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敗走。
この二文字ほど現在のノルン王国軍の惨状を端的に、かつ冷酷に表す言葉はないだろう。
北の凍土を支配し、周辺諸国から“氷狼”の群れと恐れられた精強なる軍団。その威容は今や見る影もない。雪崩を打って崩壊した組織はもはや軍隊としての体を成していなかった。
そこにあるのは恐怖に突き動かされる肉の塊の奔流だ。
兵士たちは我先にと南へ──王都フロストヘイムの方角へと、雪を蹴立てて逃げ惑っている。
誰も振り返らない。
振り返れば、あの神罰の如き光に視界ごと焼き尽くされるのではないかという強迫観念が彼らの背中を氷の鞭で打ち続けているからだ。
捨てられた槍や盾が雪原のあちこちに散乱している。重い甲冑を脱ぎ捨て、身軽になって逃げようとする者すらいた。彼らが信奉していた「武」や「誇り」といった価値観は圧倒的な力の奔流の前では薄汚れた雪解け水のように脆く、そして無意味だった。
理解不能な現象に対し、人は思考を停止する。残るのはただ「生きたい」という、浅ましくも根源的な動物的本能のみ。
その敗残の群れの中、ひときわ速い馬を駆る一団がいる──国王グルンベルドと、その近衛たちだ。
王馬スレイプニルに跨るグルンベルドの背中はかつての威厳を完全に失っていた。
丸められた背。
小刻みに震える肩。
兜の下から漏れ聞こえるのは王としての叱咤ではなく、意味を成さないうわ言のような呪詛だ。
──畜生、畜生、ありえん、なんだあれは畜生。
彼は恐怖していた。
あの光に。
そして己の力の及ばない何かがこの世に存在するという事実に。
その王の背中には一人の女がしがみついている。
宮廷魔術師アヴィアナだ。
撤退の混乱の最中、グルンベルドは彼女を自分の馬に乗せた。
それは愛ゆえの行動ではない。
ましてや、騎士道精神によるレディへの配慮でもない。
単に、彼女という便利な「魔力探知機」を手放したくなかっただけだ。あるいは自分の背後を守る盾代わりにするつもりだったのかもしれない。
馬の揺れに合わせて、グルンベルドの甲冑がカチャカチャと耳障りな音を立てる。
王の体から漂ってくるのは脂汗と、恐怖の饐えた臭い。
かつてあれほどアヴィアナを畏怖させ、支配していた圧倒的な暴力の気配は霧散している。
アヴィアナの瞳は目の前の男の背中を見ていなかった。
彼女の視界は虚空を彷徨っている。
網膜に焼き付いているのは先ほどの光景だ。
天を貫き世界を両断した、あの一条の光である。
──綺麗だった。
不謹慎を承知で言えば、そうとしか表現できない。
純粋な力。
混じりけのない、圧倒的なエネルギー。
それは破壊の光でありながら、アヴィアナにはこの澱んだ世界を浄化する聖なる輝きのように思えたのだ。
あれは魔術ではない。
優れた魔術師であるアヴィアナだからこそ分かる。
あれはもっともっとデタラメで、理不尽で、そして絶対的な
それに比べれば。
眼前の男──グルンベルドの力など、なんと矮小なことか。
アヴィアナはグルンベルドの胴に回した腕に、無意識に力を込める。
抱きしめているのではない。
爪を立てているのだ。
──ちっぽけな男。
今まで自分は何を恐れていたのだろう。
こんな雷に怯えて巣穴へ逃げ帰る野鼠のような男に、なぜひれ伏していたのだろう。
冷たい風がアヴィアナの銀髪を巻き上げる。
感覚が麻痺していく中で、彼女の思考だけは氷のように鋭く研ぎ澄まされていった。
アヴィアナはノルンという土地が好きだ。
この肌を刺すような冷気も。
肺を浄化するような澄んだ空気も。
そして命を拒絶するようでいて、その実、深い静寂で包み込んでくれる優しさもすべてが愛おしい。
さらにいえば、ここは母の故郷でもある。
彼女の母はこの地の冬の精霊が受肉した存在だった。
風に舞う雪の結晶、凍てつく樹氷、それら自然の造形すべてに母の面影がある。
この極北の地はアヴィアナにとって巨大な揺り籠のようなものだ。
だが。
──嗚呼、穢らわしい。
彼女はこの
ノルン王国。
力こそが正義とされる、野蛮な国。
雪と氷の美しさを解さず、ただ暴力で他者をねじ伏せることしか知らぬ男たち。
彼らはこの静寂な大地に土足で踏み入り、血と欲望で汚し続けている。
その頂点に立つのがグルンベルドだ。
純血主義を掲げ、精霊との混血であるアヴィアナを「化け物」と蔑みながら、その実、彼女の体と魔力を貪り尽くす男。
矛盾した欲望。
歪んだ支配欲。
アヴィアナの腹の底に、どす黒い鉛のような感情が沈殿していく。
それは長年にわたって蓄積された怨嗟の
毎夜、繰り返される陵辱。
「罰」と称して与えられる暴力。
彼女の尊厳はこの男によって泥靴で踏みにじられ続けてきた。
それでも彼女が従ってきたのは恐怖ゆえだ。
逆らえば殺される。
自分だけではない。この国にわずかに残る精霊たちまでもが狩り出されるかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、心を殺して耐えてきた。
だがあの光を見た今。
その恐怖の鎖が音を立てて砕け散っていくのを感じる。
絶対的な強者だと思っていたグルンベルドが実は井の中の蛙に過ぎなかったという事実。
上には上がいる。
理不尽なまでの
「おい! もっと速く走れ! 追いつかれるぞ!」
不意にグルンベルドが馬の腹を蹴り、喚き散らした。
その声は裏返り威厳のかけらもない。
「貴様ら、何をモタモタしている! 王を護るのが貴様らの役目だろうが! 壁になれ! 盾になれ!」
周囲の兵士たちに怒号を浴びせる。
だが誰も王の声になど耳を貸さない。
彼らもまた、逃げるのに必死だからだ。
グルンベルドは舌打ちをし、苛立たしげに肩を揺する。
そして背後のアヴィアナに声をかけた。
「おい、アヴィアナ!」
顔だけを後ろに向け、血走った目で彼女を睨みつける。
「魔術だ! 結界を張れ! 追手が来ておらぬか確認せよ! あの化け物がまた来るやもしれん!」
それは命令だった。
いつものように。当然のように。
彼の中ではまだ「王と臣下」「支配者と被支配者」という関係が成立しているのだ。
これほどの失態を演じ、無様に逃げ回っている最中であっても。
「……」
アヴィアナは答えなかった。
ただ、静かに彼を見つめ返した。
「なんだ、その目は! 聞こえんのか! 早くしろ!」
グルンベルドが苛立ちを露わにする。
その顔は恐怖で歪み、鼻水と脂汗で汚れている。
「城に戻ったら、貴様にはまた『罰』が必要だな。そうだ、貴様の不手際があの惨劇を招いたのだ。たっぷりと時間をかけて、俺の怒りを分からせてやる」
王は己の恐怖を怒りに変換し、それを弱い者へとぶつけることで心の均衡を保とうとしているのだ。
城に戻れば、またあの地獄が始まる。
今度は今まで以上の屈辱と苦痛が待っているだろう。この男は自分の弱さを隠すために、より一層残虐になるはずだ。
──ああ、そうか。
アヴィアナはすとん、と腑に落ちた。
帰らなければいいのだ。
この男を連れて帰る必要など、どこにもない。
彼女の右手にはまだ魔力が残っている。
微々たるものだが人の命を一つ奪うくらいなら造作もない量だ。
アヴィアナの中で、何かがカチリと噛み合った。
それは雪崩が起きる瞬間のような、静かで、しかし決定的な崩壊の音だった。
風が凪いだ。
馬の蹄の音だけが雪原に響く。
周囲の兵士たちは自分たちのことで精一杯だ。誰も王のことなど見ていない。
これは母がくれた機会かもしれない。
この静寂な冬の世界が彼女に「やれ」と囁いている。
「……陛下」
アヴィアナはそっと右手を王の背中に添えた。
分厚い甲冑の上からでも、その震えが伝わってくる。
「なんだ! 言い訳なら聞かんぞ!」
グルンベルドが唾を飛ばして怒鳴る。
「お寒くはありませんか?」
アヴィアナは愛おしげに囁くように言った。
その声は鈴を転がしたように澄んでいて、戦場には不釣り合いなほど穏やかだった。
「あ? 何を言って──」
王が言いかけた、その瞬間。
アヴィアナの掌から、鋭利な殺意が具現化する。
詠唱破棄。
至近距離からの、一点集中。
彼女の血──冬の精の因子が大気中の水分を一瞬にして凝結させる。
生成されたのは一本の氷の槍。
それはダイヤモンドダストのように美しく輝き、そして鋼鉄よりも硬く、死神の鎌よりも鋭利だった。
──
ズプッ、という湿った音がした。
風切り音すらない。
氷の槍はグルンベルドの背中の甲冑の隙間──首の付け根あたりから、まるで吸い込まれるように侵入した。
肉を裂き、脊椎を砕き、心臓を貫通し、胸甲を突き破って前方へと飛び出す。
「が……?」
グルンベルドの声にならない呻き。
彼は何が起こったのか理解できていない。
ただ、胸の奥に冷たい異物がねじ込まれた感覚と、急速に失われていく体温を感じただけだ。
アヴィアナはその体を抱き留めるような仕草で、さらに深く、槍を押し込んだ。
内側から凍り付いていく感触。
王の体が一瞬で硬直する。
「……あ、……」
グルンベルドがゆっくりと首を回そうとする。
その瞳がアヴィアナを捉えた。
そこにあるのは驚愕。
そして信じられないという色。
まさか己の所有物である女が。
絶対的な支配下にあったはずの玩具が牙を剥くなど。
アヴィアナは微笑んだ。
それは雪の結晶のように冷たい笑みだった。
「さようなら、陛下」
彼女はまるで恋人に別れを告げるように、優しく言った。
「貴方のいないノルンはきっと今よりも少しだけ、静かで美しいでしょう」
グルンベルドの瞳から光が消える。
巨体がゆっくりと傾く。そしてアヴィアナの手を離れ、馬からどうと滑り落ちた。
ドサッ。
雪の上に黒い塊が転がった。
グルンベルドは虚空を掴むように手を伸ばし、二度、三度と痙攣し、そして動かなくなった。
胸から生えた氷の槍が北国の弱い太陽の光を反射して、残酷なまでに美しく輝いている。
周囲の兵士たちが異変に気付いてざわめき始める。
だがアヴィアナは気にも留めない。
彼女は馬の手綱を握り、空を見上げた。
鈍色の雲の隙間から、まだ微かにあの光の残滓が感じられるような気がした。