◆
闇が澱んでいる。
それは単なる光量の欠落ではない。視覚を遮断する黒幕としての物理的な暗闇などではなく、より根源的で、より粘着質な、世界そのものの裂け目のような闇であった。
その闇は腐った水が滞留する沼の底のように、あるいは何百年も開け放たれていない地下納骨堂の空気のように重く、湿り気を帯びて、そこに在るものの肺腑を内側から侵食していく。
呼吸をするたびに、鉄錆と吐瀉物と、そして古い精液の臭いが混じり合った冒涜的な空気が気道を焼き爛れさせていくような錯覚に陥る。
境界が曖昧だ。
此岸と彼岸。
現と夢。
自己と他者。
それらを隔てる薄皮一枚の防壁がドロドロとした闇の侵食によって融解し、混濁し、混沌とした泥濘となって意識を絡め取ろうとしている。
アステール公爵邸の北西、使用人に割り当てられた区画の一室において、フェリは弾かれたように上半身を起こした。
肺が痙攣し、喉がひゅ、と枯れた音を鳴らす。
じっとりと濡れた肌着が冷たい皮膚に張り付いていた。その不快な粘着感はまるでかつて自身の体表を覆っていた他者の体液──脂や、泥や、汚濁の記憶を呼び覚ます触媒のようでもあった。
また、見たのだ──あの夢を。
毎夜毎夜執拗に繰り返される、フェリという個体がかつて「物」であった時代の、忌まわしい記憶であった。
◆
夢の中の世界は常に揺れていた。
ガタゴト、ガタゴトと、車輪が轍を噛む音が響く。そこは鉄格子に囲まれた狭い檻の中であり、光の届かぬ箱の中であった。
フェリには名前がなかった。
デルフェン種──闇に生きるその希少な種族の名だけが彼女を定義する唯一の記号として機能していた。浅黒い肌。尖った耳。妖しく光る瞳。それらは彼女の個性ではなく、商品としてのスペックであり、値札に書き込まれるセールスポイントに過ぎなかった。
だが彼女の美貌は、彼女にとって呪い以外の何物でもなかった。その肢体が美しく育てば育つほど群がる蝿共の欲望は肥大し、彼女を貪り食わんとするからだ。
売られた先は肥え太った豚のような商人であったり、加虐趣味を持つ貴族の放蕩息子であったり、あるいは酒臭い傭兵団の幕舎であったりした。
だが場所は変われど、行われる儀式は常に同じである。
開かれる。
こじ開けられる。
貫かれる。
フェリの意思など介在する余地はない。彼女はただの「穴」であった。
排泄のための穴と、生殖のための穴。その二つに、男たちの醜怪な欲望が交互に、あるいは同時に捻じ込まれる。痛みはあった。裂けるような痛み、焼けるような痛み。だがそれも回数を重ねるごとに摩耗していく。心という軟弱な器官は早々に砕け散り、後にはただ、外部からの刺激に反応して痙攣するだけの肉塊が残された。
──イイ声で鳴け。
──もっと締まりを良くしろ。
──壊れるまで使ってやる。
罵倒と嘲笑。肉を打つ音。粘液の混じる水音。
それでもフェリは媚びなかった。どれほど肉体を汚されようとも、その瞳の奥に宿る冷たい光だけはどうしても消すことができなかった。虚無を見つめる瞳。あるいは世界そのものを呪うような瞳──それが所有者の癇に障った。
「気に入らないな」
男は言った。
「その目も。その手も。その足も。道具の分際で、意思を感じさせる部位など不要だ」
冷たい刃物の感触。骨を断つ、鈍く、湿った音。
右腕が落ちた。
床に転がる自分の腕を見て、フェリは奇妙なほど冷静に、「ああ、ゴミが落ちている」と思った。それはもはや自分の一部ではなく、切り離された肉塊に過ぎなかったからだ。
続いて、左腕が。右脚が。左脚が次々と切断されていく。
さらに男はフェリの口から舌を引き出した。
呪詛を吐くことも、助けを呼ぶことも、あるいは客の機嫌を損ねるような言葉を発することもできぬよう、根元から切り取ったのだ。
ごぼり、と口内が血で満たされる。呼吸をするたびに鉄の味が喉に張り付く。
そうしてフェリは文字通りの
抵抗することも、逃げることも、言葉を発することもできない。ただ与えられる快痛と屈辱を受け入れ、貪り、中に出されたものを垂れ流すだけの有機的な袋。
奴隷商人の元へ戻されたフェリはもはや商品としての価値すら失っていた。薄暗い地下牢の隅に転がされ、腐敗を待つだけのゴミ。蠅がたかり、鼠が傷口を齧る。自身の排泄物にまみれ、死臭を纏いながら、フェリは意識の底で自身の終わりを願っていた。
◆
フェリは震える手で自身の顔を覆った。
ある。
指がある。
動く。
腕がある。足がある。
口の中に、舌がある。
アステール公爵邸。彼女に与えられた部屋でフェリは自身の存在を再確認した。そこには腐臭もなければ、暴力の気配もない。
深い溜息をつく。それは安堵のため息であり、同時に失望のため息でもあった。
彼女はこの悪夢を厭わない。憎まない。否定しない。なぜならばこの地獄があったからこそ、彼女はハインに出会うことができたのだから。
もしフェリが五体満足なままつまらない愛玩奴隷として生涯を終えていたならば。あるいはもっと早い段階で死を迎えていたならば。ハインの目に留まることは決してなかっただろう。
あの日──腐臭漂う地下牢の汚物と汚泥の底で。手足を失い、達磨となって転がっていた肉塊を、ハインは見つけたのだ。その瞳に同情はなかった。憐憫もなかった。嫌悪さえもなかった。あったのはただ、壊れた時計を見つけた子供のような、無垢で、それゆえに残酷な好奇心だけ。
『ほう、これは興味深いな。デルフェン種か』
ハインはそう言い、ゴミを拾うような手つきでフェリを購(あがな)った。
そして実験材料として扱った。
人間として救ったのではない。「物」として、その構造に興味を持ち、修理を試みたに過ぎない。
だがフェリにとってはそれこそが救済であった。
人間的な優しさなど、彼女の深い絶望の前では無力だ。「可哀想に」という言葉など、傷口に塩を塗るだけの欺瞞に過ぎない。だがハインは違った。ハインはフェリを徹底的に「物」として扱い、魔術という理によって、再構築したのだ。
激痛──細胞の一つ一つが沸騰し、骨が軋み、神経が焼き切れるような、再生の苦しみの果てに、彼女は取り戻した。
手足を。言葉を。そして己という器を。
──若様は神だ。
フェリはそう思う。
否、神という言葉すら生温い。では何なのか──フェリは今もそれを考え続けている。
フェリは窓辺へと歩み寄り、硝子越しに見える夜空を見上げた。
彼女の脳裏に、先日の光景が蘇る。
極北の地、ノルン王国の大氷原。そこで相対したあの異形の存在。
フェリの鋭敏な感覚は一目見た瞬間に理解していた。
あれは竜ではない。この世界の生態系に属する生物ではない。虚空から迷い込んだ異質の怪物。
存在の桁が違う。纏う空気が違う。
まるで邪悪な異界の神が、竜という仮面を被ってこの世に顕現したかのような根源的な恐怖をフェリは感じた。
──でも若様は。
あろうことか、ハインはあの化け物を「劣等」と断じた。
そして放たれた、あの光。
あれは世界を焼き尽くす神罰の光であった。
あの光を見た瞬間、フェリは理解したのだ。
あの竜が「外なる神」であるならば。それを退け、あまつさえ追撃しようとした若様はそれをも凌駕する「何か」であると。
神よりもはるかに尊い存在に仕えるきっかけがあの悪夢のような過去であるならば、むしろそれは祝福であったと言えるのではないか──四肢を失い、汚泥を啜(すす)ったあの日々があったからこそ、今の歓喜がある。
フェリの身体が粟立つ。
恐怖ではない。歓喜である。畏怖である。
そして──暗く、粘りつくような、情欲である。
フェリは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
整った顔立ち。健康的な肌艶。だがその双眸の奥には決して消えることのない暗い炎が揺らめいている。
彼女には一つの直視できない心の闇があった。
それは奉仕の念という美しい言葉で飾られた、醜悪な欲望だ。
──若様に、全てを捧げたい。命も、魂も、この再生された肉体も、何もかもを。
だがその「捧げ方」が問題なのだ。
フェリはハインに守られたいのではない。愛されたいのでもない。大事にされたいのでもない。端的に言うならば、壊されたいのだ。
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かつてあの名もなき男たちにされたように。
いや、それ以上のことを。
犯され、嬲られ、引きちぎられ、ただただ「穴」として消費されること。
その手で私という存在を解体してほしい。
「物」として見下ろしてほしい。
「人」としての皮を剥ぎ取り、ただの肉塊に、ただの穴に還元してほしい。
犯され、嬲られ、引きちぎられ。
言葉を奪われたい。手足を奪われたい。
若様のためだけの、生きた肉人形になりたい。
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もしハインが望むならフェリは喜んで自らの四肢を切り落とし、舌を噛み切るだろう。そして達磨になった体でハインの足元を這いずり回り、ハインの靴の裏を舐めることに至上の悦びを感じるだろう。
──ああ、若様。
フェリは熱に浮かされたように、虚空に向かって手を伸ばす。
月光の中で、彼女の指先が震える。下腹部に、重く、甘い疼きが走る。
それは背徳的な興奮だった。
──でも若様は高潔なお方。
そう、ハインは母であるヘルガを一心に愛し、他の誰にも性的な関心を向けない。フェリのこともあくまで「有能な道具」としてしか見ていない。だからこそ、フェリのこの欲望は決して叶えられない。叶えられてはならないのだ。
もしハインがフェリに劣情を抱けば、それは彼が「フェリの神」の座から降りることを意味する。ハインがただの「男」になり下がってしまう。それはフェリにとって、信仰の崩壊だ。
だからこの想いは矛盾している。
ハインには清廉潔白な神であってほしい。けれど、自分の体は彼によって穢されたいと叫んでいる。この引き裂かれるような葛藤こそがフェリの歪んだ情念をさらに燃え上がらせる薪となっていた。
ハインがヘルガには決して向けられない、男としての荒々しい衝動、鬱屈(うっくつ)、嗜虐心。それらすべてを一身に受け止めたい──そう、フェリは熱望、いや、渇望していた。
──綺麗なものはヘルガ様に。汚いものはすべてこの私に。私の前の穴も、後ろの穴も、口も、耳も、鼻も、すべての穴は若様のためにある。私の血も、肉も、骨も、内臓も、すべては若様の所有物。
フェリは自らの寝間着の裾(すそ)に手をかけた。
冷たい夜気の中に熱を持った肌が露わになり、指が秘所へと伸びる。
──使ってください、若様。
──汚してください、若様。
──壊してください、若様。
フェリは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのはハインの冷徹な眼差し。
その幻影を想い、彼女は自身の指を突き立てる。
一度、二度、三度。
かつて男たちに乱暴に扱われた記憶をなぞるように、痛みすら感じるほどの強さで、自身を蹂躙する。
痛みは祈りとなる。
快楽は供物となる。
「……あ、ぅ……っ、わか、さま……ッ」
音にならない声で、主の名を呼ぶ。
絶頂の瞬間、フェリの意識は白く弾け、世界が反転する。
そこには筆舌に尽くしがたい法悦があった。
道具として使い潰され、ゴミのように捨てられる未来への、確かなる予感があった。
フェリは荒い息を吐きながら、シーツに沈み込んだ。
月光は相変わらず冷たく、彼女の罪深い行為を静かに照らしていた。
いつかハインがその気まぐれで、フェリを壊してくれる日を夢見て──フェリは再び、浅い眠りへと落ちていった。その寝顔は悪夢を見た直後とは思えないほど安らかで、そして聖女のように清らかだった。