次の日、大学には行かなかった。午後になってから、がんばってバイトには行った。
どうしても沈みがちになる自分を隠して、なんとか元気にふるまおうとした。
考えてみると、本心を隠すのってボクは得意なはずじゃないか。本心を自分の奥底に押し込んで、上辺だけ作って演じる。
ただ、それを完璧にやるには、押し込む感情が大きすぎた。とても押し込み切れるようなものじゃなかった。でも、がんばんなきゃ。
みんな何にも言わなかったけれど、多分気をつかってくれてたと思う。ちょっとした時に、ひと言声をかけてくれる。みんな優しいなあ。優しすぎるよ。そんな風にされると、演じるのが難しくなっちゃうじゃん。
休憩の時間、ひとりでトイレに入った時、我慢しきれず涙がこぼれてきた。声をひそめてひとりで泣いちゃった。これじゃ外から見たらやばい情緒不安定の人みたいだ。がんばらなきゃ、何とかしてがんばらないとだめだよ、自分。気を取り直して、ちゃんとお仕事しなきゃ。
夜になって、リョウが出勤してきた。
そうだ、リョウがいた!
リョウはごきげんみたいだった。いつもよりはしゃいで見えた。
最後のお客さんを見送って、みんなでお店のお掃除。手早く済ませて、帰りの支度をする。
着換えてみんなで外に出た。それぞれ戻るべき場所に思い思いに帰っていく。ボクはリョウと一緒にふたりで駅に向かった。腕に軽く触れた。
「ねえリョウ、今日、この後時間ある?」
「あ、カオル、ごめんね、今日はだーめ!」
「あ、そうなんだ…」
「あのね、ここだけの話なんだけどさ、彼氏ができたんだ!」
「うん?」
「ずっと前から憧れてた人なんだけどさ、つきあうことになっちゃってさー、もう信じらんないよ!」
「よかったね」
「うんありがと! 今晩もさ、会うんだ。カツミさん、あ、彼のことだけど、高校の時の先輩でね、まあ当然自分の思いなんてずっと押し殺してたんだけどさー、先日偶然街で見かけて勇気出して声かけたら、ぼくのこと覚えててくれて、恰好見て驚いて。一緒に食事することになって、そのあとさ…ふふ」
ああ、リョウは自分の思いを遂げたんだね。これから、その人とエッチなこともしちゃうんだ。そりゃそうだよね、そういう人がいたら、もうその人しか見えなくなるよね。他の些細なことなんて、どうでもよくなっちゃうよね。
「まさか先輩がそういう人だったなんて、思うわけないじゃん? もう天にも昇る気持ちっていうか…うれしくって。だから、ごめんね、もうカオルとは、そういうことできないかも…」
「うん、そうだよね、リョウの気持ち、よくわかるよ」
「ほんとごめんね、ありがと」
あははは、あっさりふられちゃった。そうだよね、わかってた。リョウにとって、ボクとのことは暇つぶしの関係だもんね。ボクだって、リョウに恋してたわけじゃない、エッチだけの関係だったもん。
駅で別れた。リョウはこれから逆方向の新宿に行くんだってさ。彼氏とのデート。
ボクはひとりでさみしく帰宅。電車の中で思った。
でもさ、なんでこのタイミングなの?
なんで誰もかれも、みんなボクからこのタイミングで離れてくの?
やっぱり、バチがあたったのかな。悪いことばっかしてたもんね。ボクは楽しく過ごしてただけのつもりだったけど、やっぱり悪いことだったのかな。だからバチがあたったのかな。
ボクはひとりで誰もいない部屋に帰るのに、リョウは、ボクの身体でさんざん遊んだリョウは、自分の恋人とふたりで楽しく過ごすんだ。そうなんだ。でも、すぐふられちゃうんじゃないかな? どうせ、遊ばれてるだけだよ。ふられちゃえばいいんだ、リョウなんて!
嫉妬で、心が燃え尽きそう。自分の服をぎゅっと握る。力を込め過ぎて、腕がぶるぶる震えてくる。くやしいくやしい、ボクはこんな目にあってるのに、リョウはあんなに楽しそうに!
自分の心が醜く歪むのがわかる。でも、それを抑えることができない。こんなふうに思っちゃいけないって分かってる。自分だって、リョウのことは単なるセフレとしか思ってなかった。今までリエさんとつきあいながら、リョウともさんざん遊んできた。自分がひどいのはわかってる。恋人ができたら、ちゃんと恋人一筋のリョウよりよっぽど質が悪い。でも、どうしても感情を抑えきれない。
助けて。誰か。こんな自分やだよ。
ボクは部屋から出られなくなった。もうどこにも行けない。行く場所がないよ。すべてなくしちゃった。がらがらと音をたてて、ボクの儚い世界は一気に崩れてしまった。その瓦礫のなかで、ボクはひとりで呆然として、しゃがみ込んでる。
かわいいねこ柄パジャマのまま、パソコンでネット内をさまよった。特に見たいもの、知りたいものがあるわけじゃない。時間つぶし。
ぼーっとして、Live2Dの女の子が音声変換された声で、どうでもいいことをたどたどしく喋ってるのを聞いた。コメントがひっきりなしに流れてく。Vtuberの「七色(なないろ)ヒカリ」って名前は聞いたことある。ちょっと前、話題になってた。実は七色ヒカリの中の人はAIなんじゃないかって噂。特に人気があるってわけじゃない、その他諸々の中のひとり。もちろん収益化なんてできてない。どうせ、話題づくりの自作自演に決まってる。
正直、今のボクにとってはどうでもいいことだ。
午後、玄関のチャイムが鳴った。
ん? なんだろ。何にも買ったりしてないし、部屋に来るような人ももう誰もいないと思うんだけどな。
面倒くさくてそのうち止まるだろうと思って放置してたら、段々すごい勢いで連打し始めた。わかった、わかったからうるさいってば! ボクは仕方なく立ち上がって、玄関のドアを開けた。いらついた顔の御園さんが、立ってた。ビニール袋をぶら下げてる。
「早く開けてくれます? 居留守とかむかつくんですけど」
「…なんか用なの?」
「なんか用、じゃないでしょ、入れてくれるの、くれないの?」
やっぱりボクは御園さん、苦手。仕方なく、ボクはドアを開けたまま、身を引いた。躊躇なく、御園さんは中に入ってきた。
「中、ひどいよ」
「そんなことだろうってわかってます、別にいいです」
「住所、シンジに聞いたの」
「そうです。他にいないし」
そこまで散らかってるわけじゃないけど、いろんなものがあちこちに出しっぱなしになってる。
こんな状況の部屋に女の子入れたくないんだけどな。というか、ボクはパジャマ姿じゃないか。これいいの? ま、いっか、どうでも。
御園さんは別に気にする様子はない。ボクは出しっぱなしになったものをざーっと足で適当に部屋の隅に追いやった。畳の床に置いたちゃぶ台を前に、ボクの横に座る御園さん。狭くてごめんね。御園さんが不愛想に言う。
「コップ」
「?」
「飲むもの買ってきました。どうせ何にもないでしょ。コップ、2つはあるでしょ。わたしに使われるのは嫌?」
「そんなことない」
憮然として、ボクはコップを2つ用意した。
御園さんは、自分で買ってきた1リットルのコーヒーをコップに注ぐ。つまり、ちょっと時間とりますよってことね。まあ仕方ないか…
ぐっとひと飲みすると、御園さんは前置きなしで言った。
「で、どうするんですか、バンド。このまま、やめちゃうんですか?」
「でも、リエさんが」
「ドラムなんて、新しくメンバー入れればすむでしょ」
「それはそうだけど。なんか冷たくない?」
「あなた自身はどうなんですか。もうやりたくない?」
「今はまだちょっと」
「ってことは、またやる気も出るかもしれないってこと?」
「わかんない」
「あー、もう! ほんと、はっきりしない人!」
御園さんは何ともいえない口調で嘆息する。
「吉田くん見てると、ほんといらいらする」
「ごめん」
「しょうがないです。そういう人ってもう分かってますから。いらいらっていっても、嫌いってわけじゃない」
一息入れた。ふふ、ボクってほんとダメダメだね。みんなにそう言われるじゃん。ミウちゃんにも言われたし、きっとリエさんもそう思ってたかも。
「あのね、本心を言いますね。わたし、あなたの曲が好き。ウケは悪いかもしれないけど、わたしは大好きなんです、あなたの曲が。なんか危うくて、儚くて、きれいで、実験的で、あっちこっちうろうろして、目を離したらすぐどこかに消えちゃいそうで」
それって曲の感想なの? なんか訳わかんないんですけど。
「だから、もっとあなたの曲が聴きたい。演奏したい」
「そう言ってくれるのはうれしいけどさ、絶対御園さんの曲のほうがいいよ」
「わたしの曲なんてお話しにならない。誰でも作れるような、どこにでも転がってそうなのばっかり。自分で作っててほんとに嫌になる。でもあなたの曲は」
息を継いだ。
「もうあなたにしか作れない、あなた自身、そのまま。世界でたったひとつの音。すっごい嫉妬してたの、知らなかった?」
「…知らないよ、そんなの」
「だから、バンド続けて欲しいってこと」
「ボクの曲なんて、全然だめだよ。あんなの誰にも聴いてもらえない」
「わたしが聴きます」
「バンドのメンバーだけが聴きたい曲なんて、意味ないじゃん、ばかじゃないの」
「そんなことない」
「そんなことあるよ」
「ない!」
御園さんが、ぐいっとボクに近寄って叫んだ。いい匂いがする。
「あなたにとって、音楽ってふられたくらいでやめる程度のものだったんですか」
「誰もボクの音楽なんて聴きたくないんだ、もういいよ」
「自分の曲に誇りとかないんですか」
「そんなもんないよ、あるわけないじゃん」
「なんでそんなに自分に自信ないの、信じらんない。くやしい」
「バンドもさ、いい機会だよ、もういいんじゃないかな」
「ふざけないで!」
興奮した御園さんが、ボクの肩を掴む。
「わたしはドラムが変わった程度でやめたくない!」
「程度ってなんだよ! ボクにとってのリエさんと御園さんにとってのリエさんじゃ、全然違うんだよ!」
「そんなの知らない! 知りたくない!」
ボクの顔にぐっと自分の顔を寄せ、睨んで叫ぶ御園さん。下を向くと、胸の谷間がちらっと見えた。頭に血がのぼって、眩暈がする。御園さんの匂いで、くらくらした。
「じゃあさ、御園さんがリエさんのかわりになってくれるっていうの?!」
ボクは御園さんを押し倒した。突然押し寄せてきた大きな感情が、ずっと蓄積されてきた鬱屈が、一気にすべて性欲に変換された。理性がふっとんだ。
荒い息をするボク。ボクの下で両腕を押さえつけられて倒れてる御園さんが、押し殺したような声で言った。
「かわりになったら、続けてくれるんですか」
ボクは答えず、御園さんの口を、自分の口でふさいだ。
御園さんは身じろぎして、ちょっと抵抗した。ぎゅっと閉ざされた唇が、体の力が抜けぐったりすると同時に、力なく半開きになった。ボクはその口を構わず吸った。ボクを受け入れてくれた?
ボクは御園さんの唇を奪いつつ、体を密着させる。ボクの体の下で、御園さんの思ったよりもふっくらした胸が激しく上下してるのを感じる。顔を離して、御園さんの整った顔を間近から見下ろした。御園さんの荒い息づかいを顔に感じる。ボクを見つめ返す御園さんの目は、鋭くボクを睨んでる。その奥に隠れた感情がなんなのか、わからない。さらにボクは性欲の激流に押し流された。御園さんの身体が欲しい!
「…やめてください」
「…」
ボクは黙って、御園さんの手を離した。逃げずに、両腕で自分の顔を隠す御園さん。目が隠れ、はぁはぁいう口だけが見えた。ボクは、左手で御園さんのふかふかの胸を揉みつつ、震える右手で、シャツのボタンを外していった。御園さんの手がボクの右手首をつかむ。
「やめて。こんなの嫌」
ボクは手首をつかまれたまま、黙って力まかせに御園さんのシャツをばっと左右に開くと、ブラを無理やり上にずらした。上下する淡い桜色の胸は思ったよりも豊かだ。頭のなかが、情欲でくらくらする。ピンクのちっちゃな乳首にキスした。御園さんは手を離し、身体の力を抜いた。スカートの中に手を入れ、内股に指を走らせた。
「御園さん、好きだよ」
いきなり、御園さんは激しく暴れ出して、手足をじたばたさせた。腕をつかみ、のしかかってなんとか押さえつけようとするボクのお腹に御園さんの蹴りが入り、ボクは後ろに吹っ飛んで、尻もちをついた。一瞬息ができない。
御園さんは這ってボクに近づいてくると、ボクの頬を思いっきりひっぱたいた。
ぱん! と大きな音。
その瞬間、ボクはその音に驚いて、自分の頬を手で押さえた。全然痛みは感じなかった。え? ボクは今何をしてるんだ?
じわじわと頬の痛みが脳に届いてきて、ボクは呆然として、目の前の胸を露わにしたままの御園さんの顔を見た。涙ぐんで、くやしそうに顔をゆがめてる。暴走した性欲はすっかり消え去ってしまっていた。
「最低! うそつきっ! 死ねっ!」
もう一度、御園さんはボクの頬を平手打ちした。ボクはそのままの勢いで横に倒れる。打たれた頬はそんなに痛くはなかったけれど、心はずきずきと痛かった。自分がたった今したことがまだ納得できなくて、ボクはそのまま体を硬直させる。
なにやってんの、ボクは。御園さんに乱暴しようとした? そんな。
部屋の中の時間が止まった。激しい息づかいだけが響き、小さくなり、やがて聞こえなくなる。
かさかさと、服を整える御園さんの気配がする。その音を聞いていたら、自分がしでかしたことに、ようやく理性が追いついてきた。
小さいけれど、激情を必死に押さえつけるような声。
「わたしは、リエさんのかわりなんかなれない、なりたくない」
「…」
「勝手に落ち込んでてよ。あなたなんてもう知らない」
御園さんが立ち上がる。冷静さをとりもどしていた。
「今回のことは忘れてあげます、あなたの曲に免じて。でもこの先、もう二度とわたしに触れないで。声をかけないで。見ないで。もしそうしてきたら、みんなに、あなたに乱暴されそうになったって打ち明けますから。学校にも」
御園さんの歩く気配。ドアを開ける音とともに、小さな声が聞こえた。多分、ボクが聞く御園さんの最後の声なんだろう。これで、バンドは完全に終わってしまった。ボクが壊してしまった。今までみんなで一緒に積み上げてきたものは、跡形もなく全部崩れ去ってしまった。
「さようなら」
足元が濡れてた。
顔を上げると、テーブルの上の転がった2つのコップ。中身は全部こぼれちゃった。
ボクは着換えると、全部そのままの状態で、スマホだけ握りしめ、外に出た。
どこで死のうかなって思った。
まだ日は高い。
こんなことをしてしまった以上、ボクはもう生きてく資格なんてないんじゃないかな。よりにもよって、御園さんに無理やり乱暴しようとしたなんて。
空を見上げる。
大気は水っ気がたっぷりという感じで、何となくぼやけてる。ずっとずっと高いところに、すーっと筋を引いたように見える雲。
どこかわからないけれど、とにかく歩き回った。
気づくと、多摩川沿いの歩道を歩いてた。
女の子がふたり走ってる。さっさと軽快に走る子を、はぁはぁいいながら、死にそうになって追いかけてる子とすれ違う。
みんながんばって生きてるんだな。
ボクはもうがんばれないかも。がんばっちゃいけないのかも。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。ついこの間までは、うまくいってたと思うのに。
ううん、それもこれも、自分のせい。自分がしてきたことのせい。バチがあたったんだ、やっぱり。御園さんは正しかった。嫌になるくらい、正しいんだな。ボクはいつも間違ってばかりだ。
疲れて、川沿いの草付きの土手にへたりこんだ。
御園さんと一緒にスイーツを食べた時のことを、くすっと笑った御園さんの、初めて見たかわいらしい笑顔のことを思い出した。さっきの、両腕で顔を隠す御園さんが重なる。心が強烈な後悔と罪悪感と嫌悪感で灼けるように痛い。
どうしよう。どうすればいい? どうしようもない。
涙も出ない。そんな資格はないよね、ボクに。泣いて楽になろうなんて、そんなのボクには許されない。
もう、何もかも忘れたい。
全部忘れて、なかったことにしたい。
なんとはなしにスマホを眺め、意味なく画面を切り替える。
目に飛び込んできた、竜野さんの番号。
かけてみようかな。
ちょっと躊躇ってから、かけてみる。
「…」
「カオルくん、かけてきてくれたんだ、うれしいよ」
「あの…これから会えませんか」
「今どこなんだい?」
「あ、わかりません…多摩川のどこか…」
「ぼくは今、新宿にいるよ」
「これから行きます。時間、ちょっとかかるかもしれません。いいですか?」
「いいよ、待ってる。時間がわかったら、また電話してくれると助かる。その時、待ち合わせ場所を決めよう」
「はい」
ボクはマップを起動して、家に戻った。
結局、ボクは死ぬ度胸もないんだな。口ばっか。誰かに寄り掛かってないと、まともに生きることもできない。生きてれば生きてるで、他人(ひと)を傷つけることしかできない。
きっと誰もが、ボクにとっとと死ねって言うだろう。ネットのSNSや匿名掲示板とかだったら、もう目も当てられないような罵詈雑言の嵐で大荒れだろう。誰ひとりとして、ボクの味方なんていない。世界中のすべての人が、ボクを敵視する。うん、当然だ。ボク自身が、自分を許せないんだから。あははは。
だから死んでやらない。がんばってがんばって生きてやる。
夕方、新宿駅の改札を出ると、多くの人がせわしなく行きかい、素早過ぎて霞んでよく見えない中、柱に寄り掛かった大柄な竜野さんだけがはっきりと目に飛び込んできた。
ボクは人波を掻き分けて、必死に泳いだ。自分がつかむべき藁を目指して。