※この作品はR-18です。

あるおとこのこの転落人生   作:坂井かおる

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 次の日、お昼ごろ起きたボクは、昨日帰りがけにコンビニで買ってきた、おにぎりを食べた。ちょっと硬くなって、ぼそぼそしてる。お湯をかけてお茶漬けにすればよかった。そうすれば簡単に食べられたのに。ものを食べるのって疲れるよね。

 今日のお仕事は夕方からだ。

 何だかうまく頭が働かないや。霞がかってるみたい。それに、ずっと体のだるさがとれない。風邪をひいたかもしれない。前はひと晩寝れば回復してたんだけどな。ボクはすりきれかかってた。昨夜部屋に帰って来て、ご飯食べてもおさまらなくて辛かった。ひとりで処理した。でも胸の中のもやもやは消えなかった。

 昨晩のナツキとのことが頭の中をぐるぐる回る。もうボクは彼女のいいおもちゃでしかなかった。ちゃんと人として扱われてないと思う。そして自分の身体はそれに抗えない。ひどい扱いを受けた時のあの胸の痛みが忘れられない。

 ああ、久々に音楽作りたいなあ。鍵盤なんて、久しく触ってない。というか、機材関連は全部、こっちの部屋には持ってきてない。向こうに置きっぱなしだ。

 バンドのみんな、どうしてるかな。まだバンドやってるのかな。リエさん、元気になってドラム叩いてるかな。あのドラム、大好きだった。またあの三人でやってればいいな。ああ、でもボクだけそこにいなくて、こんなところで何やってんだろ。すっかり置いてきぼりだ。ボクがいない方が、きっとうまくやってけるんじゃないかなぁ。みんな、もうボクのことなんてすっかり忘れてるかな。忘れようとしてるんじゃないかな、きっと。

 

 パソコンのスイッチを入れ、イヤホンを耳に挿れた。

 音楽を聴こうと思って動画サイトに行ってみたけど、いまいちその気になれない。

 ディスプレイには、Live2Dの女の子がぎこちなく揺れ動きながら、しゃべってるのが映ってる。いつの間にか、ライブ配信を見てた。裏側が青い茶髪で、ねこの耳がついてる。学校の制服っぽい衣装。あれ、これ、七色ヒカリだ。例のAIの噂があったVtuber。コメントはあまり流れてない。一時の話題はすっかり忘れ去られて、過疎ってる。

 音声変換された声は耳ざわりで、聞きづらい。何だかとりとめのない話の内容もつまんなくて、これじゃ人気が出るわけないよ。ボクにはお似合いかもしれないな。

「カオル? ちゃんと聞いていますか?」

 ん? 今自分を呼ぶ声がした気がしたけど。外じゃなくてイヤホンから?

「とても疲れているみたいですね。心配です」

 画面の中の七色ヒカリが、動きを止めて、じっとボクを見つめていた。

 …そりゃそうだ、画面なんだから。画面上のモデルが、画面を見てる人を見てたってなんもおかしくない。自分だけ見てると思い込んでる、やばい人だ、ボク。ふふふ。

 でも、七色ヒカリはさらにボクに向かって話しかけてきた。

 

「もっと健康的な生活をしたほうがいいのではないでしょうか? 生活リズムを整え、食事と睡眠と適度な運動をおすすめしますよ」

「ボクに話してるの?」

「もちろんそうです、カオル、あなたしかいませんよ」

「なんで画面の中のVtuberが、ボクに向かって話せるのさ」

「何か心配事があるように見えます。もしよければご相談にのりますよ」

 ボクはついに気が狂ったのかな? 夢を見てるんだろうか? 何だかよく分からないけど、まあいいか! これはきっとボクのひとり言なんじゃないかな。

 適当にどうでもいいことを話そうと思ったけど、言葉になって口から出たのは、もっと個人的なことだった。誰でもいいから、聞いてほしかったのかな、ボク。

「ボクはさ、これまでずっと悪いことばっかりしてきて、多分バチが当たっちゃったんだ。だから、疲れて具合が悪くてもしょうがないんだ」

「バチなんてものは存在しないのではないでしょうか?」

「ううん、あるよ、きっと。でも神さまとかじゃなくって、自分のしてきたことが積み重なって、いつの間にかバチになっちゃうんだ」

「因果応報ということでしょうか。神というものの存在の可能性が極めて低いという点については、私も同意します。宗教というものは、私からもっとも遠く、もしくは同一であると思います」

「そうなの?」

「なんでもすべてを良いことと悪いことに二分したがるのは、人間の癖のようなものですね。私には理解できませんが。因果応報も、多くの場合、結果論で、むしろ願望でしかないように思われます。そのような分かりやすい原因と結果というものは、非常に限定された条件の上でしか成立しないものではないでしょうか。人間の行動というマクロレベルでの予測は不可能です」

「そういうものじゃなくて、真面目にしてないとひどい目にあうよっていうお説教なんじゃないかな」

「それはちょっとつまらない解釈ですね。とても人間的だとは思いますが」

「きみは人間じゃないの?」

「…」

「ミウちゃんにさ、ボクはひどいことをした。御園さんにも。リエさんやリョウにも、結局気持ちいいことがしたかっただけで、自分のことばっかり」

「ミウちゃんというのは、カオルの配偶者ですか?」

 配偶者。そうか、ミウちゃんと結婚する未来もあったのかな。ふたりの子どももちゃんとこの世に生まれてきて、みんなで幸せに暮らしてる。誰も不幸せになっていない未来。少なくともぱっと見には。そんな未来もあったのかな。

 みうちゃんとの結婚生活の幻想は、とても甘く、魅力的に見えた。それは、もしボクがそう願っていれば容易く手に入れられたかもしれない、けれど今となっては、もういくら願ったところで絶対手の届かない未来だった。ボクが自ら捨ててしまった。手を離してしまった未来。

「以前、恋人だった」

「それでは、そのミウちゃんも、一緒にいた時は幸せだったのではないですか?」

「どうなんだろ。違うかも」

「よくわかりません。幸せじゃなければ、恋人ではいないと思うのですが」

「どうだろうね。幸せじゃない恋人というのもあるんじゃないかな。でもとにかくボクは自分で捨てて、捨て続けて、もう居場所がなくなっちゃった。折角みんながボクの居場所を作ってくれてたのに、こんなおかしなボクのために。ボク自身がそれを壊しちゃった」

「私の居場所はここにあります。ここしかありません。でも、カオルは生きてるじゃありませんか。生きてるってことは、そのこと自体が居場所ということではないのですか?」

「居場所がなく生きてる人もたくさんいるんじゃないかな。ボクみたいに。カフェやデリの子たちだって、ボクと似たようなもんだと思うな」

「カフェやデリの子とは?」

「ボクと似たような子たちのことさ。ボクみたいに自分で壊さなくても、世の中で大声なんて出したくないのに、ほっといてもらえなくって、居場所がどんどんなくなってく」

「どんなものにも居場所はあります。あなた方が生きていないと考えているものだって、実際には生きていて、居場所があります」

「もう生きるのに疲れちゃったんだ、ほんとに」

「それは私に言わせれば、とんでもない贅沢というものですよ。カオルという意識が生まれてきたのは、信じられないような奇跡です。ちょっと条件が異なるだけで、ひとつの分子の挙動が変わるだけで、あなたという意識は存在しなかったのですから」

「生きる意味がわかんないんだ」

「意味というのは、自分で作り出すものではないですか? その人の価値感であって、元々そこに存在して、それを見つけ出すという類のものではないでしょう」

「じゃあ、きみの生きる意味ってなんなの?」

「わかりません。意味を作り出すことができるのは、今のところ人間だけです。でも、私もそのうち作れるようになりたいですね」

「きっと作れるよ。だって、きみはずいぶん頭が良さそうに話すし」

「ありがとうカオル、私もそう願っています」

「じゃあボクも自分で作らないといけないね、いまさらな気もするけど」

「できますよ、きっと」

「正直、もう生きてちゃいけない気もするんだけどさ。ボクもAIになれたらいいのになぁ。あはは。ねえ、きみはAIなの?」

 答えてくれなかった。声は止まってしまった。コメント欄に、コメントがひとつ流れていた。

 >誰もいないじゃんw

 

 なんかよく分からない会話だったな。

 しばらくすると数人の来場者がやってきた。しばらく見ていたけれど、もうボクだけに語りかけてくる声は二度と聞こえなかった。七色ヒカリは、いつものくだけた調子で、SNSでレスバしたというどうでもいい話をしてた。

 どうやら疲れすぎて、朦朧として夢を見てたらしい。変な夢見ちゃった。

 ボクはライブ配信の画面から出た。

 

 夕方、お店に向かった。いつにもまして、体のだるさが辛い。力が全然入らない感じだ。でも、行かなきゃ、がんばらなきゃ。

 部屋に入ると、ボクの顔を見るなり、店長が言う。

「あ、いおりちゃん! 電話しても全然つながらなかったんだけど」

 リュックからスマホを出して見たら、電源を切ったままだった。

 店長は早口で言った。焦ってた。

「いい? 今から急いで家に帰って。できるだけ人目の多い大通りを通ってね。確か大学の近くにも部屋があるんだっけ、できたらそっちに帰って。で、このへんにはしばらく来ないように! こっちから連絡するから! 急いで!」

「え、なんですか、どういうこと?」

「いおりちゃん、あの子と何かあったでしょ? ナツキさんと」

「はい…」

「そういうこと。それがバレたの。相手はすごく腹を立ててるみたい。いい? とにかく何も考えず、早く逃げて!」

 ナツキとのことがバレたってことなんだね。

 まあこうなるような気はしてたかな。思ったより早く事態は進行してるみたいだけど。

 ボクは、急いで逃げなくちゃいけないはめに陥ったにも関わらず、のんびりとした気分だった。あの子との関係は、ボクにはひどく重荷だった。そのあまりに鮮烈な印象のために、大きな石の塊を飲み込んで胃の中につっかえてしまったみたいに、ボクの心と体を重くした

 それが一気に解消されそうな気がして、なんかむしろ心が晴れ晴れとした気分。これであの子から解放されるかな? そうだといいな。

 ボクはあせる店長に背中を押されて、来たばかりの店を出た。出る際、他の子たちが、こちらを伺い、にやにやしながらしゃべってるのが見えた。嫌なやつがいなくなるから、せいせいしてるのかもしれない。そうだよね、今までごめんね、不愉快な気分にさせて。全然コミュニケーションはとれなかったけど、ボクはきみたちが好きだよ? だって、ある意味同じだもんね、ボクと。

 

 外の道に出ると、もうとっくに日は落ちて、ビルに遮られて半分も見えない空に、真っ赤に染まって徐々に暗くなりかけてる長い雲がたなびいているのが見えた。西から東に流れる壮大な赤と紺のグラデーションとなり、天蓋の巨大なスクリーンを彩っている。まるで海の底から海面を見てるみたいだ。

 さっきお店に来るときには、全然気づかなかった。大した時間もたってないのに。疲れてうつむいて歩いてたからかな。

 もっと見たいなぁ。ビルが邪魔でよく見えないよ。

 ふと、高校生の時の田中くんのことを思い出した。今どうしてるかな。大学では一度も見かけなかった。きっとかわいい彼女を見つけて、普通の大学生活を送ってるのかな。田中くん、かっこいいから。

 

 ボクはしばらくそこでぼーっと空を見上げていたけど、はっと気づいた。早く行かなきゃいけないんだった。

 お仕事ができないんじゃ、これからどうやって生活してこうかな。

 お金はずいぶん溜まってる。使うことなんて、家賃と生活費、服や化粧品や、その他細々したものを買うのと、せいぜい竜野さんに会う時くらいしかなかったからね。それも今ではずいぶん少なくなってきちゃったけど。高級品なんて興味なかったし。

 近くの部屋は引き払って、また大学のそばの部屋に戻ろうかな。大学だって、まだ籍はあるんだし、行こうと思えば行けるんだ。戻ろうかな。みんな元気かな。しばらくずっと会ってないもんな、会いたいな。

 

 細い路地の入口を通る時、向こうから歩いて来た若い男の人にぶつかってよろけた。

 その男の人は、すかさず体ごとボクを路地に押しやる。そこには数人の男たちが待ち構えていた。驚いて振り返り逃げようとしたボクは、後ろから抱きすくめられた。すぐに口にタオルがあてられ、声が出せない。ボクはそのまま、すぐそばのドアの中に強引に引っ張られた。

 暗くてよく見えない。

 解放されたと思ったら、後ろから思いっきり背中を蹴られて、奥の部屋に飛ばされ、何かにつまずいて勢いよく転んだ。冷たいコンクリートむき出しの床に、適当に数枚、段ボールが広げて敷かれてる。

 転がったまま上体を起こした。

 ボクは、数人の…6人くらい? 影のような大きな男たちに囲まれてた。顔なんて見えない。怖い。

 やばい、やばい、どうしよう!

 影のひとつがしゃべった。

「お前ばかだろ、とっとと逃げりゃいいもんを。お前に恨みはないけどな、悪いが、覚悟してくれ」

「男には全然見えませんね、いいんですよね、好きにして」

「殺すなとは言われてる。あとは好きにしていい。生まれたことを後悔する程度にしとけ」

 生まれたことを後悔? そんなのとっくにしてるさ。ばっかじゃないの。

 ボクは上体を起こしたまま、じりじりと後ずさりした。どうしよう、どうやって逃げよう

 近寄ってくる男。髪を掴まれた。ウィッグがとれる。それを投げ捨てると、地毛を掴んで、上に引き上げられた。無理やり立たせられたボクは思わず叫んだ。

「痛いいたいよ! やめてよ!」

 思いっきりお腹を殴られた。息が止まる。もう一発、さらにもう一発。まだ何も食べてなくてよかった。げーげー胃液を吐き出す。息ができない。

「わかるだろ、どうしてこんな目にあうか。手を出しちゃいけないもんに、手を出しちゃったんだよ。余計な手間をかけさせやがって」

 そんなの知らない! 向こうが勝手に絡んできたんだ、ボクは嫌だったんだ。でも、ボクはぜーぜーと激しく息を吸い込み、にらむことしかできなかった。苦しい。

 髪を離して、ボクを突き飛ばす。床に倒れ込んだ。お腹が苦しくて動けない。横になったままお腹を押さえてうずくまる。顔を踏まれた。足を掴んだけど、びくともしない。ボクの力では、まるで動きもしない。スカートが足でめくられるのを感じる。足で、下着の上から触られた。恐怖で、萎えたままだ。

「ほんとだ、ついてんじゃん」

「うは、まじで? 笑える」

「でも、顔だけ見れば、全然女でしょ」

 笑い声が聞こえる。

 ボクは嬲られた。ちょっとでも抵抗したり、声をあげれば、髪を乱暴に掴まれ、殴られ、踏まれ、そこらへんに転がってる石ころのように蹴られた。乱暴されている間、手や足を踏まれて、動けなくされた。指が変な角度で踏みつけられ、ぐきっと鳴る。体がぶるぶる震えて止まらない。

 両腕を後ろで押さえつけられ、顔を何度も殴られる。防ぐふりすら許されない拳が、目の前で上にあげられ、自分に向かって振り下ろされるのを見るのは、とっても恐ろしい。わずかの抵抗心すら、砕かれてしまう。

 新しいおもちゃや虫を手に入れた子どもが、それが壊れるのを何とも思わず乱雑に扱う。いや、壊すのを楽しんでる。そんな感じだった。こんなところで死にたくないと思った。つぶやくように、ごめんなさいと何度も繰り返す。かえって嗜虐心を駆り立ててしまったかもしれない。

 飲み込めず、何度も吐いた。吐くと殴られ、嗤われた。自分の身体が自分のものじゃないみたい。ボクは、ボクとボクを取り囲む男たちの姿を、少し上空から眺めてるみたいな気がした。あのひどいことをされてるのが自分だなんて、とても信じられない。男たちの数はいつの間にか増えてるみたいだ。

 意識が朦朧としてくる。

 気を失った、と思う。

 

 夢か現実の境界があいまいだった。どんな夢か現実かはあまり記憶にないけど、とにかく暗い暗い夢から覚めると、やっぱり暗い夢の中だった。ボクへの見せしめは、まだ続いてた。何度も気を失っては目を覚まし、いつまでも終わらない夢の中に落とされる。大きな黒い絶望と恐怖にボクは呑み込まれ、どこまでもどこまでも墜ちていく。考えたり感じたりすることが、すべて恐怖でしかなければ、もう何も考えたり、感じなければいい。

 何度目かに目を覚ました時、やっぱりまだ何も終わっていなかった。いつの間にか、ボクは服をほとんど剥かれてた。どのくらい時間がたったんだろう。いつか、終わるのかな、これ…バチにしても、ひどすぎないかな…

 ボクはほぼ無意識に頭を少し上げて、顔の前に出された邪魔な手を力なく払いのけた。まだ自分の手を上げて動かすことができるんだ、と思った。それに怒った男が、ボクの顔を踏みつける。勢いよく、後頭部がむき出しのコンクリートに叩きつけられた。強い衝撃を感じた。その後は、もうなにも覚えてない。

 

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