「おおっあれなんだ?」
「コスプレ撮影?」
多くの人の行きかうデッキの上で、学生服イメージのアイドルのような恰好をした女の子と、それを撮影する数人の学生が集まっていた。いいな、あんなかわいい衣装着て、ちやほやされてみたいなあ。うらやましいな。
「結構かわいい子じゃね?」
佐々木がボクの耳元に口をよせ、ささやく。ねえ、そういうの、まじでやめて。佐々木は特になんも思ってないんだろうけどさ、こっちはそういうの、いちいちどきどきしちゃうんだから…おとこのこの乙女心は繊細なの。
「うん、かわいいね、あの衣装」
「ああいうのが好みなのか」
「好みっていうか、あこがれる」
「そうなのか…」
「あんなサークルあったっけ」
「まあサークルなんて山ほどあるからな。アイドル研究会とか、コスプレ研究会とか、わけわからんやつ」
「なにを研究するんだってやつね。でも、社会学系だと、そういうのも最近はあるんじゃないかな」
「社会学わけわからん」
「確かに」
そういうところに入ってみるのも面白いかもね。ちょっと気にはなるんだけどね。多分、ボクみたいなのでも、居場所はありそう。
まあでも、似たようなことはバイトでしてるから、わざわざサークル入ってしなくてもいいんだけど。
ユウキは多分荷物の多いボクにあわせて、ちょっと歩みを遅くしてくれてる。こんな妙な恰好したボクとも、なんの不自然さも感じさせず、ごく普通につきあってくれる。人づき合いもいいので、クラスの誰とでも仲がいいし、聖人だよ、ユウキ。
喫茶店は込み入ってた。なんとか二人で席を確保してから、ユウキはコーヒーを、ボクはコーヒーとトーストのセットを頼む。
「ところで吉田って、なんで地理学部にしたの。なんかイメージ合わない感じだけど」
「見た目でいったら、どの学部も合わない気が」
「たしかに」
「地図がさ、大好きなんだ、子どものころから。あれ見てると、いつまでも時間つぶせるよ」
「そうなんだ、じゃあGISとか一番楽しいやつか」
「そうそう。見るのに慣れてくると、なんとなくそこがどういう風景か、地図だけでわかるようになるってすごくない? それが日本全国全部なんだよ」
「ああそう」
「たとえばさ、電線だけ描いてあるじゃん? でも鉄塔は…」
うん、彼がそこまで興味ないってことはわかった。今まで自分くらいの地図愛に満ちた人にはまだ会ったことないし。でも、地図についてだったらいくらでも話せるぞ。
「そういえば、今日はバンドの練習?」
ちょうど話の区切りで、さらっと話題を変えられた。くっ、ここまでか。まあ、自分のあまり一般的じゃない趣味に、他人を無理やりつきあわせるつもりはないです。嫌われちゃうもん。でも、佐々木にはわかってほしいという気持ち、ちょっとあるんだけどね…
「午後からね」
「4人だっけ、どんなのやってるの」
「一応ロック系、まだまだ始めたばっかだし、みんなの趣味がわかってるわけじゃないから、これからかな。」
「ふーん、感触的にはどうよ」
「高校の時の友だちが連れてきたふたりが、どうかによるかな。結構うまい感じだし、かわいいし」
「かわいいは関係ないだろ」
「いや、ある! むしろそれが一番大事というか」
「…まあ、おまえが一番かわいいかもしれないな」
「そういうの、まじやめろって」
ふたりで苦笑する。
ふざけて言ってるのはわかるよ。でも、かわいいなんて言われたら、冗談だとわかっててもこっちは気持ちいいんだよ。うれしくって、どきどきするんだよ。その気になっちゃったらどうすんだよ…たんなる勘違いが、本物の種子になることだって、あるかもしれないだろ…
「おまえがベースだろ」
「うん、高校の時の友だちがギターで、あとドラムと鍵盤」
「女のドラムか」
「珍しいでしょ。割といけてる感じ」
「それじゃ結構引く手あまたじゃね?」
「だろうねー、まあ他のバンドやってるかは知らないけど」
「でもさ、女のドラムってどうなの、力ないし」
「それ、違うんだよ、ドラムって力じゃないんだ。こう、スナップでね、結構音大きい」
手首をくいくいさせながら言う。うまい人は、軽く叩いてるように見えても、驚くほど大きい音が出るし、音の「活き」が違うのだ。
「そういうもんかね」
「うん」
「ほんと、なんにでも凝るやつだな」
「楽しいことだけだよ、興味ないことは全然」
「その恰好もか」
「うん、楽しい!」
「その人目気にせず自分ってとこ、嫌いじゃないな」
「そんなふうに言ってくれるの、佐々木だけだよ」
「それって、女子にはどう思われるんだ? もてんのかな」
「さあ。もてないんじゃない?」
ボクは、女の子も好きだけど、男の子も好きになる。どっちでもオーケーってわけじゃない。ただ、好きになるのが、どっちの場合もあるってこと。好きになったら、結果的に、それが女の子でした、あるいは男の子でした、って感じかな。
でも、性別なんて関係ないってことじゃないんだ。だって、体だって違うし、エッチなことする時だって、ちょっとやり方違うじゃん? まあまだ男子とそういうことしたことないから、詳しくは知らないけどさ…でも、好きな人とだったら、相手がどっちであろうと、ボクは、そういうことしたい。なんだってしてあげたい。ふたりで気持ちいいことしたい。
ボクって変かな。
そのことは、誰にも言ってない。もちろん佐々木にも。だって、気持ちわるがられるかもしれないじゃん。それは哀しいもん。
哀しいのはいや。つらい思いするのは嫌い。
でも、もしそれで嫌われて、避けられて、ひどい扱い受けても、それはそれでどうなんだろうって思うことがたまにある。
クラスでみんなに変態って蔑まれて、嫌がられて、ぶたれたり、足蹴にされたりして、いくら泣いても許してもらえない…それはそれでとても興奮しちゃうかも…って、こじらせすぎ。そんなのはやだよ。誰だってやだよね?
そんなこんなしていると、やがて授業の15分前、ユウキのおかげで、あっという間だった。
「そろそろ教室行くか」
「うん」
大学は広いので、中心部にある生協から教室までは結構時間がかかる。ボクたちは席を立った。