目を開けてまず見えたのは、白い天井だった。
しばらくぼーっとして天井を眺めてた。
周りで声がした。でも、何を言ってるのか、全然理解できない。
体が動かなかった。
ようやく暗い夢が終わったらしいことだけはわかった。
でも、脳の一番奥には、まだどす黒い絶望と恐怖の残滓がしっかりとこびりついたままだった。
ボクの腕に優しくふれる感触。それは、その恐怖を呼び起こした。じたばたと暴れ、大声で叫ぶ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! もう許して! ごめんなさい!」
でも体は動かず、声は出なかった。ボクの顔を覗き込む顔。何か口を動かして声は聞こえるけれど、何を言っているのか全然分からない。
そのうち、また気を失ってしまった。
ボクは次の日の朝、見つかった。警察に通報があったらしい。通報したのは襲った人たちじゃないだろうか。あのまま放置されてたら、ボクは死んでたと思う。確か、殺すなと言われてるとかしゃべってた。
ほとんど裸で、ぼろぼろだったらしい。右手の指数本と左足首を骨折していて、後頭部からひどく血を流してたそうだ。どのくらいの間、暴行を受けてたかは分からない。やったのが何人かも分からない。形跡から、十数人はいるんじゃないかということだった。
ボクはすぐに近くの病院に担ぎ込まれた。
丸1日ほど、意識がなかったらしい。意識を取り戻したあとも、しばらくは身動きもとれなかった。
外傷はそのうち治るだろう。でも、あれ以来ずっと、頭のなかに、なんか薄い靄がかかったみたいだ。意識を集中できなくなった。集中しようとすると、ひどい頭痛がする。のたうち回りたくなるような頭痛だ。だから、あんまりものを考えられない。あと、忘れっぽくなった。時々、あれ? 自分はどうしてこんなとこにいるんだっけ?って思った。思い出せないことも多いし、昔の記憶も混乱してる。
原因はもちろん頭を強く打ったことだと思うけど、とりあえず経過を見るしかないみたいだ。つまり、ボクは、壊れちゃったんだ。
家族と会うのはとても辛かった。
当然、ボクがもうとっくに大学に行ってないこと、風俗で働いてたことなど、何をしてたかは全部バレた。でもそんなことより、こんなぼろぼろの姿になったことの方がショックだったみたい。ごめんなさい。とんだ親不孝ものだ。本当にごめんなさい。でも、しょうがなかったんだ。いろいろうまくいかなかったけれど、仕方なかったんだ。多分、わかってもらえるとは到底思えないけれど。
自分の銀行口座にお金がたくさんあるから、入院費はそれで賄って欲しいと言ったけど、そうしてくれたかどうかは分からない。多分してないだろうと思う。
警察の人も来た。全部正直に話した。もう嘘つく必要ないし。でも、その後、どうなったかは知らない。それはもう、ボクの興味の範囲外のことだ。もう忘れたい。ただ、2名のチンピラが捕まったという話だけ、聞いた。あとは何も知らない。知りたくない。
外傷がある程度直ったら、両親はボクを別の病院に移してくれた。手足に少し障害が残っているし、頭の問題もあるので、リハビリと継続的な検査が必要だった。
最初の新宿の病院は、窓からの景色も隣のビルの壁しか見えなくてうんざりだったから、うれしかった。
実家から車で数十分のところにある大きな病院に移った。窓からの景色がとてもいいんだ。リハビリと検査の合間に、いつも窓の外を眺めてた。病院の脇をバイパスが走ってて、休みの夕方ともなると、おもちゃみたいな小さな車がいっぱい詰まって、のろのろと思い出したように動いているのを見下ろすのは楽しい。
病院の隣には黒々とした樹々がこんもりと茂って、そういうのに餓えてた自分はうれしかった。古い神社があって、大昔裏切られ首を切られた偉い人の塚があるそうだ。かわいそうに。くやしかったろうなぁ。ここも、偲ぶためでなく、祟りが怖いから抑え込もうとしてるのかな。誰だっけ? 以前なら、すぐ答えられたんだけど。
病院の西側にある休憩室の窓からは、富士山が見える。きれいだ。なんてきれいなんだろう。三浦で見た富士山より、ちょっと近いからか、空気の澄んだ日は斜面の肌理まではっきり見える。
ここは屋上に出れるようになってるので、そこまで行けばガラス越しじゃなく見られるけど、高い網が張り巡らせてあるので、ちょっと見にくいんだ。
時々、ベッドの脇のテーブルの上に、変な紙切れが置いてあるのを見つける。棒や、尾ひれがついた棒が、並んだ意味不明の数字の上に書き込んである。なんだこれ? ボクが書いたもののような気もするけど、覚えがないし、意味もわからない。
気持ち悪いから、ゴミ箱に捨てて、上にお菓子の箱をのせてふたをした。何かの暗号かな? 何なのか、思い出しそうな気もするんだけど。
真っ暗な夢も見る。冷たくて、暗くて、嫌な夢だ。ああまたこの夢かって思う。でもどうしようもない。
逃げようと思っても体はぴくりとも動かず、どんどん深いところに落ちていく。落ち切ってしまったら、二度とここからは出られない。息もできず、指先さえ動かすことができない。ただ、絶望と恐怖に染まりきった心だけは感じられる。恐ろしい。
たったひとつの希望は、どのくらいたったか分からない後に、ようやく小さく見えてくる虹色の光だ。その光だけがボクを救い出してくれる。彼女が誰なのか、ボクは知らない。彼女は無言でボクを手招きして、出口を教えてくれる。もしかしたら神さまかもしれない。
夢から覚めると、汗びっしょりだ。暗い病室の天井を見ながら、身震いする。でも、ここに戻ってこれたんだ、よかった。こんな不愛想な病室でも、あの闇の底に比べたら、天国みたいなものだ。
家族以外は誰も来なかった。こんなところにいるなんて、そりゃ知らないよね。ごく小さなニュースになったらしいから、もしかして聞いた人もいるかもしれないけど。
来られても、困っちゃうかも。どう反応していいのか分からないし。
でも、具合が悪く頭痛がひどくてベッドの上に横になってたある日のこと、病室のドアを叩くノックの音がした。
ドアが開くと、こちらをそっと覗き込む顔が見えた。ミウちゃんだった。
「ミウちゃん!」
「先輩?」
「来てくれたんだ! うれしいなぁ、会いたかったよ」
「そうですか」
「うん!」
ためらいがちにベッドの脇の椅子に座って、笑顔でボクを見下ろしてくれた。
「あれ、今日は制服じゃないんだ?」
「違いますよ、もう高校は卒業しちゃったでしょ」
「ああ、そうだったっけ。そうだ、忘れてた。ごめんね、ちょっと一部分だけ、記憶があいまいになっちゃって」
「すっかりダメになっちゃいましたね、先輩」
「うん、そうなんだ…」
「大丈夫ですよ、もともと先輩はこのくらいのダメさ加減だったんだから。今さら、なんてことないです」
「そうかな」
「そうですよ」
「ねえ、ミウちゃん、鎌倉に行った日のこと、覚えてる?」
「忘れるわけないです」
「いっぱい歩かせちゃったよね」
「北鎌倉から山を越えて、長谷まで歩かされて。ほんと、疲れましたよ」
「うふふ、ミウちゃん、ちょっとむっとしてなかった?」
「そうでしたっけ? でも、ほんと、楽しかったですね」
「うん、楽しかった。また一緒に行きたいなぁ」
「そうですね」
「女の子の恰好してないと、なんだか高校の時の先輩が帰ってきたみたい」
「おしゃれできなくてつまんないんだ。でも、ほらこのペン、かわいいでしょ? もらったんだ」
「なんですかこれ」
「うみうしだよ」
「変なのが好きなんですね」
ふふと笑った。何だかこういう表情のミウちゃん、久々に見る気がする。いつ以来だっけ? 思い出せないや。
「先輩、体の具合はどうですか」
「うん、今はちょっと頭が痛いけど、それ以外は全然!」
「よかった。今わたしに何かできること、ありますか?」
「あのね…こんなこと頼んでいいのかな」
「なんですか?」
「ぎゅーってしてほしいんだ」
「いいですよ。起きられますか?」
ミウちゃんはボクの上体を抱えて起こしてくれた。
ボクはミウちゃんのおっぱいに顔を埋めて抱きついた。ミウちゃんもボクの体に左手を回してくれる。右手で、頭をなぜてくれた。
気持ちがすっかりとろけていくのを感じた。こんなの、ほんとに久々かも。ミウちゃんの匂いと体のあたたかさ、柔らかさに包まれ、ボクはしあわせだった。いいのかな、こんなしあわせで。だめかも。
「今度は私が先輩を産んであげます。そしたらちゃんと守ってあげられますからね」
「うん。ミウちゃん、大好きだよ」
しばらくそのままじっとしていた。
「そろそろいかなきゃ」
「そう…また来てくれる?」
「はい、もちろんですよ。それじゃあまたね」
立ち上がり、ドアに向かうミウちゃん。何か言わなくちゃいけないことがあったような。
「あ、ミウちゃん」
「はい?」
「今日はありがと。それから…えっと。ごめんなさい」
「はい、先輩」
ミウちゃんは病室を出て行った。
ボクはまた横になって、ミウちゃんと話している時はあまり感じなかったのに、またぶり返してきた死にたくなるような頭痛に耐えることにした。
今日はとってもいいお天気。
ちょっと空はぼやけて靄がかってるように見えるけど、やわらかい空気がとても気持ちがよかった。今日は頭も痛くないし、とっても快調だ。
ボクは午前の検査を終えてから、お昼前に屋上に行くことにした。
この時間の屋上は誰もいないことが多いことをボクは知ってた。
エレベータと階段で屋上に出てみると、案の定、誰もいない。
頭の上に、ちょっとぼやけた青空が広がってる。都会の空とは大違いだ。ちいさな白い雲がふわふわと漂ってる。
屋上は柵の上につけられた背の高い網ですっかり囲まれていて、風景がきれいに見えなくてつまらない。でもボクは知ってる。もう調べずみだ。空調の室外機の裏側にちょっと切れ目があって、そこから網の外に出られそうなんだ。網の向こう側からだと、何の邪魔もなく、きれいな風景が見られるんじゃないかな。
ボクは室外機と柵の狭いすき間に体を押し込んで、網の切れ目から外に出た。脱獄してる気分で、どきどきする。
柵につかまってそろそろ歩き、西側に出た。足元はすぐ屋上の端、のぞき込むと、数十メートル下に植え込みと樹々が小さく見える。左手で柵の鉄棒を掴んで、眺めに見入った。
低い足柄の山の上に、びっくりするくらい大きな富士山がぼんやりと薄青く、空に半分溶けかかってる。その右側には、富士山から続く山並みが次第に高くなり、やがて三角形のきれいな大山に繋がる。むしろ富士山より目立ってる。その後ろには大山より高い山が控えてるのに、端正で緩やかな三角形は、存在感が段違いだ。信仰の山なだけある。
富士山の左には金時山から箱根の山々、さらに低くずっと続いた先に、もうほとんど空と見分けがつかない伊豆の山塊。
ボクはこの風景が大好きだ。子どものころ、いつも見てた。きっと昔の人たちも、この同じ景色を眺め続けてきたはず。
強い西風が吹いてきて、ボクの全身を軽やかに愛撫し、通り過ぎていく。その手つきはちょっと強いけど、とっても艶めかしくてエッチだ。風はきっとボクのことが大好きなんだ。くすぐったいよ。
富士山の上に浮かぶさかなのかたちをしたいくつかの雲は、その西風に吹かれて、群れになってこっちに泳いできてる。その姿は、まるで神さまが空に配置した暗号のよう。
もう少しでそのパズルが解けそうな気がする。それが解けたらどうなるんだろう。
ボクはそれがなにがなんでも知りたくなった。ボクは欲深なんだ。
あの雲に触れられれば…解けそうな気がした。
右手を伸ばしてみるけど、届かない。でも、もう少し、あとほんの少しで届きそう…もう少し、あと少し…
ボクは左手を手すりから離し、雲に向かってぐっと伸びをして、右手を思いっきり伸ばす。体がぐらっと前に傾く。
…触れた!
「カチッ」
どこからともなくはっきりと、パズルが解ける音がした。
その瞬間、世界がすべて、輝いて見えた。
すべて理解できた。なんでそこにそれがあるのか、それが一体なんの意味があるのか。そして、それがあるべき居場所もはっきりわかった。
世界のあらゆる事柄や物が、全部繋がってるのが見えた。繋がっている糸が光っているので、世界全部が輝いてみえたんだ。世界は輝きでいっぱいだ。それがたんなる誤解や錯覚であったとしても、ボクにはどうでもよかった。だって、わかったんだから。
みんなの居場所も見えた。ミウちゃんも、バンドのみんなも、クラスメイトのみんなも、カフェのみんなも、デリのみんなも、女装掲示板のみんなも。
そしてもちろんボク自身の居場所がどこなのかも。それはちゃんとあった。今まで気づかなかったけれど、ちゃんとあった。
ミウちゃんとボクの生まれることのなかった子どもの居場所すらそこにはあった。だから、ボクはちょっとほっとしたんだ。
早く教えてあげなくちゃってボクは思った。カフェのみんなも、きっと喜んでくれるはず。
だって、こんなにも、悲しいくらいにきれいな眺めなんだもん。
喜んでくれるよね?
これでおしまいです。
こんなムダに長いものを全部読んでくれた人、本当にありがとね。
最初に、この「後書き」から見た人、結構いるかもしれないと思うけど、もしひまだったら読んでみてね。
途中で読むのやめた人(ここは見ないと思うけどw)、いつか時間があったら読んでみてね。
じゃあね!