◇
「一体何が起きてるのかしら……」
アステール公爵家の執務室。窓から差し込む秋の陽光が、執務机に積まれた羊皮紙の山を照らし出していた。
私が執政代理となってからというもの、この光景はすっかり日常と化している。
家の立て直しは容易な道程ではなかったが、最近ではようやく軌道に乗りつつあった。
それは喜ばしいことだ。
だが、目下の問題はそこではない。
私の手元にある一冊の帳簿。
そこに記された数字が、どうにも解せないのである。
収入の欄に並ぶ見慣れぬ家名と、そしてその横に記された金額。
それも一つや二つではない。
ここ数週間のうちに、それは雪崩を打ったかのように増え続けているのだ。
そしてその殆どが、亜人の血を引く貴族家からのものだった。
もちろん心当たりがないわけではない。
ガイネス帝国は悲しいかな、人間至上主義が根深く蔓延る国だ。
亜人の血を引く者たちは往々にして不当な扱いを受ける。
私はそれが正しいことだとは思わない。
だから当主代理として表に立つようになってからは、彼らにも分け隔てなく接するように心がけてきた。
屋敷の使用人にも能力さえあれば種族を問わず登用している──といっても、当家の使用人のほとんどはハインが推薦してきた者たちばかりだけれど。幸い彼らはその、少しユニークな者もいるけれど、みんなよく働いてくれている。
まあオーマという名の奇妙な使用人には、その……慣れるのに時間がかかったけれど。
とにかく、そういった姿勢が要因となって亜人系貴族家の期待を集めているということは理解しているつもりだ。
だが、それにしてもこれは度が過ぎているのではないか。
彼らは次から次へと、まるで競うように金銭を差し出してくるのである。
「少しでもお役に立てれば」
「これは我々の感謝の気持ちです」
口々にそう言って。こちらは何も要求してはいないというのに。
まるで、私が何か途方もない大事業を始めようとしているかのようだ。
──私の知らないところで、何かが動いている
そんな不気味な感覚が拭えない。
この不可解な事態について、誰かに相談すべきだと考えた。
こういう時、頼りになるのはやはり古参の執事である。
私は呼び鈴を鳴らし、程なくして執務室に現れたグラマンに声をかけた。
「グラマン、少し聞きたいことがあります」
グラマンはアステール公爵家に長年仕えている。先代当主ダミアンの頃も、グラマンの存在がなければそれこそアステール公爵家はいまでもまだ公爵家でいられたかどうか。ただ、そんなグラマンを疎んじたダミアンは何かと理由をつけて彼を遠ざけようとしていたけれど。
「お呼びでしょうか、奥様」
「ええ。少し相談したいことがあるの」
私は例の帳簿をグラマンの前に差し出した。
グラマンは帳簿に記された数字と家名を一瞥し、その老獪な瞳を僅かに見開く。
「これは……随分と景気の良い話ですな」
「景気が良い、では済まされないわ。この資金の流れは明らかに異常よ。あなたは何か心当たりはない?」
私の問いに、グラマンは顎に手を当てて考え込む。
長年の経験則と、彼が持つ情報網を頭の中で照合しているのだろう。
「正直なところ、私にも皆目見当がつきませぬ。確かに奥様の公平なご采配により、亜人貴族の方々からの支持は集まっておりますが……」
グラマンは珍しく言葉を濁した。
「しかしこれほどの額となりますと……何か裏があるのではと勘繰りたくもなりますな。まるで、当家に今すぐにでも莫大な資金が必要であるかのような、奇妙な焦燥を感じます」
「裏、というのは?」
「例えば……そう、例えばですが。何者かが宰相派への牽制のために、我々を担ぎ上げようとしているとか」
グラマンの推測は私のそれと余り変わらない。
結局のところ、グラマンに相談しても謎は深まるばかりだった。
こうなればもう一人、相談相手を探すしかない。
◇
「──というわけなのだけれど、ハイン。あなたはどう思う?」
私は学園から戻ったハインを執務室に呼び、事の次第を説明した。
私の可愛い息子。
この子ならあるいは何か気づくかもしれない。
でもハインの反応は私の予想通りというか、なんというか。
「流石です、母上」
ハインは感極まったような表情で、恭しく傅いた。
その動作は流れるように美しく、そして大仰だ。
「母上の素晴らしさが、ようやく下々の者共にも理解され始めたのですね。彼らも遅まきながら、母上こそがこの世界を導くに相応しいお方だと気づいたのでしょう」
──ああ、また始まった
私は内心で苦笑する。
ハインは私のことをそれはもう過剰なまでに持ち上げてくるのだ。
正直なところ、これには未だに慣れない。
気恥ずかしいというか、こそばゆいというか。
一体どこをどう見れば私がそこまで偉大な人物に見えるというのだろう。
「ハイン、大袈裟よ」
「いいえ、母上。当たり前のことを当たり前に為すことこそが、最も尊いのです。そしてその尊き御業を成し遂げられるのは、この世界で母上ただお一人!」
ハインの賛美は止まるところを知らない。
放っておくと、まるで私がこのマリステラ大陸の支配者であり、新たな秩序の構築者であるかのように語り出す。
「彼らは母上の偉大なる御計画の一助とならんと、自発的に資金を供出しているのです。これは純然たる忠誠の証。喜んで受け取るべきかと」
──偉大なる御計画って、一体何のことかしら
以前はこの子の言うことを窘めたり、制止したりもした。
だがそうするとハインはひどく寂しそうな顔をするのである。
まるで世界から拒絶されたかのような、捨てられた子犬のような目で私を見る。
それを見ると、私の心はきゅうと締め付けられるのだ。
母としてあの子の悲しむ顔は見たくない。
だからここ最近は、もう言いたいことを言わせておくことにしている。
ひとしきり私を褒め称えた後は落ち着くから、その時には頭を撫でる。
「はいはい、ありがとう、ハイン。さあ、もういいですからね」
私はハインの頭を優しく撫でる。
ハインは満足そうに目を細め、まるで猫のように私の手に頬を擦り寄せてきた。これでまた少しの間は落ち着いてくれるだろう。
──本当に、甘えん坊さんなんだから
そんなハインの姿を見ていると、自然と口元が緩む。
それにしてもこの子はここ最近、本当によく成長している。
身長も少し前にはとうとう私を追い越してしまった。
こうして頭を撫でるのにも、少し見上げるような形になる。
それは母親として嬉しいことだ。
頼もしく思う。
けれど同時に少しだけ寂しくもある。
いずれこの子も私の元から巣立っていくのだと考えると、胸の奥が少しだけ痛むのだ。
この温もりが失われる日が来ることを思うと。
「……とにかく、ハインもこの件については何も知らないということね?」
私が無理やり話を本筋に戻すと、ハインはようやく真面目な顔つきになり、少し考え込む様子を見せた。
どうやら彼も、この不可解な状況の全容は把握していないらしい。
「そうですね。彼らの真意は測りかねますが……しかし、集まった資金の使い道については、一つ提案があります」
ハインは真剣な眼差しで私を見た。
その瞳には先程までの甘えたな色は欠片もなく、貴族の目をしていた。抜け目ない、狡猾な光。
「ただ借金の返済に充てるだけでは芸がありません。この資金を元手に投資なりに回して増やし、より強固な財政基盤を築くという手もありますね」
──投資?
私は思わず目を見張った。
ハインの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
確かにハインは賢い子だが、経済や投資といった世俗的な事柄には疎いとばかり思っていた。
「投資、ですか……」
「はい。アステール公爵家が抱える借金は莫大です。これを早期に返済することは重要ですが、同時に家の地盤を固めることも必要かと。例えば、有望な事業に投資するというのも手ですね」
私はその提案の妥当性について真剣に検討し始めた。
確かに借金返済は急務だ。
だが、この予期せぬ資金をただ穴埋めに使うだけでは勿体ない気もする。
これを元手にアステール公爵家をさらに強固なものにする。
それは、私が目指すべき未来図そのものではないか。
「……そうね。それも一考の価値はありそうね」
私はゆっくりと頷いた。