快晴。
空は隅々と冴え渡り、初夏の日差しが燦々と街を照らしている。
ここは海軍G-5支部。偉大なる航路(グランドライン)後半の海、人呼んで"新世界"に位置するこの支部は、海軍指折りの荒くれたちがひしめく伏魔殿ーーというにはいささか純粋な連中ばかりだがーーとして、海兵たちからは恐れられ、住民たちからは疎まれている。
執務室のブラインドから覗く海は穏やかに波打ち、太陽光を反射してきらきらと光っている。しかし"新世界"の海は穏やかと思えば逆巻き荒れ狂い、この世のものとは思えない現象を巻き起こすことは、ここらで暮らしているものなら織り込み済みだ。
この海を渡るには相応の覚悟が必要となる。この海に立ち向かえるのは、数多の海を超えた歴戦の海兵たちか、あるいはーー海賊たちか。
ブラインドから指を離す。がしゃり、という耳障りな音を尻目に、回転椅子に座り直して書類に向き直る。
つまらない報告、部下の事故処理、部下の喧嘩の始末書、報告、報告、始末書、始末書、始末書……。
ため息をついて、眉間を揉む。ぶわりと紫煙が広がって視界を遮るのも煩わしい。
しかし、上官たるものそういった事務仕事から逃れる術もなし、そもそも逃げるつもりもない。
仕方なしに書類に目を通そうと視線を落とすと、こつこつこつこつと控えめなノック音が聞こえた。
この支部においてノックをするような上品な奴は3人しかいない。
1人は支部長のヴェルゴ中将。彼はこのG-5支部に赴任してから長い。この支部の人間とは思えない丁寧で人望溢れる人物で、よく部下を纏めあげている。しかしながら、ヴェルゴはドアをいつも3回ノックする。
2人目はたしぎ。奴とはローグタウンの支部に勤めていた時期からの部下だ。随分と長い付き合いになるが、そそっかしいのは変わらない。この2年を見ても実力は随分な成長を遂げているだけに残念な奴だが。そそっかしさはノックでも変わらず、2回こつこつとノックする。便所じゃねえんだぞ。
となると、もう1人の方か。
「入れ」
「失礼します」
アドリアーンス・ジミニ。真面目な人柄には不釣り合いなアシンメトリーのコーンロウを後ろに束ねている。ダークモカに白い斑点が混じった肌が特徴的なこの男は、3ヶ月ほど前に海軍本部から異動してきて、たしぎと同じ秘書官として勤務している。2丁の銃剣を扱う特殊な戦闘スタイルは見掛け倒しのような誤解を受けやすいが、事実この男の戦場の合間を縫うように弾丸を放ち敵を切り裂く戦闘スタイルにはこの武器が一番理にかなっているのだろう。若さゆえに荒削りな部分はあるが、付き合いが短いにも関わらず優秀さが十分に伝わってくる。たしぎと比べて手がかからないのも含めて。ただしクソ真面目が過ぎて融通が効かないところはよく似ているが。
「来月の他支部との戦闘演練の予定を組みましたのでご確認お願い致します」
「ご苦労」
書類の束を受け取ってパラパラと捲る。几帳面な右斜めの字と定規をいちいち使ったかのように整った図でぴっちりと埋まった紙は、読みづらくはあるが熱意がみっちりと詰まっていて、この男らしいと思った。
「昨日捕らえた海賊の尋問は」
「いまたしぎ大佐が担当しています。海賊行為の他に近隣海域の窃盗・暴行行為で容疑が取れるかと」
偉大なる航路前半の海を乗り越えて"新世界"に乗り込むのは逮捕に手間取る札付きたちばかり。しかしながら、"新世界"から海賊にならんと一念発起する「海賊崩れ」もしばしば現れる。連中自体は雑魚でしかないが、地域社会に及ぼす被害は甚大だ。海軍の職務は世に蔓延る海賊の取り締まりだが、専ら半グレ崩れの海賊たちを取り締まるのが日常の業務になる。
「まああの程度なら勾留期間中に吐くだろうな」
「そうですね。海賊としての活動歴も浅いようですし、自白を渋るほどのバックアップもないと思われます」
ジミニが持っていた取り調べファイルをめくって、こちらにみやる。
かちりと目が合う。
「、ーーー」
まずい、とおもった。
心臓がぎちりと締め上げられる感覚に、眉間の皺が深くなる。
「、……たしぎには適当なところで切り上げろと言っておけ。あいつは隅々まで自白を取ろうとして肝心の罪状を洗い出すのを忘れちまう」
「そのようにお伝えいたします。他に私にご用件などありますでしょうか」
「今はねェ。退出して個人の仕事にかかれ」
一拍置いて絞り出した言葉でやり過ごす。
「承知いたしました。では失礼致します」
余計な工場を挟まず一礼して、くるりと踵を返すと正義のコートが翻る。帰る姿まで模範的な男だ。
規範的で模範的で、軍人として均質化されたそつのない身のこなしを見るたびに、余計に雑念がこころを支配する。
がちゃんと執務室の扉が閉まったのを確認して、宙を仰ぐ。
葉巻の煙が天井に向かってとろとろ登っていくのさえ、置き去ったはずの自分の青さを思い起こさせた。
ーー自覚したのはいつだったか。
怜悧な氷山のような、きりりとした冬の冷気のような、ダークスキンに白い斑点の混じった肌に映えるブルーダイヤモンドのごときアイスブルーの瞳。
おれは初めて出会った時からジミニの瞳が苦手だった。
否、この際はっきりいうとすれば、ジミニの瞳に、かつて慕った男の姿を見ている。
他人に、あまつさえ部下に対して抱く感情でないという自覚があるだけマシだが、あまりの調子の狂い方にほとほと自分でも呆れるばかりだ。
かつての上司、そして今はどこぞへ行方をくらませた男の面影を追ってしまう自分の青さといくじのなさを思うと苛々が収まらない。
ジミニは風体然り勤務態度然り奴とは似てもにつかない。
だが、ジミニとあの男の唯一の共通点がある。
あの男はその怠惰な態度ゆえに、ジミニはその生真面目な態度ゆえに、掴みどころのない性格。
他人を煙に巻いて腹の底を見せない仕草。
確かに違うのに、時々異様にその姿が重なるたびに、チカチカと思い出が瞬いては消えていき、身を苛む。
あのおとこの何を考えているのかわからない目、そして確かに自分を導いてくれた背中を思い描く。決して背の低くない自分を優に越える背中に正義の二文字がはためく。男が振り向いて、笑って、大きくて細い指がぱさついた自分の髪をなぜる様。
とんだ幻想だと自嘲がこぼれる。実際やつはおれに対してそのようなことはしなかったし、おれも望んだことはなかった。
望んだことはなかった、はずなのだ。
腹立たしさに任せて葉巻を灰皿に押し付けると、じじじ、と断末魔じみた音を立てて火が消えた。
ヤキが回っている自覚はある。
しかし、ジミニの青い瞳を見るたびに、一度堰きった想いは枯れることなく、むしろ募るばかりであることを嫌と言うほど思い知らされてしまう。
「……くそ」
毒にも薬にもならない想像を振り払い、ふたたびおれは書類の山と向き合った。
「街の警備、ですか」ジミニがきょとんとして返事をした。
「あァ。佐官以上の海兵が半期ごとの持ち回りで、地元の治安維持と地域交流を目的とした警備を行う。来月からはお前の担当だ」
「ジミニさん、ここにきてまだ3ヶ月ですし、地域に慣れるようにということで急遽01部隊が担当になったそうですよ」
昼時も終わり、海兵たちがゾロゾロと自分たちの業務に戻りつつある中、ジミニとたしぎを呼び出した。
内容は半期ごとに行われる基地下の街との交流事業の一環としての警備……といっても、肝心の海兵たちはあまり乗り気でなく、住民たちも海兵のことをよく思っていないものも多いので形ばかりのものになりつつある。
海軍の方針上このような活動は業務内容に含まれないが、G-5支部では先代の基地長から続く伝統のようなものらしい。
「通常業務としてのパトロールとは違う形で行うんですね」
「はい。通常のパトロール業務というよりは地域行政と奉仕事業の側面が強いです。街のお祭りに参加したり、自治会に参加したりするのがメインの業務になります。街の皆さんと関わる良い機会になりますよ!」
「成程」
たしぎがまるで自分が説明しようと言わんばかりに胸を張って答える。
あいつもジミニと同じ海軍士官卒で、自分より年上だが後輩に当たるジミニを大層可愛がっている。
新しくバディができるという時の喜びようといたら凄まじく、しばらく浮き足立っていたのを何度も注意した。
赴任してからはジミニにほとんど付きっきりになっていたのを何度も叱責したので、最近はようやく落ち着いたらしい。
とはいえジミニもジミニでバディとしてたしぎを頼りにしているようだ。ベタベタしすぎは問題だが部下の関係が良いことに悪いことはない。
「まあ、そういうことだ。質問は」
「ありません。拝命いたします」
「わからないことがあったらいつでも私やスモーカー中将に聞いてくださいね」
「ありがとうございます」
ジミニとたしぎが頭を下げる。背筋はまっすぐ、きっちり15度。相変わらずの生真面目ぶりだ。
顔を上げたジミニと目が合う。
「要件は以上だ、2人とも退室しろ」
葉巻を咥える歯に力が入るのを堪えて手元の世経に視線を固定する。
今朝からちらちら視界の端に映り込む青が煩わしい。
ぬらぬらひかるアイスブルーも。
青を目に抱きながら、真面目なばかりで煙のように掴めない男も。
視界の隅で1人が出口へぱたぱたとかけて行く中、もう1人はこちらを向いたままだったが、その視線もやがては逸れて、部屋はまた静かになった。
世経の表紙は今日も海賊による被害がおどろおどろしく並べ立てられている。
一面は最近のメインニュース、1年前"超新星"と呼ばれた海賊たちの中でも頭角を表し、ゲッコー・モリアの後釜として王下七武海の王座に座ることになったトラファルガー・ローについて。
その下にはあと一年後に控えた"世界会議"についての各国の様子がちらほら。社説は相変わらず海軍の力強さを喧伝する御用記者の勇ましい言葉の数々。
なぜこんな時に余計にイラつく話題を見なければならないのか。再びむらむらと湧き上がる苛立ち紛れに舌打ちをする。
トラファルガーが王下七武海に加入するために世界政府へ100個の心臓を送ったイカレ模様をやたらに大袈裟に、しかし世界政府のご機嫌は損ねないようにおべっかを振り撒いた文字群。
どれこれも肝心の本質を避けて、権力者への親しみをアピールする取材。
言葉ばかりは勇ましいが、その言葉の奥で斃れた海兵たちのことなど歯牙にも掛けない空っぽの言葉たち。
つまらないプロパガンダを並べ立て、お上の靴を舐める美辞麗句ばかり踊る新聞なんざ普段は読む気もしないが、こういう時ばかりは気紛らわせにちょうどいいとは思っていたがーー。
やはりくだらねェと新聞を投げ出す。
すっかり跡のついた眉間の皺がグッと深くなるのが自分でわかる。
海軍の名誉だの、世界政府だの、そういったゴチャゴチャしたことはどうだっていい。愚にもつかない政争はお上の好きなようにやらせておけばいいが、名ばかりの協力体制で好き勝手に海賊行為を働いている王下七武海をある種ダークヒーローのように持ち上げる記事を書かれちゃおしまいだ。
葉巻の煙混じりのため息をはく。
つまらねェことに拘泥している暇があったら仕事するべきだと今日付けの書簡に手を伸ばしたーー
突如。
バリン!と大きな音が響き、わあっと歓声が上がる。
また馬鹿どもが騒ぎを起こしているのか?
……いや、それにしちゃ盛り上がりかたがおかしい。
いつも愉快そうな外野たちが、より高揚した叫び声をあげている。
なにかまずいことが起きているに相違ない。
「おい!!何してやがる、」
執務室のドアを乱暴に開け放つと、外野を取り巻く人混みから、直属の部下たちが駆け寄ってくる。
「スモやん!おせェよ!」
「早くあいつ止めてくれ!悪酔いしてんだ!」
「ジミっさんが……」
ジミニが?
あの男が積極的に争い事を起こすはずがない。
しかし、新参者が酔漢に絡まれていることは珍しくないーーいや、それにしては騒ぎがデカすぎる。
踊り場まで伸びた外野を掻き分け階段を駆け降りる。
どうやら階下で騒ぎは起きているらしい。明らかに酔っ払った男の言葉にならない罵声が聞こえてくる。
ということは食堂か。
「げェ、スモーカーじゃねえか…」
「いいとこだってのに…」
口々にぶつぶつ呟く野次馬たちに解散命令を出すあいだも、聞くに耐えない呻き声とともに殴打音が聞こえる。
「ふざげんじゃね゛ェ!涼しい顔しやがって、ムカつくんだよクソダボ!!」
がしゃあん!と一際大きい破壊音。
「落ち着いてください軍曹、これ以上は、」
ジミニの声。やはり酔漢に絡まれている……それも一番タチの悪いタイプの。
「これ以上はなんだ、えェ!?舐めた口きいてんじゃねェぞ!!!」
群衆に割り入って、ようやく騒ぎの中心に辿り着く。
「お前!なにを、」
瞬間、目に飛び込んだのは、部下に酒瓶を振り下ろす男。顔が真っ赤に火照っている様は、どこからどう見ても酔っ払っている。酒瓶は底が割れており、鋭利な刃物のように尖っった刃先がジミニの目に突き刺さらんと振り下ろされる。
ジミニは額を切って血を流して、純白のコートが赤色に濡れている。
覇気も放たず酔漢をじっと見据えて動かない。
ーー動かない?
こいつ、受けるつもりか!?
水管の振り上げた腕を捻り上げれば止められるか……いや、到底間に合わない。
このままこのボトルが振り下ろされたら良くて大量出血、悪けりゃ失明も覚悟しなければならない。
何を考えてやがる、馬鹿野郎!
なすすべもなくボトルが振り下ろされる。
割れたガラスの鋭利な角がキラキラと光り空を斬る。
誰もが次に起こる惨事に目を背けた。
あるいは舞い上がる血飛沫に色めき立った。
そして醜い殴打音と共にボトルが振り下ろされれる、はずだった。
ボトルが振り下ろされる直前でジミニの分厚いメガネから目と鼻の先で静止されている。
ふるふるとふるえた酔漢の腕はやがて力無く垂れ下がり、ボトルがゴロン、と床を転がった。
静寂。
G-5支部がこれほどまでに静かだったことはかつてなかったかもしれない。
酔漢はジミニの顔を呆けたように見つめている。
野次馬たちもジミニの顔を見つめている。
おれもジミニの顔を見つめている。
皆が呆気に取られながら、ジミニの姿に釘付けだった。
ジミニは今、多くの視線に貫かれながら、しかしそれを感じさせないように毅然と立っていた。
背筋をピンと伸ばし、少し胸を張って。
ジミニは酔漢の顔を見つめたまま、ふ、と顔を緩め、皆が押し黙った空間の口火を切った。
「やめてくれて、よかった。ありがとうございます」
割ったガラスはご自分で片付けてくださいね、と付け加えて、頭を下げる。
いつも通りの15度の、規格化された会釈。
全てが海軍の規格通りに調整された、画一的身体が、しかしながら奇異に映る。
頭を下げると、はたはたと額から垂れた血液が垂れ、床に斑点を作った。
踵を返したジミニが固まる野次馬に「失礼します」と声をかけると、野次馬たちはお互いの目を見合わせ、やがてぞろぞろと道を開けた。
群衆に囲まれた一本道を、ジミニが歩いていく。
さながら聴衆に囲まれる名優のように。
あるいは忌み疎まれる病人を避けるかのように。
ジミニがいなくなると、まるで幻覚が覚めたように、ぱらぱらと外野が元いた持ち場へ散っていく。
皆口々に何かを喋りたい顔で、しかし何を言えばいいのか分からず、口をつぐんでその場を後にする。
ーーいまのはなんだったんだ?
ジミニは、覇気を使わなかった。
ただの眼力だけで男の暴走を抑えてしまったのだ。
1人、また1人と人が離れ、やがてほとんどの海兵たちがいなくなり、先ほどまで最高潮に達していた熱気も下卑な期待感も何もかもが失せてしまった全てが空っぽの空間に、おれと酔漢だけが取り残された。
ぱたぱたと軽い足音がこちらに駆け寄ってくる。
「あなたたち、一体何の騒ぎで、あれ……スモーカーさん?」
「来るのがおせェ……騒ぎはこいつがやった、取り敢えず懲罰房につっこんどけ」
おれはやっと騒ぎに気がついて食堂に駆け込んできたたしぎに指示を出す。
たしぎに手を引かれた酔漢はすっかり酔いも覚めた様子で、ジミニが消えていった通路の奥をぼうっと見つめていた。