大学から3駅離れた川沿いの街に、ボクの住むおんぼろ安アパートがある。六畳一間の、学生向き物件だ。
本当ならば、無理すれば十分実家から通えるのだけれど、やっぱり一人暮らしって憧れるよね。将来の経験のためとか、どう考えても納得させられたとは思えない説得のすえ、まあしょうがない、でも仕送りなんてそんなできないから、と言われ、とにかく安い場所を探したんだ。
仕送りから教科書代と家賃を引いたら、残りはごくわずか。いきなりのピンチ。
入学当初はコンビニのバイトをしていたけど、ぎりぎりもいいところだった。どのくらいぎりぎりかというと、外食なんてとんでもない、小麦粉を買ってきて、それを水で溶いたものを焼いて、ソースや醤油や、ひどい時は塩をかけて食べるのが、主食ってくらい。
なにしろ、買いたいものはたくさんあるし、一番削りやすいのは食費だから…
このままでは死ぬかもしれないと、割とまじめに心配になって、なんかいいアルバイトがないものか、探してたんだ。
ところで、ボクがちょっと前から出入りするようになった、ネットのとある女装掲示板では時々オフ会をしていて、以前一度行ったことがある。
自分と似たような人たちと直接会うのははじめてだった。ちょっと感動して、涙ぐんじゃった。同じ志向の人たちと、かわいいものの話ができるなんて、思わなかったから。うれしくって、楽しくって。
普段から女の子の恰好してる子や、たまに楽しみで女装する子、トランスジェンダーや、女性ホルモンも服用してる子、ボクみたいな中途半端なのとか、とにかく色んな人たちがいた。
男の子が好きな人、女の子が好きな人、ためらいがちではあってもそういう話題も出るし、自分のことについてお話しできる。
中には、女装っ子が大好きだという男の子もいた。もちろんその場で口説いたりとか、そんなことはしないよ。みんなちゃんと「わきまえて」る人ばっかりだ。とても居心地がいい空気だった。
結婚して子どももいるのに、女性ホルモン摂取しちゃってる人もいた。この先どうするんだろう…他人事ながら、心配になっちゃう。
みんな優しくて、目立つのが嫌いな子たちだった。声高になにごとかを主張するような子なんてひとりもいない。秘かに自分の思うところを守り通そうと、悩みながらも進もうとしてるような、いい子ばっかりだったよ。
ボクは、この子たちが幸せでいれたらいいなと、いつも思ってるんだ。
二度目にそこに参加した時、仕事のことを相談してみたところ、最初の時も会ったトランスジェンダーの佐藤ヨウカちゃんという子が心配して、自分のバイト先に誘ってくれた。
ちなみに、女の子になったヨウカちゃん、めっちゃきれいで、ボクの憧れなんだ*
「実はさ、わたしのバイト先なんだけど、ふたり急にやめちゃって、いい子いないかマスターに言われてるのよね」
今日のヨウカちゃんは、つやつやの長髪をひとつに編んでまとめてる。ラフなTシャツにジーンズで、ユニセックスな恰好なんだけど、女の子にしか見えない。わざわざ気負わなくても、すっかり板についてる感じ。
「いい子いないかって、それって大丈夫なの…」
「もちろん大丈夫、変なことなんか要求されないし、きちんとしたお店よ。まあごくまれに、ちょっとあれなお客さんもいないことはないけど…」
変なことってなんだろ…
「…なんのお店なの」
「えっとね、男の娘カフェ*」
「うわ、アニメの舞台みたいの、きた!」
「ほんとにそんな感じよ。みんなかわいいし、楽しいし、お給料もけっこういいの。時間も割と自由だし、制服もかわいいし。ただ」
「ただ?」
「やっぱりそれなりの見た目がね、要求はされるかな。まあ、マスターの趣味っちゃ趣味なんだけど」
「まあそれはそうだよね」
「でも、カオルくんなら全然問題ないよ、絶対。かわいいもん。わたし、カオルちゃんのママになって産みたいくらい」
「え、ちょっとなに言ってるの(笑) やだもー。酔ってるでしょ。でもヨウカちゃんがいるんじゃ、レベルめっちゃ高そう」
「全然大丈夫。カオルくんだったら、人当たりもいいし、人見知りってわけでもないし、いけると思う」
まあボクは知らない人相手でも、そこまで苦手じゃない。人づきあいが特に好きってわけでもないけど。
「あ、すっごくまじめな人だし、何かあったらお店やってけないし。何より、特技?を活かせるんだから。イベントとかもあるの」
話を聞くと、お給料はコンビニのバイトとは比較にならない額。まあそりゃそうだよね、ある意味、特殊技能だもん。
「でも、それって正直やっていけるの? お客さん、すごく限定されるような気もするけど…」
「お客さん、女性のほうが多いの。お店の造りとかも、ハデじゃなくって、落ち着いた雰囲気」
「そうなんだ」
「どうかな、一度お店に来て、見てもらえれば」
あのお給料の額を見て、断ることはできないよ。
「うん、行ってみたいかも」
自分のアパート、大学と同じ路線で、通勤もしやすそうだった。そういう世界のお店って全然知らないし、コンビニ以外の接客業(というか風俗業だよね)なんてやったことないし、ちょっと不安でもあるんだけど、興味はそれを上回った。
それに、知り合いのヨウカちゃんが一緒っていうのも心強かった。それなら大丈夫だよね?
まったく新しい体験だもん、そういうの、ボクが願ってたものじゃないか。
ボクは2日後の夕方、ヨウカちゃんが入っている時間に、その店「アリーズの燃える髪」に出かけてみることにした。
初めて降りる駅。鉄道と高速道路の高架が走り、交通量の多い大通り沿いにはビルが立ち並ぶ。
顔を上げれば、刻一刻と成長するビル群に侵食されていくかのような、ぼやけた青い空。小さな空に浮かぶ小さな雲のかけらは、まるで水槽の底からさかなの群れを見上げてるみたいだ。
ふわふわした気分でしばらく歩き、大通りから一本入った、あんまりきれいとはいえない雑居ビルの3階に、お店はある。殺風景なビルの入口脇に置かれたおしゃれな椅子の上に、小さく飾りつけた木製の看板が、あまり目立たない感じで据えられていた。
「Concept Cafe アリーズの燃える髪」と記されてある。
ここを目的地とする人のためだけの看板だ。初めての人が、この看板を見て入ることは絶対ないだろう。
なんだかどきどきしてきた…
重い足をひきずるように、エレベーターではなく、階段を昇った。心の準備の時間が欲しかった。うう、緊張するなあ。
いつもの学校に行くような恰好で来ちゃったけど、もっと女の子っぽい恰好のほうがよかったのかな? でも、スカートで日中に街中に出るのは、まだボクにはハードルがちょっと高いなあ。まあ今日は見学ってことだし、よかったんだよね?
無駄な自問自答を繰り返していると、もうお店の入口の前だ。
かわいらしい店名の表札のぶらさがった木製のドアを押し開けると、からからと鈴の音が鳴った。
飾り気のまるでないビルの廊下から一歩入った中は、落ち着いたフランスのカフェ風の部屋だった。それほど広くはないけど、その分、落ち着ける雰囲気。
あちこちに配置された小物は、ちょっとおしゃれな現代風ポップアート調。抽象画っぽい絵が飾ってある。
右手奥にカウンター席があり、その向こうは調理場みたいだ。左手には大きな本棚があって、マンガを中心に本がいっぱい。少女マンガが多い。他には、ファンタジーなどの小説類。
控えめな音量で、音楽が流れている。
店内の雰囲気は思ってたより、落ち着いてるんだな。もっとピンクとかでかわいい子どもっぽい感じなのかと思ってた。
部屋には4つほどのゆったりとした木製椅子とテーブルがあり、2つにはお客さんが座っている。女性2人組と、男性2人組。女性組の席では、ちょうどロング・スカートのメイド姿の女の子が、給仕をしているところだった。
「いらっしゃいませ」
にこやかなあいさつ。ヨウカちゃんじゃない。ボクやヨウカちゃんよりも、年上かな? 落ち着いた感じの女性(男性)だ。
ボクはヨウカちゃんの姿を求めて挙動不審にきょろきょろした。だって、なんか緊張するんだもん。
「ようこそ、おいでくださいました。おひとりさまですか?」
「えっと」
「あー、カオルくん! いらっしゃい!」
「ヨウカちゃん…」
カウンターの向こうから、ヨウカちゃんが顔だけのぞかせた。
ボクは助けを求めるまなざしを、そちらに向けた。
「ああ、ヨウカさんの知り合いの」
「そうなの。とりあえず、カウンターの席に座ってて」
手を小さく振ると、顔を引っ込めちゃった。
お客さんがいるのに、こんな感じで会話していいのかな?
メイドの女性がカウンター席に案内してくれた。お客さんの女性たちが、ボクのほうをちらちら興味ありげに見ながら、なにか話してる。常連かな?
「わたし、ここのキャストをしてる入月マヒルっていいます。よろしくね」
「あ、はい、よろしくお願いします、吉田カオルっていいます」
「ヨウカちゃんのお知り合いなのね」
「はい、あの、そういう集まりで、見学に誘ってくれて」
両手で自分の頬を触りながら、マヒルさんは眉をひそめた。
「最近人がちょっと減っちゃってねぇ、こういうお店なだけに、なかなか代わりの人って見つからないから」
「そうですか」
「今くらいの時間は空いてるからいいんだけど、お昼と夜はね、ちょっと忙しくて」
ヨウカちゃんが、紅茶セットとかわいいお皿のマカロンを持ってきた。アイドルっぽい、制服モチーフの衣装を着てる。かわいい! 別にメイド衣装だけってわけじゃないんだね。
「今店長ちょっと手が離せないから、ちょっと待っててって。これどうぞ。15時のティーセットね」
ボクの前にセットを置くと、隣に座る。マヒルさんは小さく手を振って、ボクに笑いかけると、お客さんのほうに向かった。
「お昼はちょっと忙しいけど、今は結構自由な時間なんだ。夕方から、またちょっと込みだすけれど。今日は来てくれてありがとうね。入口すぐわかった?」
「うん。外は普通のビルなのに、中はきれいにしてるんだね」
「そのうちいつか外側もちゃんとした店舗にしたいって言ってるけどね。あ、その紅茶は、サービスだから安心して」
ボクが今あんまりお金ないのを知ってるヨウカちゃん。いたずらっぽく笑う。この笑顔で、今までどれだけの男の子をだましてきたんだ、この小悪魔は!(もちろんそんなことはしてないと思うよ)
あれ、そういえばヨウカちゃんは男の子と女の子、どっちが好きなんだろ。
紅茶をいただく。かすかにミントの香りがする。おいしい。
向こうでは、男性のお客さんの席のかたわらに立って、マヒルさんが談笑してる。手慣れた感じだ。
「マヒルさんはずっとここで働いてる人なの。おねえさんって感じ。うわさでは」
声をひそめて、ボクの耳元でささやく。
「店長の恋人らしいんだけど」
「まじかー」
「今は落ち着いた感じだけど、夜はもうちょっとにぎやかになったりもするのよ。お酒は出さないから、酔っ払いとかもほとんどいないし、そういう意味でも安心できると思う。おさわり厳禁だから」
ボクは苦笑した。
「お客さんとは、できるだけお話しするようにしてるの。普通に接する感じでいいと思う。別にフェミニンな感じじゃなくてもいいの。カオルくんって、女の子よりのユニセックスって感じだけど、そのままで問題ないわ」
正直に言うね。
ボクは、おしりを触られるくらいのことは覚悟してたんだ。とにかくお金をなんとかしなくちゃいけなかったし、それに、おしりをなでられて、きゃーやめてくださいぃ、みたいなの、多分全然平気。楽しんで演じられる。
あるいは、むしろそういうの、期待してたかもしれない。
うん、わかってる、真面目な人だったら、きっとボクは非難されるんだろうね。セクハラは悪だって。仕方ないでしょ、ボクは変態なんだから。あんたらごときに白い目で見られても平気だもんね。むしろうれしいくらいさ。
だって、ボクはもう知ってる、愛って、そんなきれいごとじゃない、汚れたように見えることもあるって。
ヨウカちゃんみたいな子には絶対言えないな。まあボクが知ってるヨウカちゃんは、ほんの表面だけかもしれないのだけれど。
そのあと、初老の男性店長との面接。とても真面目で小ぎれいなおじさんだった。ボクはもうやることに決めてた。それを告げた時のうれしそうな、ほっとしたような表情。
「ところで、このお店の名前なんですけど、不思議な店名ですね」
「ああ、これはね、フランスのボリス・ヴィアンという人の小説からつけたんだ。『うたかたの日々』という小説でね、ぼくが思うに、世界で一番美しい恋愛小説だよ。そこに出てくる、ぼくが一番好きな登場人物の話からとっているんだ。店内の本棚にあるから、もしよかったら、ぜひ読んでみて欲しいな」
その後、ボクはお店にあるいろんな衣装を着てみないかと誘われ、かわいい服の誘惑に耐えきれず、店内のお客さんも巻き込んで、みんなの着せ替え人形になることになった。それがそのまま初勤務になった。
うん、なんとなくこうなりそうな予感はしてた。かわいい衣装をいっぱい着れて、楽しかったなぁ。
本棚にはヴィアン全集が置いてあって、帰り際、ボクは借りていくことにした。
主人公の友だちシックの彼女アリーズ。パルトルといういかがわしい哲学者の本や関連品にハマって、生活を壊していくシック。それに耐え切れず、パルトルを殺し、自分の恋人にパルトルものを売りつける書店に火をつけて回って、アリーズも自ら焼死してしまう。
でもすべて燃え尽きた焼け跡には、アリーズのブロンドの髪だけが燃え残ってた、なぜなら炎よりも明るく輝いてたから。
度し難いロマンチストだなあ、店長。そもそも、この話と男の娘カフェは、全然つながんないじゃん。店名にする意味がよくわかんないよ。
ボクは自分でも本を買うことにした。