時はいつの間にか通り過ぎて行っちゃうところが、とても嫌いなところだ。何をしていても、何を考えていても、時は平等に過ぎ去っちゃう。楽しい時間はあっという間。でもそれが長所でもある。とりあえず黙ってじっとしていれば、何をしてても時は過ぎていくし、それにともなって状況や環境もどんどん変わっていく。
変わらないものなんて皆無だ。自分も周りも、姿やその関係性も目まぐるしく変化し、はっと気づくと、何もかも違ってる。
ボクはふわふわとその流れに無自覚にのって、漂う。通り過ぎてきた場所のことは、あっという間に忘却の彼方だ。この先流れていく先のことも分からないし、予測する気にもならない。だって、どうせ予測なんて当たらないもん。「今」だけが、存在するすべての時間だ。
いつの間にか、冬が過ぎ、春が来て、ボクは2年生になった。
授業はちゃんと出てる。まだ一般科目はあるけれど、専門の面白い授業が増えてきた。3年次になればフィールドワークなども増えてくるけれど、それまでは、まだ我慢。ひとつの街を、地質、地形、歴史、文化、産業、あらゆる方向から眺めると、ただ漠然と見ていた時のぼんやりとしたイメージから、くっきりと明瞭にその「形」が浮き上がってくる。その有様はとても面白い。細部だけどれだけ深く掘り進んでいってもそれは見えてこないものだ。
ネット上の地図を眺め、次第に拡大率を小さくするとだんだん周囲が見えて来て、最終的には日本や地球での位置がわかるみたいなものだ。狭い範囲を深く掘り下げるのは評価されやすいけど、全体を俯瞰し、その中でどのような位置・関係にあるかを探るのは、評価されにくい。ボクは明らかに後者が好きだし、得意だ。
クラスの同級生で一番仲がいいのはユウキだけど、彼がボクのことをどう思っているのか、よくわからない。入学して知り合った時から、全然態度は変わらない。気をつかわせてしまってるのかな、と思うことはあるんだけど。
彼は、ボクのバンドでの話なんかをよく聞いてくれる。ドラムの先輩とつきあってることも話した。よかったじゃん、って言ってくれた。ユウキが、ボクを「普通の学生生活」に繋ぎとめてくれてる気がする。でもバイトの話はしてない。そこまで彼が理解してくれるかどうか分からないし、何となく後ろめたい気もするから…
そういえば、入学早々、ボクとユウキ、あと2人で飲みに行って、べろべろに酔っぱらって、げーげー吐きながら1人の下宿に転がり込んだことがあった。目覚めた次の日は土曜日で、土日にかけて、ほぼ寝ないで耐久レースみたいにゲームをやり続けた。部屋の主は文句を言うこともなく、夕方、台所に向かって何をしてるのかと思えば、じゃがいもを剥いて、一からコロッケを作ってるのだった。なんという家庭的なマメなやつ! おいしかったなあ。
ああいうの、またあったら楽しいな。
クラスの女子からは、あんまり関わらないようにしようって雰囲気は明らかに感じるのだけど、敵意ってわけでもない。まあまだ専門の授業ばかりではないし、一緒に飲みに行くとかそういうこともないし、お互い知り合う機会がないせいもあるとは思う。
いずれにせよ、クラス内は、男女で分かれてある程度まとまってしまっているので、仕方ないんだけどね。
リョウとは、時々、ふたりきりで会う。バイトあがりに一緒に帰り、ホテルに寄る。まだリョウの家には行ったことがないし、ボクの部屋に招いたこともない。多分リョウにも、ボクにとってのリエさんみたいな人がいるんじゃないかと疑ってる。疑ってるというけれど、もちろん別に責めてるわけじゃないよ。そんな立場にないことはわかってる。
むしろ、ボクのほうが、リエさんに責められて当然なんだと思うけど、どうしてもやめられない。麻薬みたいなものだ。それを悪いことだと感じることがどうしてもできない。多分、ボクは生まれつき道徳観が壊れてるのかもしれない。
リョウのせいで、ボクはすっかりエッチな子になってしまった。リョウに軽く首筋を舐められるだけで、我慢できずに声を上げて体をよじらせてしまう始末だ。みっともない。でもそのみっともない自分が嫌いじゃない。リョウの大きなものを受け入れるのも、もうずいぶん楽になったし、気持ちよくなった。
もともとくすぐられたりするのにはひどく弱かったけれど、今はそれがさらにひどくなってきた。いつも、体全体が過敏になっている感じ。エッチが楽しくてたまらない。
そんなざまだから、多分、リエさんも何か勘づいてるかもしれない。もともと繊細な人間関係に敏感な人ではないと思うし、大ざっぱな性格だとも思う。そういうところがボクは好きなのだけれど。いや、どうなんだろう、実は違うのかも。そう演じてるだけなのかもしれない。他人のことはわからないや。
まだミウちゃんとは再会してない。したくない、と思う。この春から大学に来てるのは間違いないと思うけれど、学部も知らないし、実家から通ってるのか下宿してるのかも知らない。
でも、ミウちゃん、ちょっとは大人になったのかな。高校生の時のミウちゃんの、まだ成長途上といった感じの体を思い出す。ミウちゃんは色々とリエさんよりちっちゃい。ああ、最低だね、ボクって。クズ過ぎて、笑っちゃうや。
なんでミウちゃんは、ボクにいつも自分が最低であることを思い出させるんだろ。
精神が、身体に引っ張られてるのを感じる。
男のものを受け入れるようになって、それに慣れれば慣れるほど、心が「男」から離れていくような感じがするんだ。だからといって、「女」に近づいてるのかといえば、それはどうか分からない。多分違うような気がする。正三角形の頂点2つを男女とするならば、もう1つの頂点にあたる感じかな。
確かに、普段の立ち居振る舞いが、ちょっとずつ変わってきてる。
カフェのみんなからも言われた。
「最近、カオルちゃん、女の子っぽさが強くなってきてない?」
「そうかな?」
「ちょっとしたしぐさとか、前より女の子っぽい。というか、色っぽいっていうか?」
「自分じゃ気づかないけど…気のせいじゃないの?」
うん、ほんとは気づいてる。
何だか、自分が違う生き物になりつつあるみたいな気もして、ちょっと怖い。
それを補正してくれてるように感じるのが、リエさんとのセックスだ。
リエさんとする時は、ボクは完全に男としてのボクになる。それで危ういバランスをとっているみたいな気分。
精神と肉体は、等価なんだと思う。どちらも同じだけ必要で、どっちがより大事なんてない。ふたつ合わせて、初めて人間として成り立つんだ。肉体がなくなれば精神も成り立たないし、精神がなくなれば肉体も意味はない。人ではなくなってしまう。
だから、体が女性役を引き受ければ、心は女の子よりに引っ張られてしまうし、逆もまた然り。心なんて、わりかし自由自在にあっちこっち漂ってしまうものなのかもしれない。
プログラムみたいに、インストール、再インストール自由なら楽しいのにね。
そのあたりのいろんな学説なんかはいろいろあるものの、ボクはそういうのにはあまり興味はない。というか、興味を持ちたくない。社会とか政治とか差別とか社会運動とか権利とか、そういった単語が絡んできて、とにかくもう面倒くさいから。そんなの知らないよ、ボクはボクのことを勝手にやってくから、干渉しないでって気分。生まれてきちゃってごめん♪ってかわいくひねくれて自己肯定してやりたい感じ。
ボクは、かわいいものが大好きで、自分もかわいくなりたい。男の子にとって一番かわいいのは女の子だから、女の子みたいになりたくなっちゃうんだ。それだけのこと。
男の娘カフェのみんなも、それぞれいろんな経験や思いがあるだろうけど、この部分は本質的なところで、共通してると思う。
でも、ヨウカちゃんやトランスセクシャルのアイちゃんは、社会的な面に対する興味もあるみたいだ。ボクやマサキくんなんかは、そういうのはまったくない。それが分かってるから、ボクやマサキくんにそういう話をしてくることはない。お店やみんなの前で声高に話すこともない。みんな、控えめで、悪目立ちすることは嫌いだからね。
多分、ヨウカちゃんやアイちゃんの方が意識が高いんだろう。意識が低い分、ボクは自意識が高いのかも。あははは。…だめだめじゃん、自分。
アイちゃんみたいのは、ニューハーフといって良いのかな。実のところ、そこらへんはよく分からない。社会系の人は、言葉に厳しい人も多いから…迂闊なことは口にできない感じもある。そこらへんは、その人にとってとても大事な、替えがたい部分なのだろうと思う。ボクが、自分の音楽に対して、ロックって言って欲しいのと同じかも。たとえいわゆる普通のロック・サウンドじゃなくても。
ちなみに、ボクは薬を飲みたいとは思わない。いや、実際に飲んで、顔つき体つきも女性っぽくなった姿を見れば、いいなあと思うこともないではないけど、「これはボクは違うな」と分かる。どこがと言われても困るけど、とにかく、違う。それに、ちょっと怖い。後戻りできないってこともそうだけど、その生々しい身体感覚が怖い。
否応なく、自分が人間という有機物で、なぜか考え、動き回り、死ぬ存在であることを思い知らされる。死ぬことが怖いんじゃない。生きてることが怖いんだ。
ボクは子どもの頃から、手首を掴んで、脈を感じるのが怖かった。モーターがついてるわけでもないのに、どくどくと脈打つ血管を感じると、何だか浮足立つような居ても立ってもいられないような恐怖に襲われる。健康診断で手首にベルトを巻いて、ポンプで空気を入れ締めつけていくと、体全体からその脈打つ鼓動が響いてくるようで、その何の根拠もないように思える「生命感」が、恐ろしかった。もちろん脈拍を測っている間くらい、じっと耐えていることはできるけれど。
体の中が、ぐちゃぐちゃのどろどろで出来ていると考えると、すごく嫌だ。辛うじて皮で人の形を保っているけれど、そのふにゃふにゃの皮膚の下に得体の知れない不定形のどろどろがいっぱい詰まっていて、意味もなくどくどくと動いていて、それが自分の正体だと考えると、嫌悪感と恐怖でたまらなくなる。
鳥肌がたってくるし、その肌も気持ち悪い。かきむしりたくなってくる。でもそんなことしたら、真っ赤などろっとした血が出てくるだろう。どうして自分の中にこんなものが詰まっているんだろう。気持ち悪い。
そういう考えに取りつかれてしまうと、じっとしてられなくなる。体が義体ならいいのに。アンドロイドの身体だったら、ロボットだったら、こんな思いをしなくてすむのに。鉱物の結晶で出来てたら、どんなにいいだろう。
薬を飲んだアイちゃんは、時々、そういう頼りなげな「生命感」でいっぱいの姿に見えて、怖くなることがある。他の人の姿を見ても、大丈夫なのに。
ボクはおかしいのかな? 他の人はこんなこと感じないのかな。ネットでも本でも、そんな感想を見たことがない。ボクは本当は気が狂ってるんだろうか。
エッチの時は、そんなどろどろ感の中に浸っているはずなのに、気持ちよさでそんなこと忘れてるだけなんだろうか。ひと時の快楽に、逃げてるだけなんだろうか。わからない。
大学のデッキの上は、春の日差しも風も、あたたかい。もうすぐに連休に入り、それを過ぎれば梅雨に入ってしまうけれど、それまではまだしばらくはこの気候が続く。うれしい。
こんな日に三浦の海に行けば、もっこりしたアメフラシが磯のそこらへんにいっぱいいるだろうなぁって思った。
ボクの隣にはリエさんがいる。
ボクの大好きなリエさん。人前ではあんまりべたべたしてくれない、ちょっと男前なリエさん。決して彼女に釣り合った男っぽい姿では全然ないのに、ボクといつも一緒にいてくれる。その心も、ドラムで鍛えられた身体も、大好き。
昨日の夜、ボクの部屋に泊まった、一緒にベッドの上で裸で転がりながら、一緒にどこかちょっと遠出したいねって話になった。リエさんの汗ばんだ腕を指でなぞりながら、ボクは海がいいなぁって思った。海の風に吹かれながら、リエさんと一緒に過ごしたいなって。
どうしたら、リエさんはゴムなしでさせてくれるのかなあ。まだリエさんとの間には、とても薄いけれども確かな壁があって、どうしてもそれを崩してはくれないんだ。ボクはそれがくやしくってならない。結婚とかいう話にならないとダメなのかな。でも、結婚なんて、まだまだボクには遠くてまるで実感もなにもない言葉だ。
リョウとの間にはそんな壁は存在しないのに。
生協の入口で、リエさんは立ち止まった。
「ちょっと買い物あるんだ。ここで待っててくれる?」
「ボクも一緒に行きますよ」
ひと時も離れたくないんだけどな。
でもリエさんは首を振った。
「まあ待っててよ、ね?」
ボクの肩に触れる。仕方ないなぁ。
「分かりました。早くしてくださいね」
「了解」
ボクは植え込みの際に座って、ぼーっと空を見上げた。わたみたいな雲がふわふわと浮いてて、少しずつ形を変えながら流されていく。
ボクは雲を眺めるのが好きだ。いつまで見てても飽きない。雲は壮大な空のパズルだ。ごみごみした地上の有様を単純化して、空という巨大なスクリーンに投影してるみたい。そのパズルは、複雑に絡み合い解きほぐすことのできない地上の事象の表象だ。だから、刻一刻とその姿を変化させていく。
気持ちよくて、思わずそのまま目をつむった。日差しを感じる。
左隣に誰か座る気配がした。
「リエさん、早かったですね」
「ふーん、リエさんっていうんだ」
ミウちゃんだった。学生服じゃない。白いブラウスのミウちゃん。それだけで、記憶の中のミウちゃんより、大人っぽく見える。
「まあ、知ってましたけど」
くっついてきた。ボクは逃げるようにズレるけど、すぐに端っこまで押しやられて、逃げられなくなった。まあ、ほんとに逃げたければ、立ち上がればいいだけなんだけどね…
「近いよ…」
「いいじゃないですか、先輩。こうやってくっつくの、好きだったでしょ。覚えてます? 屋上で、こうやって座って一緒に空を見ましたよね」
おしりに感じるミウちゃんの体温。やわらかくてあったかい。ああ、そうだった、放課後、屋上で一緒にこうやって座ったっけ。その後、真っ赤に染まる空の下で、ボクの上に向かい合って跨ってきたっけ…
思わず元気になってくる下半身。ボクは立ち上がった。だめだ、こんなの!
座ったままのミウちゃんは、立ち上がったボクを見上げて、にやにやしてる。ボクは思わず赤面して、顔を背けた。くやしい。ミウちゃんにいいようにされてる。そしてそれをちょっと期待してる。すごく情けない気分になってきた。
ミウちゃんはそんなボクをじっと見てる、ボクの心の中くらい、すぐわかるみたいな風情で。
「もしかして、ちょっと期待しちゃった? 先輩、大好きですもんね、あれ。私結構大変だったんですよ、本当は。先輩が喜んでくれるから、がんばりましたけど」
「ねえ、もうやめて。いじめないでよ、お願い」
自分の耳に届いてくる自分の声はひどくかすれ、頼りない。ボクの心はミウちゃんに嬲られて、ぼろぼろだ。でも、それなのに、ボクの下半身はさらに元気になる。なんでだよ! もう本当に泣きたくなってくるよ。走って逃げたっていいのに、ボクはそうしない。できないんだ。そして、ミウちゃんはそれがちゃんと分かってる。
「ああもう! 先輩、かわいいなぁ。そんなフリルのついたブラウスなんて着ちゃって! あの頃からそういう恰好だったらよかったのに。私、男の娘の先輩も大好き」
「うそ」
「うそじゃないです。先輩、もともとかわいい顔立ちだし、そういうとこが好きだったんですよ。どんなに、みんなに自慢したかったか。クラスのみんなに、先輩は私の恋人なんだって、大声で叫びたかった」
「…」
「音楽の才能がすごいこととか、そのかわりちょっと男としてダメダメなとことか、甲斐性なんて全然ないとか、私が支えてあげなきゃって。っていうか、私ってダメな人に惹かれちゃうタイプだったんですねぇ」
涙がにじんできた。ボクはうつむいて、何も言えなかった。人のことダメダメ言うな! そりゃ確かにそうだけどさ…
「もしかして下着とかも女の子のつけてるの? ねえ、黙ってないで教えてください、先輩?」
脇から声がした。イラついた声だ。
「何やってんの、人の彼氏つかまえて」
紙袋を抱えたリエさんが少し離れたところに立って、こっちをいぶかし気な、というよりは苛立った様子で見ていた。
しまった、後輩の女子に泣かされてるみっともない姿を見られた。
「あんた大学祭の時も来てたよね」
「リエさん、でしたっけ。先輩の今の彼女」
ミウちゃんは、足をぶらぶらさせた。楽しんでるのかな、こんな状況を。ボクはどうしたらいいか、もう全然わかんないのに。
「誰? 高校の時の知り合い?」
「聞いてないんだ。ふうん。言えなかったんですね。先輩らしい。ふふ」
「ずいぶん知ったふうな口きくね」
「あなたもダメな男に惹かれちゃうタイプ? 私みたいに」
煽りにいちいち反応してられないという風に首を振ると、リエさんはボクに近寄ってきて腕をとり、引っ張った。
「もういいよ、行こう。早く」
「逃げるんですか」
「はあ? 何言ってんの」
「誰とか聞いておきながら、聞かずにもう行っちゃうんだ」
「…じゃあさっさと言いなよ」
「高校の時つきあってた元カノ、かな」
「ああそう。それじゃもう用はないよな」
「いえ、すぐ終わりますから。ただ、一応先輩にも知っておいて欲しいなって」
ミウちゃんは、自分のお腹を両手で愛おしそうになぜて、見下ろした。嫌な予感がする。やめて。
「私、先輩の子ども、産みたかったなって」
「…」
「知らないと思いますけど、私3年になってすぐ、おろしたの。産みたかったなぁ」
そんなの知らない。聞いてない。だって、ミウちゃんが大丈夫だっていう日以外は、ちゃんとつけてたじゃん。なんだよそれ。
「毎日してましたもんね。そりゃできちゃいますよね。あ、でも安心してください。私、先輩のことは、誰にも言いませんでしたから。親や先生にしつこく聞かれたけど。私たちのこと、誰にも言ってなくて良かったですね」
「だって…そんな」
「さすがに高校生じゃ、産ませてもらえませんでした。産みたい、産ませてくれって必死に頼んだんだけど。親はどうしても許してくれなくて。私、先輩との子ども、殺しちゃった。ごめんね」
「あ…」
ボクもリエさんも、何も言えなかった。何て言えばいいんだ?
最後の「ごめんね」は誰に言った言葉なんだろう。あっさりとした口調の裏に、どんな感情が隠れているのか、ボクにはわからない。
「子どもができたって言えば、私を捨てなかった? でも、それはしたくなかったの。それをしたら、自分がみじめになるだけと思ったから。あ、別に恨んでるわけじゃないですよ。ただ、知っておいて欲しかっただけ。私たちふたりの子どもが、いたってこと。この世界を、見せてあげられなかったけど」
にこっと笑った。ボクはもうミウちゃんを見ることができなかった。
ミウちゃんが歩いて行ってしまった後も、ボクは動けなかった。
何でその時に言ってくれなかったの。言ってくれれば…って聞いてボクはどうしたんだ? ミウちゃんのもとに戻った? 産んでくれって言った? 言うはずない。堕ろせって言った? どうしろっていうんだ。こんなの、ずるい。
覚えたての高校生にとって、セックスが子どもをつくる行為という認識なんてない。頭では知ってる。でも、子どもをつくろうとしてセックスする高校生なんていない。特に男の子は。
というか、わざと妊娠しようとして、安全日だって嘘ついたんじゃないの。そう言われてみれば、え、今日も大丈夫なの? とか何度も思った。でも、ゴムなんてつけたくないから、知らないふりして平気でそのまま中で出してた。ボクはほんとはわかってたはずだ。見ないふりしてただけだ。だって、しょうがない、エッチを知ったばっかりで、気持ちよくて、楽しくて、ほぼ毎日してた。ミウちゃんは嫌だったのかな。いや、そんなわけない。喜んでくれてたじゃないか。あれも演技だったの? ボクが喜んでるからって?
ずるいずるい! そんなの、どうしようもないじゃん、ミウちゃん卑怯すぎる!
うん、分かってる。ボクが最低な奴だってことは。みんなから石を投げられて罵声をかけられても仕方ないくらい、クズだって思う。でも、思わずにはいられない。こんなの、抗えるわけないじゃん。
それに! 何でリエさんの前で言うの? わざわざ? 単なる復讐、嫌がらせじゃん!
ボクはリエさんの方を振り返った。うつむいてて、前髪に隠れた表情は見えなかった。
どうしよう、リエさんにかける言葉も、何も見つからない。なに言っても言い訳にしか聞こえないだろうことはわかる。どうしようもなかったなんて、理解してもらえる気がしない。だってリエさんは、子どもができないようにいつもすごく気をつけてたし。でも、ボクはリエさんに、ボクの味方でいて欲しい。どんな時でも。
ここで間違えたら、ボクはリエさんを失っちゃう。そんなのいやだ!
ボクは思わずリエさんのほうに手を伸ばした。
リエさんはさっと後ろに一歩退いた。触りたくないものを無意識に避けるみたいに。
え、何で? 何でそんな反応するの?
「…ごめん、今は無理…」
ちょっと逡巡したあと、リエさんはくるっと向こうを向くと、走り去った。去ってしまった。
ボクはひとり、取り残される。呆然として、立ち尽くしたまま。
しばらくしてからボクは、色々大事なものの多くが、たった今失われてしまったことにようやく気づいた。ボクにとってはもう半分忘れかけた霧の向こう側から、突然現れたミウちゃんによって。それは何十万年もかけて築かれたものが、一瞬で崩れて消えてしまう土砂崩れみたいに、唐突で急だ。
わた雲が風に吹かれて、千切れてばらばらになっていくのを、ボクはただぼーっと眺めてた。