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エスメラルダ・イラ・サリオンはガイネス帝国十二公家の一角、サリオン公爵家の令嬢である。
「帝都の盾」と称される名門の血を引き、この世の栄華を一身に集めたような環境で何不自由なく育てられてきた。
生まれてこの方、金銭に困った事などただの一度もない。
いや、困る以前の問題として、彼女は「金銭を必要とする」という感覚そのものを持ち合わせていなかったのだ。
欲しい物があれば、それは当然のように手に入る。
必要な事があれば、それは当然のように用意される。
父である現当主フォーレも、祖父である先代当主ギザも、この掌中の珠たるエスメラルダにはひどく甘い。
彼女にとって金銭とは、空気や水と同じく、意識せずとも存在するものでしかなかったのである。
しかしあの日。
図書室でハイン・セラ・アステールに壁に押し付けられ、そして──金を
彼女は生まれて初めて、「金策」という、およそ高位貴族らしからぬ世俗的な概念と真剣に向き合う事になったのだ。
あの時のハインの言葉。
『いくら用意できる?』
その問いは、エスメラルダの脳裏に焼き付いて離れない。
あれは決して、端金が欲しいという意味ではなかったはずだ。
アステール公爵家の次期当主が個人的な遊興のために婚約者から金をせびるなど、貴族の矜持が許すはずもない。
──つまり、あれは要求ではなく試練だったのですわ
エスメラルダはそう解釈した。
ハインは婚約者である自分にどれほどの覚悟と力量があるのかを試したのだと。
そしてその試練の意図を探るべく、彼女は思考を巡らせる。
鍵となるのはハインが口にした二つの言葉。
「魔獣」と、そして「資金」。
──魔獣について調べていらしたハイン様が、資金を必要としている……これらが意味する所は……
エスメラルダは学園の自室で、頬に手を当てて考え込んだ。
可能性はいくつかあった。
一つは新たな魔術の研究開発。
アステール家は「帝都の槍」。その魔術の探求には膨大な費用がかかるだろう。未知の魔獣の素材を触媒とするような高度な魔術であればなおさらだ。
もう一つは軍備の増強。
──旧魔王軍の帝都への襲撃はここ暫くありませんけれど……世界規模でみれば話は別。あるいは、襲撃を既に察知しておられる?
だとすれば、帝都防衛のために独自の戦力を整えようとしているのかもしれない。
どちらにせよ公的な予算だけでは賄えない、あるいは公にはできない理由があるのだろう。
──ハイン様は何か大きな事を成そうとしていらっしゃるのですわ
エスメラルダはそう結論付けた。
◆
公爵令嬢が金策に乗り出すというのは、言うは易く行うは難し。
いや、難しというより滑稽ですらあった。
まずエスメラルダが考えたのは、手持ちのドレスや宝飾品を売却する事だった。
だがすぐに壁にぶつかる。
高位貴族の令嬢が自ら市井の店に品物を持ち込むなど、前代未聞の醜聞だ。サリオン公爵家の名に傷がつく。
かといって、使用人に頼めば秘密が漏れる可能性がある。
次に考えたのは投資である。
エスメラルダは貴族としての教養として、経済についても学んではいた。
だがそれはあくまで机上の空論。
それでも、と彼女は侍女に命じて、最近伸びているという噂の鉱山開発事業にお小遣いとして与えられていた金貨を投じてみた。
結果は惨憺たるものだった。
数日後、その鉱山で落盤事故が発生し、事業は頓挫。
投資した金貨は一枚も戻ってこなかった。
──わたくしには商才というものが欠片もないようですわ……
エスメラルダは肩を落とす。
他にも色々と試みてはみた。
匿名で魔術に関する論文を学術誌に投稿し、原稿料を得ようとしたり。(これは内容が高度すぎるとの理由で掲載が見送られた)
学園内で下級貴族の子女相手に家庭教師のような真似事をしようとしたり。(これはプライドの高い彼女には耐え難く、すぐに断念した)
そうして一週間が経った。
エスメラルダが自力で集められた金額は0。むしろ減っている。
自身の無能さに、エスメラルダは辟易していた。
自分は結局、籠の中の鳥でしかないのか。
ハインの力になるどころか、足手纏いにしかならないのではないか。
そんな事を考えていると、ふと図書室でのハインの姿が脳裏に蘇った。
壁に押し付けられ、間近で見た彼の瞳。
──あの冷たい目……でもその奥に、猛獣のような雄々しい覇気の光が見えましたわ
そうだ。
ハインは猛獣だ。
牙を研ぎ、爪を磨き、獲物を狙う孤高の存在。
その気高さにエスメラルダは惹かれているのだ。
──ああ、なんて格好良かったのかしら……
エスメラルダは頬が熱くなるのを感じながら、その光景を反芻する。
そして、その思考は奇妙な連想ゲームへと発展していった。
──猛獣……猛獣? 獣……獣人……亜人?
瞬間、エスメラルダの思考に閃きが走った。
──はっ、まさか……!
彼女はある事実に思い至る。
アステール公爵家が今、亜人の血を引く貴族たちから急速に支持を集めているという事実に。
先代ダミアンの頃とは違い、現当主代理のヘルガは亜人に対しても分け隔てなく接していると聞く。
人間至上主義が根強いこの帝国において、それは異例のことだった。
エスメラルダの中で散らばっていた情報が一つに繋がった。
──わかりましたわ。ハイン様の真の狙いが
エスメラルダは確信した。
──つまり、ハイン様はサリオン公爵家が彼ら亜人貴族から資金を集めよと、そう仰りたかったのですね! そうして一大派閥を築き、宰相派を抑え込み……ゆくゆくはッ!
それは実に理に適った策謀だった。
現在、アステール公爵家は女宰相ジギタリスと対立関係にある。
ジギタリスは人間至上主義の急先鋒であり、亜人貴族の台頭を快く思っていない。
そんな状況下で、アステール公爵家の嫡男であるハインが公然と亜人貴族に接近し、資金援助を求めたらどうなるか。
当然、宰相派からの激しい妨害や、余計な詮索を呼び込む事になるだろう。
だからこそサリオン公爵家が動く。
サリオン公爵家は表向きは中立的な立場にある。アステール公爵家ほどには警戒されないはずだ。
そのサリオン公爵家が間に入る事で宰相派の目を欺きつつ、亜人貴族たちとの連携を強化することができる。
──ハイン様はそこまで見越して、わたくしに試練を与えたのですわ。何という深謀遠慮……
エスメラルダはハインの知略に感嘆のため息を漏らした。
そして、自分一人で抱え込もうとしていた事が恥ずかしいと恥じる。
そんなエスメラルダはすぐさま行動を開始した。
──この件はわたくし一人の手には余りますわね……。父に相談しなければ
◆◆◆
サリオン公爵家の執務室。
重厚なマホガニーの机を挟んで、当主フォーレ・セラ・サリオンは娘の顔を険しい表情で見つめていた。
「……亜人貴族家への接触、だと?」
フォーレの声は低く、抑揚がない。
だがその声には明らかな警戒心が滲んでいた。
フォーレは亜人貴族に対しては特に思う所はない。しかし彼らが宰相派に睨まれている事は当然知っており、そんな亜人貴族に接触すればサリオン公爵家としては余計な火種を抱える事になる。
火種そのものを嫌うならば、アステール公爵家との婚約もどうなのだという向きもあるが、それは話が変わってくる。若くして副魔術師長オイゲンを完膚なきまでに叩きのめしたというハインの才を、フォーレとしては高く評価していた。(茶会②参照)
「はい、お父様。どうか、彼らとの会合の場を設けてはいただけないでしょうか」
エスメラルダは背筋を伸ばし、真っ直ぐに父を見返す。
「理由を聞こう」
「それは……その、彼らとの関係を深める事が、サリオン公爵家にとっても有益だと考えたからですわ」
エスメラルダは事前に考えていた建前を口にする。
しかし、フォーレはその場しのぎの誤魔化しには乗らなかった。
彼もまた高位貴族として、長年帝都の権力闘争の只中に身を置いてきた男だ。
「エスメラルダ。私に隠し事はやめなさい。親睦を深めるだけなら、お前がそこまで思い詰めた顔をする必要はないはずだ。本当の理由を言いなさい」
「そ、それは……」
エスメラルダは口ごもる。
ハインの計画を明かすわけにはいかない。
しかし、父の追求をかわすこともできない。
「……もしかして、ハイン殿のことか?」
フォーレの鋭い指摘に、エスメラルダの肩がびくりと跳ねた。
エスメラルダは観念した。
「……はい。実は、ハイン様に協力するために、彼らからの支援が必要なのです」
その言葉を聞いたフォーレは、顎に手を当てて考え込む。
彼の脳裏に、以前ハインと交わした会話が蘇っていた。
アステール公爵家で開かれた茶会での事だ。
あの時、ハインは確かにこう言っていた。
──『まさに慧眼。その通りです。しかし母上は宰相殿の目を避けているばかりではありません。母上は今大きな事を考えていらっしゃいます』
あの時のハインの言葉。
そして、今のエスメラルダの言葉。
それらがフォーレの中で結びついていく。
──ハイン殿の言う“大きな事”。それは恐らく、宰相ジギタリスとの本格的な衝突を意味するのだろう
フォーレはそう確信した。
アステール公爵家と宰相派の対立は、もはや回避できない段階に来ている。
でなければ公然と宰相派の貴族の面子を潰すような真似はしないはずだ。
だが宰相派の勢力は強大だ。
アステール公爵家単独で対抗するには、あまりにも分が悪い。
──だからこそ、亜人貴族を本格的に取り込む必要があるのか
亜人貴族たちは、宰相ジギタリスの政策によって抑圧されている。
彼らは現状に強い不満を抱いており、アステール公爵家にとっては心強い味方となり得るだろう。
──そして、そのために資金を募っているのだな
全てが繋がった。
それは単なる資金集めではない。
いわば踏み絵だ。
アステール公爵家への応援ではなく、明確な支持を表明しろと、そう言いたいのだろう。
口先だけの同盟ではなく、金銭という形で覚悟を示せと。
──ならば亜人貴族たちも相応の額をアステール公爵家へ支援するに違いない。そして、サリオン家がそれを仲介するということは……
サリオン家もまた、アステール公爵家への支持を明確にすることを意味する。
中立という立場を捨て、宰相派と敵対する覚悟が求められているのだ。
フォーレは深く息を吐いた。
これはサリオン公爵家の命運を左右する重大な決断だ。
しかし彼の心は既に決まっていた。
アステール公爵家と、宰相ジギタリス。
どちらに与するべきか。
答えは明白だった。
──サリオン公爵家が忠誠を捧げているのは、ガイネス帝国の正当なる皇帝、ヴァルフリード様だ。ジギタリスなどという平民出の
これは暗愚ヴァルフリードへの忠誠心というよりは、正当なる血統への忠誠心である。
だが現在の皇帝ヴァルフリードは政務への関心を失い、実質的にジギタリスが国を牛耳っている状態だ。
フォーレはそれら諸々を快く思っていなかった。
皇帝の権威を蔑ろにし、自らの理想のために国を歪めようとするジギタリスは不快で仕方ない。
──ジギタリスを排し、陛下に正気に戻っていただく
「……分かった。エスメラルダ、お前の言う通りにしよう」
フォーレは重々しく頷いた。
「亜人貴族たちとの会合の場を設ける。だが、表立って動くのは私だ。お前は裏方に徹しろ」
「お父様……!」
エスメラルダの顔が、ぱっと明るくなる。
「感謝いたします!」
こうしてサリオン公爵家はアステール公爵家のために、亜人貴族からの資金集めに乗り出す事となった。