リエさんとの連絡がとれなくなった。
全部拒否されてる。
シンジから、リエさんがバンドをやめると電話があったことを教えてくれた。
連絡に使ってたアプリのグループからは、とっくに抜けてた。
「なんかあったの?」
「…ん」
「そっか…とにかく、これからどうするか。なんとか戻ってきてもらえそうかな」
「わかんない…」
「だめそうか。だとしたら、新しいドラムを探さなくちゃなんないなぁ」
シンジは、努めて冷静に話そうとしてくれてる。それがわかるから、なおのこと、ボクはつらい。
「斎藤さんみたいなドラム、なかなかいないもんなぁ…ま、でも、メンバーが変わるなんてよくあることだし。とにかく、御園さんにはこっちから連絡しとくよ」
「お願い」
シンジは、次の練習についての話題は出さなかった。ボクもまだ無理そうだと察してくれたんだろう。
大学にもバイトにも行く気にもならず、ベッドの上で横になってた。
昨日までは、ここにリエさんがいたのに。なんで。
まだ、リエさんの汗の匂いが残ってる。もうリエさんの身体に触れることも、胸のなかに顔を埋めることも、リエさんとひとつになることもできないんだろうか。
とんでもない喪失感と後悔に、胸が焼け焦がれるみたい。リエさん、リエさん、会いたいよ。ボクはどうしたらいいの?
もう一度、会って話さないとだめだ。このまま黙って諦めたら、絶対に後悔する。
夕方、ボクはふらふらと外に出て、リエさんの家に向かってた。電車のなかは混んでたから、ずっとドアの脇にもたれかかるように立ってた。ドアが開くと、乗り降りする人たちが、邪魔そうにボクをちらと見ていく。
途中2回乗り換えなければならない。
下北沢は若い男女でいっぱいだ。それを見るのがつらい。対バンでライブをやったライブハウス「Masa-ko」の地下への階段が見える。あの時は、知り合いの男と親し気に話すリエさんに嫉妬したっけ。もしかしたらエッチなこともしたのかな。想像が膨らむのを、止めることができない。リエさんの煽情的な白い身体が、他の男にいいようにされてるのを想像した。狂いそう。助けて。苦しい。
リエさんの住む白い建物が見えてきた。そこの2階の角が、リエさんの家。何度か来たことがある。辺りはもう闇に包まれ始めてたけど、窓も暗い。まだ帰って来てないのかな。
建物の入口の前で、リエさんを待った。ストーカー呼ばわりされそう。っていうかそのままか。
多分2時間くらい待った。ひとりの人影。リエさんだ!
「リエさん!」
ボクは玄関に入ろうとするリエさんに駆け寄った。
驚いたような、でも予想はしてたような顔だった。すぐに、無表情の仮面が貼り付いた。そんな表情のリエさんは初めて見る。見たくないよ。いやだよ。
「ごめん、今は話したくないんだ」
「今はって、待てばいいんですか? どのくらい待てば、また話してもらえるんですか? ねえ」
「…」
「ねえリエさん! なんでそんなに急に?」
リエさんは、思わず大声をあげたボクの腕をぐっと掴んで、玄関の前から道のわきの暗がりに引っ張った。
「悪かった、今は、じゃない。はっきり言うと、もう会いたくないんだ」
「何で…あんなに…」
「女にとって、子どもができるってことの意味、分かるか?」
「…」
「分かるわけないよな、そんな恰好してたって、男だもんな。責めてるわけじゃない、当然だって言ってるんだ」
「…」
「あのきみの元カノのこと、分かるんだ、痛いほど分かっちゃうんだよ」
ちょっとためらった後のリエさんは、多分はっきり言わないといけないと決意したんだろう、迷いがなかった。吐き出すように言葉を続けた。
「あたしも、高校生の時妊娠して中絶したことあるんだ。好きだった彼の子をさ。お金とか体がきついのもあるけど、それより、心が死ぬんだよ、大好きな人と自分の子どもを、自分の判断で」
絶句した。お腹を押さえた。
「殺しちゃうんだよ、ここに今までいたはずなのに、この世から消えちゃうんだよ、その姿を見ることもなく。抱きしめてあげることも、話しかけてあげることもできず。生まれたかったに決まってるじゃん?」
リエさんは泣いてた。
「わかるか? この気持ち。分かるわけないよな、男に。簡単に、堕ろせばいいってさ、ふざけんなよ! くそっ!」
ボクの肩を掴んで、声を押し殺して叫ぶ。
リエさんの激情をぶつけられて、ボクはただ、それにじっと耐えているしかない。
押し殺したような泣き声をリエさんは必死に抑えていた。
しばらくして、リエさんは言った
「…だからごめん、きみとはもう会えない。会いたくない。きみのせいじゃない、でも偽れない。今までありがとうな」
リエさんはボクを離して、振り切るように玄関に入っていった。ボクはそのまましばらくは動けなかった。
ふらふらと駅に向かう。
え、やだ、こんな終わり方いやだ、なんで? なんで?
ここまできて、ボクは自分のことばっかりだ。ははは。何かもう、よくわかんないや。いろんな原色の感情の絵の具が、とにかくもうぐちゃぐちゃに混ざり合って、ボクの心を塗り潰していくみたいだ。
対応を間違えるどころじゃなくって、ミウちゃんの話を聞いた時点で、全部終わってたんだ。なんだ、そうだったのか。
何かに縋りつきたいのに、なんにもない。溺れると藁でも掴もうとするって、表現うますぎるでしょ。あははは。ほんとにその通りじゃん?
「ねえ、キミ大丈夫?」
明るい商店街で、軽そうな男の子が声をかけてきた。あんまり軽そうなので、ふわふわ空に飛んでいきそう。
「死にそうな顔してるよ? どうしたの? もし良かったらさ」
「ボク男だけど」
「え?」
「それでも良ければ、ホテルでもなんでも行ってあげるけど?」
「いや、まじで? 男? え?」
「信じらんないならさ、触って確かめてみる?」
「あの、えと、なんかごめん」
そそくさと逃げてった。なんだよ、慰めてくれんじゃないのかよ。慰めてよ。何でもしてあげるからさ。気持ちよくしてあげられる自信あるよ?
ボクはほんとについて行っちゃってもよかったのに。今まであったものがすっかりなくなってしまい、がらんと大きな穴が開いてしまった胸のうちを埋めてくれるのでさえあれば、なんでもよかった。その辺の軽い男の子なんて、一番手っ取り早くて後腐れないし、適任でしょ? あとで話のタネにでもしてくれていいよ、街で拾った傷心のかわいい男の娘をやっちゃいましたなんて、自慢話にもなりゃしないよね。笑い話くらいにはなるかな? あははは。
ぽろぽろ涙が零れた。止まらない。こんなに人でいっぱいなのに、恥ずかしい。
ぼうっとにじんだ街の中、ボクは歩いた。永遠につかないんじゃないかってくらい、駅は遠かった。
次の日の午前、授業を休もうかどうしようか迷った。午後になったら行こう。そして明日のバイトは行かないと。
何とかしないと。このままじゃだめだ。
ベッドにいると、リエさんのことを思い出してしまう。ボクはリエさんのことを思い出しながら、何度も自分で自分をなぐさめた。でも、そんなのなぐさめになんかなるわけない。ただ、時間を忘れるだけだ。そのかわりに、終わったらみじめな気分になるけど。あはは。
「どうした、具合でも悪い?」
午後の最後の授業が終わったあと、ユウキが声をかけてくれた。
やっぱりひどい顔をしてるのかな、ボク。授業はまるで頭に入らなかった。すべての言葉が、頭の上を素通りしていった。リエさんのことばかり思い出す。だめだ、他のことなんて考えられない。無理。
「ん、大丈夫」
「って、どう見ても大丈夫じゃない感じだけど。ふられた?」
「…」
「あ、ごめん…」
思わず正鵠を射てしまったことに、ユウキはばつの悪そうな顔をする。ううん、ユウキが責任を感じることなんてないよ。全部自分の身からでた錆ってやつだ。自分がやらかしたこと。だから他人を責められない、すべてボクのせいだ。
「今日、飲みにでも行くか!」
「いいの?」
「こういう時はな、とにかく何かして忘れるしかないでしょ! バイト代入ったし、おごるぞ」
「いや、それはいいから。でも、ありがと」
多分ボクのほうがお金は全然持ってる。ユウキにおごらせるわけにはいかない。
ボクらは、街(ボクのもよりの駅の隣)に出て、適当にお店に入った。あ、ここバンドのみんなと一度来たことあるお店だ。もうそういうこともないのか…。
最初はクラスのこととか、授業の話をしてた。
でも気づくと、酔っぱらってバンドの話、それからリエさんの話をしてた。ふられたこと、彼女がバンドも辞めてしまったこと、これからどうするかも分からないこと。
でも、ミウちゃんのことや、妊娠の話はしなかった。
酔っぱらってるくせに、そういうところはちゃんと伏せるんだな。すごいな。
「殺してしまった」という、ミウちゃんやリエさんの声と、対照的だったその時のふたりの表情が、ボクの胸奥深くに刺さったままだ。多分もう一生抜けることはないんだろう。ボクにはきっとふたりの気持ちが本当には理解できない。
人間がねこの気持ちを理解できないのと一緒だ。ねこも人間の気持ちは理解できない。
別に種とか男女の違いだけじゃない。同じ男同士だって、女同士だって、他人を理解することなんて、絶対できないんだ。
どうしたら、ミウちゃんやリエさんに共感することができるんだろうか。同じ体験を共有してないのに、共感なんてできるんだろうか。
多分ボクにはできない。だから、一生ふたりに責められ続けることになる。
ふたりも、ボクに共感なんて多分できない。ボクと同じ経験なんて想像もつかないだろうから。
お互い、ずっと傷つけあっていくことしかできない。だから、愛しあうこともできるんだろう。傷つけ、苦しめることだって、愛のうちなんだから。
似たような経験ができる女の人なら、ふたりにある程度は共感できるかもしれない。でもボクは? ボクに共感できる人なんて、どれだけいるんだ?
男の娘カフェの子たちもみんな違う。共感しやすい、しにくいという差はあるだろうけれど、本当にボクに共感してくれる人なんて、この世にいるの?
まあつきつめれば、それは誰にもいえることなんだろうけどね。
何だかひどく酔っぱらってきた。
リエさんとだったら、この後身体で愛しあえたのになぁ。相手の存在を、直に触れて感じることもできたのになぁ。さみしい。さみしいよ。
「おい、大丈夫か?」
「ごめん、ちょっと酔っぱらったかも。あははは」
「まあしょうがないけどな。ふられるなんて誰でも経験するし、忘れるしかないよ。今日くらいはつきあうよ」
「ちょっときついね…」
「そりゃきついだろ。わかるよ。死にたくなるよなあ」
「でも、もう出ようか、ちょっと酔いすぎたかも」
「ああ、そうだな」
外に出た。星がちょっとだけ見える。冬みたいに空気が澄んでないから、きれいに見えない。だから、春の星座は冬に較べてとても地味だ。
でも、なんだか寒かった。足元がおぼつかない。ふらふらする。
「おい、大丈夫か」
ユウキがふらつくボクを支えてくれた。ユウキの掌がボクの肩に触れる。びくっとした。
昨日のナンパしてきたやつに比べて、なんてユウキはイケメンなんだろ。ねえ、ユウキ、今まで気づかなかったよ。ユウキ、超かっこいいじゃん?
「あ、お金」
「いいから。今サイフ出すなよ。落とすから」
「ごめん、明日、払うから。実は結構お金持ってるんだ、えへへ」
「ああそう。いいからほら、駅まで行くぞ」
「バイトがさ、結構お金いいんだ、楽しいんだ、何かは秘密だけど!」
「わかったわかった」
裏道を、ユウキに支えられながら、駅まで歩く。ちょっとの距離だ。一駅でもよりの駅に着き、家に帰れる。そしてひとりでさびしく過ごすんだ。誰もボクの隣にいない。寒い。
ホテルの前を通った。
ボクは足を止め、できるだけ甘えた声を出した。
「ねえ、ちょっと休んでいきたい…な?」
「…」
「ねえダメ? ボクじゃいや?」
ユウキは、手を離して、ボクをじっと見た。諭すように言った。
「あのな、おれはそういう趣味はないんだ。だから、ごめん。いくらおまえがかわいい女の子みたいな見かけでも、そういうことはできない。吉田が男だって知ってるし、友だちだしな。そういうことをしたくないんだ」
「…」
「頼むからさ、友だちのままでいさせてくれよ。そんな様子の吉田を見たくない。だから、もう帰ろう? ふられたショックでちょっと混乱しただけだよな?」
「…ごめん」
ボクは何をやってるんだ。今、ユウキに何を言った?
一瞬で酔いがさめた。
いくら酔っぱらったからって、人肌が恋しかったからって、友人を一時のなぐさめのために、利用しようとしたってことじゃないか、今のは。
あり得ない。信じられない。最悪だ。
自分の性的志向がちょっとおかしいのは分かってる。だからバンドや学校のクラスでは、そういう面を見せたり、話題になったりする場面は注意して避けてきた。見かけがこんなだからこそ、隠してきたのに。
うつむいて歩き出した。
駅で、ユウキは普通にボクを送り出してくれた、同性の友人として。
内心ではどう思われたんだろう。気持ち悪いやつって思われたに決まってる! いつもそういうことやってるんだってバレたってことだよね。友人のふりして、実はずっと身体を狙ってたみたいに思われたかもしれない。なんて薄汚い。
死んで消え去りたいと思った。あいつは気持ち悪いやつだったとずっと思われるだろうけど、それでいい。死ねば、ボクはすべてを忘れられる。何も感じずにすむ。こんなみじめな思いをしなくてすむじゃない。
でも、ボクはきちんと部屋に戻った。死ぬのは怖いから。痛そうだから。へたれだから。
夢を見ずに眠っている間だけは心は安らかだった。ずっと眠ってたいなぁ。