※この作品はR-18です。

悪役令息はママが好き   作:埴輪庭

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★ママ③

 ◆◆◆

 

 返書を出してから三日が経った。

 

 ジギタリスからの回答は驚くほど素早く、そして予想に反してあっさりとしている。

 

 グラマンの同席を快く受け入れる旨が記されている。

 

 場所は帝都中央区の「銀翼亭」。帝都の貴族が密談に使う高級料亭であり、個室は魔術による遮音と秘匿の結界が幾重にも張り巡らされていた。銀翼亭を経営するのはどの派閥にも属さぬ中立の商人ファルケンハウス家で、ここでの会話が外部に漏洩した例は創業以来一度もない。帝国の密約や和平交渉の多くがこの料亭の個室で取り交わされてきたのであり、帝都の裏の歴史そのものが壁に染み付いた場所と言ってよい。

 

 日取りは七日後の夕刻。

 

 条件を呑んだということは、宰相もまた本気で話をしたいのだろう。少なくとも、この場で悪辣な罠を仕掛ける意図は薄いとヘルガは判断した。銀翼亭という場所の選択がそれを裏付けている。あの場所で不正を働けば、中立の商人たちの信頼を永久に失うことになる。いかにジギタリスといえど帝都の商業網を敵に回すほどの愚は犯すまい──というのがグラマンの見立てであった。

 

 ◆

 

 約束の日。

 

 帝都の時計塔が七つ目の鐘を打ち終える頃、ヘルガの馬車が銀翼亭の前に滑り込んだ。

 

 馬車を降りたヘルガの傍にはグラマンが影のように控えている。

 

 銀翼亭の内装は贅を凝らしつつもどこか抑制的で、壁には深い緑色の絹が張られ、天井からは柔らかな魔灯が吊り下げられている。床は黒檀の一枚板であり、磨き上げられたその表面に灯りがぼんやりと映り込んでいる。

 

 案内された個室は八畳ほどの広さで、中央に長方形の卓が一つ、その両側に椅子が二脚ずつ据えられている。卓上にはすでに茶器と軽い肴が用意されていて、銀翼亭の名物である塩漬けの乾果が小皿に盛られていた。南方のオルティア王国から輸入された高級品であり、甘みの中に塩気が走るこの菓子は長時間の密談において口を潤すのに適しているとして外交官たちに好まれている。

 

 先客はいなかった。

 

 ヘルガとグラマンが席に着いてから、ほどなくして個室の扉が開いた。

 

 入ってきたのは一人の女である。

 

 ジギタリス・イラ・マリシアは、想像していたよりも遥かに華奢な体つきをしている。帝国宰相という肩書きから連想される威圧感や重厚さは、その外見からはほとんど感じ取れない。むしろ社交界で見慣れた貴婦人のうちでも小柄な部類に分けられるだろう。

 

 だが、その目だけが違う。

 

 深い紫の瞳。マリシア侯爵家の血筋を示すその色は、アステール家の紫紺とは異なり、どこか毒々しい艶を帯びている。まるで夜陰に咲く毒花が露を含んだかのような、妖しく危うい光を宿した瞳であった。

 

 そしてヘルガの目は気づいてしまう。あの目は何かを見慣れている人間の目だ。人の弱みを見つけることに長けた人間だけが持つ、獲物を選別するような冷たい光が瞳の奥にちらついていた。

 

「ヘルガ様。本日はお忙しい中、足をお運びくださいまして誠にありがとうございます」

 

 ジギタリスは微笑んだ。

 

 それは完璧な微笑みであった。唇の弧、目尻の下がり具合、首の傾げ方──すべてが寸分の狂いもなく調律されている。長い歳月をかけて男たちの前で磨き上げてきた笑みだと、ヘルガは直感する。棘も毒も感じられないからこそ、それは仕込まれた表情なのだ。

 

 ヘルガの背筋を一条の冷たいものが走り抜ける。

 

「こちらこそ、わざわざお声がけいただきまして。グラマンの同席もお許しくださり感謝いたしますわ」

 

「ええ。お連れになるのは当然のことでしょう? 護衛なしにこのような場へいらっしゃるほど、ヘルガ様も愚かではあるまいと存じておりましたから」

 

 柔和な声音で言い切ったそれは褒め言葉のかたちをした値踏みであり、愚かでない者にだけ相手をする価値がある──つまり弱者には用がないという宣言を、ごく自然に含んでいる。ヘルガはそれを聞き流した。

 

 ジギタリスはグラマンにも視線を向けたが、柔和というよりは品定めの目だった。老いた肉体の奥に潜む知性の鋭さを推し量るように、一瞬だけ紫の瞳が細められる。グラマンは深く一礼した。その鉄面皮の奥ではすでにあらゆるものを観察し、分析し、記録する作業が始まっているはずである。

 

 三者が席に着くと、ジギタリスは茶碗を取り上げた。唇に運ぶ仕草は、華奢な指先がことさら卓上を飾るように計算されていて、乾果を一粒つまんで口元へ運ぶ動作にも何一つとして無駄がない。長い歳月をかけて体に刻み込まれた所作だ。

 

 沈黙が一呼吸分だけ流れた。

 

 そしてジギタリスは茶碗を置き、真っ直ぐにヘルガを見据えた。

 

「率直に話しますわね」

 

 先ほどまでの柔和さが、脱ぎ捨てた衣のように綺麗に消え去る。残ったのは帝国宰相の顔だ。美しいが温度が無い。

 

「わたくしとアステール公爵家の関係を、そろそろ改めるべきではないかと考えておりますの」

 

 ヘルガは表情を変えなかった。予測の範囲内ではある。だが「改める」という言葉が指し示す方角がどの程度まで振り切れているのかは、まだ分からない。

 

「改める、と仰いますと」

 

「それについてはまず、過去の整理から始めなくてはなりませんわね」

 

 ジギタリスは姿勢を正した。細い肩が真っ直ぐに伸び、紫の瞳に静かな覚悟が灯る。

 

「わたくしとアステール公爵家の間には拭いがたい確執がございましたわ。否定はいたしません。ですけれど──」

 

 そこでジギタリスの口許がかすかに歪む。嫌悪を飲み下すような一瞬の所作だった。

 

「あの確執の根は、先代当主ダミアン殿にあったと申し上げてよろしいかと存じますの」

 

 ヘルガの背筋を、先ほどとは質の異なる冷たさが這い上がる。

 

 ダミアン。夫の名前だ。もう何年も口にしていない名前であり、口にする必要もない名前である。あの男はアステール公爵家の当主という座にありながら放蕩と暴政を極め、領民を苦しめ、亜人との協調路線を踏みにじり、帝都の社交界においても悪評ばかりを撒き散らしていた。そしてヘルガに対しても──。

 

 指先が膝の上で微かに強ばる。

 

「ダミアン殿は──弱い方でしたわ。魔術師として栄達を極めながらも、人としての弱さゆえに道を誤った。そして最期はどこぞの刺客に()()()()()。……そうでしたわね?」

 

 ヘルガは頷く。幼いハインが()()()()()()など信じてもらえないだろう。ゆえに、対外的にはダミアンは暗殺された──という事になっている。

 

「魔力だけではなく、権力という道具を持ちながら、それを振り回すだけで使いこなせもしない──ある種の無能は罪だとわたくしは思いますの」

 

 嫌悪の底に、もっと暗い何かが潜んでいた。ジギタリスは弱い人間を軽蔑しているのではない──憎んでいる。それも、かつて弱さに踏みにじられた者の、身を焦がすような体験に根差した憎悪だ。ヘルガは帝国宰相の瞳の奥に一瞬だけちらついた暗い火をたしかに見た。

 

 ヘルガは表情を動かさない。夫を貶められているのだが、それは事実であるがゆえに反論する気が起きない。むしろ帝国宰相の口からこの評価を聞かされることで、自分の過去の苦しみが追認されたかのような奇妙な安堵さえ覚えてしまう。

 

「ですが、今のアステール公爵家は違いますわ」

 

 ジギタリスの手が卓上で組まれ直される。声の温度が半歩だけ上がる。

 

「ヘルガ様が当主代行をお務めになられてから、アステール家は帝都防衛を揺るぎなく担い、領地の運営でも目覚ましい成果を上げておいでですわ。弱かったものが強くなる──それはわたくしがもっとも好むかたちの物語ですの」

 

 好む、という言葉の選び方に、ヘルガは引っかかりを覚えた。強くなった者を好む──そう言い換えれば自然に聞こえるが、ジギタリスの声音にはもっと切実な響きが籠もっている。

 

 ジギタリスはそこで一拍息を置いた。その間に紫の瞳が微かに光を増したのを、ヘルガは見逃さなかった。

 

「そして何より──ご嫡子のハイン殿ですわね」

 

 この一語に、ヘルガの心臓が一拍だけ速く打つ。

 

 息子の名が宰相の唇から紡がれるだけで体が反応してしまう。それは母としての誇りなのか、あるいは我が子が敵の牙城に入ったという本能的な警戒なのか、ヘルガ自身にも判じかねた。

 

「ダミアン殿が当主であった頃のアステール家には、正直申し上げて何のご興味もございませんでしたわ。弱い者にかかわっている暇はありませんもの」

 

 ジギタリスは組んだ指を解き、卓上にそっと手を置く。華奢な指先が卓の木目をなぞった。その仕草には無意識のうちに相手を引き込む蠱惑が滲んでいて、数え切れぬ男たちの前でそうしてきた身体の記憶がそこに凝縮されていた。だがヘルガは女であり、その種の色香に絡め取られはしない。

 

「今は違いますわ。ヘルガ様とハイン殿のアステール家であれば、敵であり続けるよりは手を取り合うほうが──帝国のためにも、わたくし自身のためにも、よほど意義がございましょう」

 

 ヘルガは相槌を打たない。その代わりグラマンをちらと見る。老家宰は鉄面皮を崩さないが、目の奥の光が鋭みを増しているのにヘルガは気がついた。

 

「ありがたいお言葉ですわ。ですが率直に申しまして、にわかには信じがたいお話でもございます。これまで人種序列法の施行において亜人たちがどれほどの苦しみを──」

 

「ええ、存じ上げておりますとも」

 

 ジギタリスが遮った。その声には明確な感情が滲んでいたが、後悔とも苛立ちともつかない。むしろ、弱者を切り捨ててきた自分の過去を事実として認めることに何の躊躇も感じていない人間の声色である。

 

「わたくしの施策が多くの方を苦しめてきたことは否定いたしません。わたくしはあれを必要なことだと判断して行いましたの。ですが今、お互いの傷口を突き合う暇がわたくしたちにあるとは思えませんわ」

 

 ジギタリスは椅子の背にもたれ、組んだ指の上に顎を載せた。

 

「実を申しますと、帝国は今、揺らいでおりますの。強いままでいられるかどうかの瀬戸際に立たされている──とわたくしは認識しておりますわ」

 

 ヘルガの肌が微かに粟立った。

 

「揺らいでいる、と仰いますと」

 

「ご存知でしょうか、陛下のご容体のことを」

 

 ジギタリスの声が一段低くなる。

 

 帝国では皇帝の健康に関する情報は国家機密に準じる扱いを受ける。公式にはヴァルフリード帝は壮健であるとされているが、宮中の内情に通じた者たちの間では、もう数年前から帝の体調が思わしくないという噂が囁かれている。

 

「陛下は」

 

 ジギタリスの目に奇妙な光が宿る。篭絡してきた男の名前を口にする際の──冷たく、どこか嘲るような、それでいて微かに自嘲を含んだ目だ。

 

「もう、お目覚めにならないでしょう」

 

 その言葉が密閉された個室の空気を一瞬にして凍りつかせる。

 

 ヘルガの隣で、グラマンの呼吸がかすかに止まったのが分かる。

 

「……確かな情報でしょうか」

 

「わたくしが自分の目で確認いたしましたわ。報告書越しの話ではございませんの。陛下の御前に立つことを許される者は限られておりますけれど、わたくしはその一人ですから」

 

 ジギタリスは感情を削ぎ落とした声で述べる。ヴァルフリードを篭絡し、その権力を背景にのし上がった女が、今や傀儡の主人が朽ちようとする現実を語っている。だがそこに惜別の念はない。使い終わった道具を報告するような平坦さだけが声に乗っていた。

 

「御意識はすでに混濁しておいでで、皇后陛下のお語りかけにもお応えになりませんわ。宮中医官のお見立てではあと数ヶ月から半年とのことですが、わたくしの見る限りではそれより短い」

 

 ヘルガは唇を引き結ぶ。

 

 皇帝崩御。

 

 それが現実のものとなれば、帝国は否応なく皇位継承の渦中に投げ込まれることになる。

 

「次代につきましては」

 

 ジギタリスは卓上に指を立て、順に折っていく。それぞれの名を告げるたびに指の力の入り方が微妙に違うことに、ヘルガは気がついた。

 

「第一皇子ルドヴィーク殿下。お武芸に優れ、保守派のご支持も厚い方ですわ。第一皇女カテリーナ殿下は聡明で外交の手腕がおありですの。第二皇子ヴィクトル殿下は──お温厚な方ではいらっしゃいますけれど」

 

 そこでジギタリスの口許がほんの一瞬だけ歪んだ。

 

「温厚なだけでは帝位は守れませんわ」

 

 弱い者への嫌悪が体の芯から滲み出るような、すさまじい断定だった。

 

「そして第二皇女アナスタシア殿下。お若くしてなお宮廷内に独自のご人脈を構築しつつある才媛ですわね」

 

 四本の指が折られ、拳が卓上に置かれる。

 

「四人のお候補がいて、遺言はなく、そして帝国には明確な継承法が存在しない」

 

 ガイネス帝国の皇位継承は、他国とは比較にならぬほど不安定な構造を内包している。帝国創設期においては長子相続が慣例とされていたものの、三百年前の「双帝の乱」以来、その慣例は事実上崩壊していた。以後、皇位は十二公家の合議と皇帝の指名によって決まるという不文律が形成されてはいるが、合議の手続きすら成文化されたものは存在しない。要は、力と権謀術数を持つ者が帝座を奪い取るという原始的な争奪戦の余地が常に残されているのだ。

 

「暫くの間、帝国は弱る──とわたくしは見ておりますわ」

 

 弱る。ジギタリスがその言葉を使うときの声の底には、研ぎ澄まされた刃のような嫌悪が走っている。この女にとって弱さとは世界で最も忌むべきものなのだとヘルガは悟った。帝国が弱ることへの危機感は政治家としての合理的判断であると同時に、もっと根深い──おそらくは個人的な恐怖に根差している。

 

「各皇子皇女はそれぞれのお後ろ盾を固めにかかるでしょうし、それに伴って帝国の諸勢力も否応なく色分けを迫られることになりますわ」

 

 彼女は茶碗を手に取り、一口啜ってから続ける。指先が茶碗の縁をなぞる仕草は優雅だが、なぞる速度に微かな乱れが混じっている。焦りを隠しきれていない。

 

「さらに申し上げますと──十二公家も一枚岩ではございませんの」

 

 ヘルガの指先が微かに冷える。

 

「北のエーデルヴァイス公爵家と東のシュヴァルツ公爵家が、近年急速にお距離を縮めておいでですわ。昨年の秋から冬にかけて、少なくとも四度にわたり密使を交わしているという情報をわたくしは掴んでおりますの。表向きは国境防衛の連携協議ということになっておりますが、北方と東方の二大公家が同時にお動きになることの意味は──」

 

 ジギタリスはそこで微かに笑う。それは笑みというよりは侮蔑の変種だ。

 

「歴史を読める方には申し上げるまでもありませんわね」

 

「三百年前と同じですか」

 

 ヘルガが呟くように言う。双帝の乱。北方の諸侯が東方と結び皇位を争った内乱である。

 

「そこまで大事になるとは限りませんわ。ですが、可能性を排除できるほど楽観も許されませんでしょう」

 

 ジギタリスは間を置かずに続ける。

 

「加えてグラオス公爵家。南西での独自の貿易路の確保──あれは一見すると経済的な自立策に映りますけれど、帝都の物流から独立した補給網の構築でもございますの。有事の際にも帝都からの物資に依存せずに領地を維持できる態勢を整えている。わたくしにはそう読めますわ」

 

 三家。帝国の北と東と南西。

 

 ヘルガの頭の中で地図が広がった。十二公家のうち三家が独自の動きを見せている。残る家々のうちアステール家とサリオン家は亜人貴族派を形成しているが帝都防衛という任務に縛られている。宰相派に近い家もあれば、日和見を決め込んでいる家もある。

 

「わたくしが恐れておりますのは」

 

 ジギタリスの声にこれまでにない力がこもった。恐れる、という動詞を口にすること自体が、この女にとってはどれほどの代償を伴うものなのか──ヘルガにはその重みが伝わった。弱さを極端に忌避する人間が、自らの恐怖を開示するということは、それだけ事態が差し迫っているということだ。

 

「合議が機能しなくなることですわ。合議が機能しなければ皇位はお力で決まる。そうなれば帝国は──」

 

 ジギタリスの言葉が途切れる。茶碗を卓に戻す所作は静かだったが、華奢な手首の筋が一瞬だけ強ばったのをヘルガは見た。

 

「帝国が内から崩れることだけは許されませんの。わたくしは弱い帝国を見たくない。これまで反目し合ってきた勢力同士が手を取るべきだと──本気で、そう考えておりますわ」

 

 その言葉がどこまで本心であるのか、ヘルガには分からない。

 

 グラマンがそこで初めて口を開く。

 

「宰相閣下。大変興味深いお話でございます。具体的にはいかなる形での関係改善をお考えでいらっしゃいますか」

 

 ジギタリスの視線がグラマンに向く。老人を値踏みする目は一瞬で、すぐに実務的な色に切り替わった。弱者を相手にする忍耐を無駄と見做す人間にしては、グラマンに対しては比較的丁寧な態度を取っている。この老人の力量を認めているのだろうとヘルガは思った。

 

「人種序列法についてお話しましょう」

 

 ジギタリスが指を一本立てる。

 

「法の全面撤廃をこの場でお約束することは難しゅうございますわ。宰相府内にも様々なご意見がございますし──何より、わたくしが主導してきた法を自分で丸ごと否定するなど、さすがのわたくしでもそこまでの厚顔は持ち合わせておりませんの」

 

 自嘲とも開き直りともつかぬ言い方だったが、その裏には別の含みがある。全面撤廃をしないのは本心としても亜人を排除したい気持ちが残っているからだ。幼少期から植え付けられた嫌悪は、政治的判断だけで容易に覆せるものではない──ヘルガにはそこまで読めた。

 

「ですが、段階的な緩和策には着手できますわ。具体的に申しますと、共有地における亜人の居住制限の撤廃。亜人商人の帝都内お取引における追加課税の廃止。──この二点につきましては、すでに宰相府内でお話を通し始めておりますの」

 

 亜人貴族派が何年も求め続けてきた改善案のうち、最も優先度の高い二項目である。居住制限は亜人たちの生活圏を事実上隔離する機能を果たしており、追加課税は亜人商人の経済活動を長年にわたって圧迫してきた。それをジギタリス自身の口から緩和を検討するというのだから、これは驚くべきことだ。

 

「……大変前向きなお話ですわね」

 

 ヘルガは慎重に言葉を選ぶ。喜びを見せてはならない。この女の前で手の内を晒すことは交渉の余地を与えることに等しいのだから。

 

「前向きではございますが、まだ道半ばですわ。実現のためには十二公家の賛同も必要となりましょう。その際にアステール家のお力添えをいただければ──心強い」

 

 最後の二語に力を込める言い方は、明らかに計算されている。心強い、という言葉にジギタリスが一体どれだけの意味を詰め込んでいるのか、ヘルガには測りかねた。

 

 なるほど、とヘルガは胸中で呟く。

 

 これが取引の骨格だ。亜人政策の緩和と引き換えに、アステール家を味方につけたい。皇帝崩御という激動を前にして、宰相は足場を固めにかかっている。

 

「お気持ちは理解いたしました」

 

 ヘルガは穏やかに、だが結論を急がぬ声音で応える。

 

「ただこのような重大なお話を伺いまして、はいそうですかと即答できるものでもございません。持ち帰って検討させていただきたく存じます」

 

「もちろんですわ。──わたくしは弱い者に急かされるのも、弱い立場で急かすのも好みませんの。お互い、十分に考えてからのほうがよろしいでしょう」

 

 ジギタリスは微かに笑む。だがその笑みが消える前に、瞳の奥に別の光が灯るのをヘルガは見逃さなかった。

 

「ところで、ヘルガ様」

 

 声の調子が変わっている。公的な議論の硬質さが消え、もっと個人的な──欲を滲ませた声になっていた。ジギタリスがこの声を使うとき、かつて何人の男がこの響きに絡め取られてきたのかと思うと、ヘルガの肌が本能的に粟立つ。

 

「ハイン殿のことを少しお伺いしてもよろしいでしょうか」

 

 ヘルガの内臓がすっと冷える。

 

 会談の本題が終わった後の雑談として切り出すには、あまりにも計算された間合いである。公式の議題で相手の警戒を解いておいてから本当に知りたいことを訊く。男を操り慣れた女の常套手段だ。ただし今回の相手は男ではなく、母である。

 

「ハインのことですか」

 

「ええ。杖比べの折にはわたくしもあの錬魔場で拝見しておりましたわ。あのオイゲンが膝を突くまでの一部始終を、ね」

 

 ジギタリスの声の底に、微かな熱を帯びた何かが這い込んでくる。

 

「ですがハイン殿と直にお言葉を交わす機会はございませんでしたの。わたくしはあくまで観覧席から見守っていただけでしたから。──それがずっと惜しかったのですわ」

 

 ジギタリスの瞳に光が増した。紫の虹彩の奥で、何かが燃えている。指先は卓上で小さな円を描いていた。無意識の所作なのだろうが、その指の動きには落ち着きがない。

 

「わたくしは帝国宰相として帝国内の戦力を正確に把握しておく務めがございます。ハイン殿のお力が窺い知れぬほどのものであるならば、それは帝国にとっての資産ですわ」

 

 ヘルガは意識して呼吸を整える。

 

 この女は今、自分の息子の力を探ろうとしている。帝国宰相としての立場からすれば当然の関心事ではあるのだろう。だがその問いの奥に別の意図が透けて見えるようで、ヘルガの母としての本能が激しく警鐘を鳴らしている。

 

「ハインは確かに魔術において優れた才覚を持って生まれましたわ」

 

 ヘルガは言葉を選ぶ。嘘は吐かない。だが手の内をすべて晒すつもりもない。

 

「アステール家は代々の血継魔術を受け継いでおりますし、ハインはその適性がことさらに高いようです。ですが、あの子はまだ子供ですから」

 

「そうですか」

 

 ジギタリスは頷いたが、その目は満足の色を浮かべていない。

 

「ハイン殿は学院での成績も群を抜いていらっしゃるとか。ただ──孤立していらっしゃるのでしょう?」

 

 友人は多いのか、とは訊かなかった。最初から結論を知っている口ぶりで、ジギタリスは問いを投げる。

 

「……多いとは申せませんわね。ハインは少し人付き合いが不得手なところがありまして」

 

「それはそうでしょうね。あれだけのお力があれば、周りの人間が弱く見えて仕方がないでしょうから」

 

 ジギタリスが呟く。その語尾には嫌悪でも同情でもない、もっと生々しい──共感に近い何かが乗っている。強すぎる者が周囲から孤立する感覚を、この女は知っているのだ。ただしジギタリスの場合、その強さは魔力ではなく、人を操る術を幼少の頃から身につけてしまったことによる孤立だろう。

 

「ハイン殿は本日はご一緒ではございませんの?」

 

「ええ、屋敷に残っておりますわ」

 

「あら。──お会いしたかったのに」

 

 ジギタリスがそう言ったとき、ヘルガは紫の瞳の奥にぞっとするほど生々しい光が走るのを見てしまった。それは社交辞令からはかけ離れた、明確な欲求だ。およそ、妙齢の女が子供に対して向けるべき感情ではない。

 

「機会がございましたら、ぜひ」

 

 ヘルガは当たり障りのない笑みで是を返す。だが胸の奥では棘のような警戒心が突き刺さっている。

 

 この女は息子に何を見ているのだ。

 

 帝国の戦力としてか。政治的な駒としてか。あるいは──。

 

 ジギタリスが最後に浮かべた微笑みの中に、ヘルガはそれを見る。

 

 ──救い? 

 

 その直感を、ヘルガは胸の奥深くに仕舞い込んだ。

 

 ◆

 

 帰りの馬車。

 

 窓の外を帝都の街灯が流れていく。石畳の上を走る車輪の規則的な振動が座席を通じてヘルガの思考を揺さぶっていた。

 

 グラマンは向かいの席で目を閉じている。眠っているのではない。この老人が馬車の中で目を閉じるのは、頭の中で得た情報を整理し再構成している時なのだ。

 

「グラマン」

 

 ヘルガが声をかけると老家宰はゆっくりと目を開ける。

 

「はい、奥様」

 

「あなたはどう見た?」

 

 グラマンはしばし沈黙する。馬車の車輪が石畳の継ぎ目を越える音が一つ鳴ってから、老人は口を開いた。

 

「三つの層がございました」

 

「三つ」

 

「第一に、関係改善のお申し出そのものは本気でございましょう。陛下の崩御が迫り、十二公家が揺らいでいるという情勢のご認識は事実に即しておりますし、宰相閣下がアステール家との関係を見直す合理的な理由は十分にあると存じます」

 

「二つ目は」

 

「人種序列法の緩和策。あれは餌でございます。ただし食えぬ餌ではございません。居住制限の撤廃と追加課税の廃止は亜人貴族派が長年にわたり求めてきたものです。あれを実現できるのであれば、奥様が宰相閣下との関係改善に応じたとしてもリディア様にはご理解をいただけるでしょう。あの方は実利を重んじるお方でいらっしゃいますから」

 

 ヘルガは頷く。その分析に異論はない。

 

「三つ目は」

 

 グラマンの目が僅かに細くなる。

 

「若様への関心です」

 

 ヘルガの指先が膝の上で握られる。

 

「あの問いかけは単なる好奇心ではございません」

 

 グラマンの声は抑えられていたが、確信に満ちている。

 

「宰相閣下には若様に対して含む所がある──と儂は考えております」

 

 ヘルガの喉が微かに乾く。

 

「儂が最も気にかかりましたのは、宰相閣下の目の色でございます」

 

「目の色?」

 

「若様のお話をなさるとき──宰相閣下のお目には、政治的な関心とは別種の光が宿っておりました」

 

 ヘルガの手が無意識に握られる。

 

「グラマン、あなたもそう感じたのね」

 

「はい。ただ、それがどういった類のものであるかはわかりませぬ」

 

 ヘルガは息を吐く。

 

 ハインはまだ十五歳だ。どれほどの力を持っていようと、政治の海は力だけでは泳ぎきれない。まして、あの宰相のような女に目をつけられたとなれば、息子は知らぬ間に彼女の渇望の対象にされてしまうのではないか。

 

 馬車がアステール邸の門前で止まる。ガッデムが恭しく扉を開けた。

 

「奥様、お帰りなさいませ」

 

「ありがとう、ガッデム」

 

 ヘルガは馬車を降りながら正門の奥に目を向ける。

 

 屋敷の二階。執務室の窓に灯りが見える。あの部屋でハインが待っているのだろう。母の帰りを案じて一睡もせず窓辺に立っている息子の姿が目に浮かぶ。あの子は自分が思っている以上に繊細なのだ。母の不在が長引けば長引くほど、平静を装いながらも内心では気が気でないに違いなかった。

 

「グラマン」

 

「はい」

 

「当面の方針を決めましょう。宰相閣下のお申し出は検討する価値がある。人種序列法の緩和が実現するのであれば、それは亜人たちにとって大きな前進になるわ。ただし──」

 

 ヘルガは振り返り、老家宰の目を真っ直ぐに見る。

 

「ジギタリスのハインへの関心については最大限の警戒を続けなさい。あの女が息子に何を求めているのか──力なのか、盾なのか、それとももっと別の何かなのか。それが見えるまでは胸襟を開くわけにはいきません」

 

「仰せの通りに」

 

 グラマンは深く頭を下げる。

 

「明日、リディア様にも今夜の内容をお伝えしておくべきかと存じます。亜人貴族派の同盟を維持するためにも情報の共有は欠かせませんゆえ」

 

「そうね。手配をお願い」

 

「承知いたしました」

 

 ヘルガは正門をくぐる。

 

 石畳の通路を歩きながら見上げた冬空には雲一つなく、無数の星が冷たい光を帝都に降り注いでいる。あの星の一つ一つに名前があるように、この帝国の危機にもそれぞれ名前がある。皇帝の死。十二公家の離反。さらに旧魔王軍の脅威。ヘルガはそれらの脅威・危機を想うと溜息を押しとどめる事ができなかった。──まあ、旧魔王軍についてはもう再起不能と言っても良いほど滅茶苦茶になっているのだが、それはヘルガの与り知らない事である。

 

 屋敷の扉が開いた。

 

「母上、お帰りなさいませ」

 

 ハインが立っている。身支度を完璧に整えたまま母の帰宅を待ち続けていたのだろう。紫紺の瞳に安堵が浮かび、次いですぐに母の顔色を読み取ろうとする鋭さが戻る。

 

「お疲れのご様子です。すぐにお茶を」

 

「ありがとう、ハイン。大丈夫よ」

 

「……母上」

 

 ハインの声が微かに沈む。

 

「あの宰相は母上に何を言ったのですか」

 

 政治の中身を聞いているのではない。母を不安にさせたのかどうか。ハインが問うているのはそれだけだ。紫紺の瞳の奥で何か暗い炎が揺れているのを、ヘルガは見逃さない。

 

 ヘルガは微笑んで、息子の頬に手を当てた。ハインの体温は常に暖かい。この温もりがある限り、どれほどの嵐が来ようとも乗り越えられるような気がする。

 

「なんでもないわ。少し考え事をしていただけ。明日、詳しく話すわね」

 

「……はい」

 

 ハインは頷く。だが納得はしていないのは明らかだった。とはいえ、そこでダダをこねずに素直になってしまうのが、真正のマザコンたるハインらしいといえばハインらしい。

 

 ヘルガは息子の手を取り、屋敷の中へと歩き出した。

 

 背後でグラマンが静かに扉を閉じる音がする。その音は冬の夜気の中に吸い込まれるようにして、帝都の闇に溶けていった。

 

 ◆◆◆

 

 深夜のマリシア邸。

 

 宮中の喧騒がとうに遠ざかった刻限であった。宰相ジギタリス・イラ・マリシアの私室は帝都の中心にありながら一切の雑音を寄せ付けぬ遮音の結界に覆われていて、聞こえるものといえば窓硝子を叩く冬の風と、暖炉の中で爆ぜる薪の音くらいのものである。

 

 寝台の帳は半ば下ろされ、その向こう側では銀の燭台が一つだけ灯っている。薄絹の夜着をまとったジギタリスがシーツの上に横たわり、天蓋の刺繍をぼんやりと見つめていた。

 

 深い紫の瞳には疲労と──もう一つ、名前を付けることを拒んでいる何かが渦を巻いている。

 

 三日前の銀翼亭での会談。ヘルガ・イラ・アステールとの遣り取り。あの女の顔に浮かんだ警戒と困惑。そしてあの話題を切り出した時──息子のことを訊ねた時に走った、母の直感による鋭い拒絶。

 

 ハイン・セラ・アステール。

 

 その名が脳裏に浮かぶたびに、ジギタリスの胸の奥で何かが鈍く疼く。杖比べの錬魔場で見たあの少年の姿が瞼の裏に焼き付いている。紫紺の瞳。黒髪。あらゆる者を虫けらと見做す傲慢。

 

 ──あの強さは。

 

 ジギタリスは寝返りを打ち、枕に顔を半分だけ埋めた。

 

 あの力が欲しいのか。あの力を支配したいのか。あるいは、あの力に──。

 

 思考を断ち切るように唇を噛み、ジギタリスは寝台の傍らに吊り下げられた呼び鈴の紐を引いた。

 

 銀の鈴が小さく鳴る。

 

 しばらくして、私室の扉が音もなく開き、一人の少年が入ってきた。

 

 エルヴィンという名の侍従だった。齢にしてまだ十四。紫がかった黒髪を後ろに流し、華奢な肩が夜着の襟元から痩せた鎖骨を覗かせている。顔立ちは整っているが、まだ幼さの残る輪郭と、ほんの少しだけ怯えを含んだ瞳が、少年をどこか捨て犬じみた可憐さで彩っていた。

 

 ハイン・セラ・アステールに──似ている。

 

 よく似ている。

 

 無論、あの凄絶な美貌の足元にも及ばない。黒髪の質も瞳の色の深度も骨格の造りも何もかもが劣る。だがジギタリスが帝都中の貴族の子弟から選び抜いたこの少年には、ハインの面影を重ねるに足る素材としての──。

 

 ジギタリスは自分の思考の卑しさに苦笑した。素材。人を素材と呼ぶ。だがそれが事実である以上、飾り立てる理由もない。

 

「エルヴィン。こちらへ」

 

 低く、だが有無を言わさぬ声。帝国宰相の声ではない。もっと私的な、女の声である。

 

 少年は慣れた足取りで寝台の縁まで歩み寄り、膝をついた。

 

「お召しでございますか、閣下」

 

「かしこまらなくてよろしい。──脱ぎなさい」

 

 ジギタリスの声は穏やかだが選択肢を与えていない。

 

 少年の指先が自身の夜着の紐に触れた。結び目を解く所作にはまだ幼い躊躇いの名残があって、ジギタリスはその不器用さを目を細めて見つめた。紐が解かれ、薄い布が肩から滑り落ちる。

 

 細い体だった。

 

 まだ男の厚みがまるでない。肋骨の浮いた胸板は呼吸のたびに上下して、その白い肌が暖炉の灯りに照らされている。華奢な腰から下腹に目を移せば、まだ産毛すら疎らなその場所で、少年のものが既に半ば硬くなりかけていた。呼ばれた時点で何を求められるかは分かっているのだ。それでも完全に勃ちきらないあたりに、少年の緊張が透けて見える。

 

 ジギタリスは寝台の上で身を起こし、薄絹の夜着を自ら脱いだ。

 

 華奢、と形容されるジギタリスの裸身は、しかし女としてのかたちを十全に備えていた。細い肩から柔らかく膨らむ胸は小ぶりだが形が良く、淡い桃色の乳首が冷気に反応してつんと尖っている。くびれた腰から骨盤にかけての曲線は成熟した女のそれであり、内腿の白さは帝都の月光よりもなお白い。

 

 少年の目が一瞬だけ揺れ、頬に紅が差した。

 

 ジギタリスはそれを見て微かに唇を歪めた。

 

 この反応が欲しかったのか。否。この反応では足りないのだ。ジギタリスが欲しいのは怯えや赤面ではない。蔑むような冷たさで見下ろしてくる紫紺の瞳──あの傲慢な視線だ。母以外のすべてを劣等と断じる、あの氷の瞳。

 

 だが今夜はこの贋作で我慢するしかない。

 

「おいで」

 

 ジギタリスが手招くと、少年はおずおずと寝台に上がった。

 

 すぐさま、ジギタリスは少年の肩を掴んで仰向けに押し倒した。華奢な見た目に反して力は強い。少年の両手首を片手で頭上に押さえ込み、もう片方の手を少年の下腹に滑らせる。指先が少年のものに触れた瞬間、エルヴィンの喉から細い息が漏れた。

 

 まだ完全に硬くなりきれていない。ジギタリスの指が根元から先端へと這い上がり、皮の上から亀頭の輪郭をなぞった。少年のものは細く、まだ大人の男のような太さも長さもない。だがジギタリスの指の中で脈動を強め、じわじわと熱を帯びていくその肉の芯に、少年の羞恥と興奮が混じり合って伝わってくる。

 

「んっ……か、閣下……」

 

「黙って」

 

 ジギタリスの掌が少年のものを完全に包み込む。掌の中でじくじくと先走りが滲み出し、指の間を粘りのある透明な液が伝っていく。少年の腰が反射的に跳ね、押さえつけた手首から力が入った。

 

「あ、あっ……」

 

 声が裏返る。その甘い響きに、ジギタリスの下腹に熱い塊が凝る。似ている。声の高さが、似ている。

 

 充分に硬くなったことを確認して、ジギタリスは少年の手首を放し、自らの体を持ち上げた。少年の腰を跨ぐようにして膝立ちになり、片手で少年のものを掴んで位置を合わせる。

 

 ジギタリス自身の秘所はすでに潤んでいた。

 

 腰を沈めた。

 

 少年のものが割れ目を押し広げ、粘膜が粘膜を飲み込んでいく。少年の細い竿がジギタリスの中に根元まで沈んだ時、二人の間から濡れた音が漏れた。ジギタリスの内壁が少年のものを締め上げ、エルヴィンの全身が弓のように仰け反った。

 

「あっ、あぁっ──」

 

 少年の悲鳴じみた喘ぎを、ジギタリスは上から見下ろしている。紫の瞳が燭台の灯りを受けて妖しく光り、その視線は少年の顔ではなく、すでにここにはいない別の誰かの面影を追っている。

 

 腰を揺らした。

 

 ゆっくりと、深く、自分の快楽を貪るための律動。少年の細いものが膣壁を擦り上げるたびにジギタリスの内腿が震え、結合部からぬちゅ、ぬちゅと水音が立つ。少年の下腹にジギタリスの愛液が垂れて光り、互いの陰部が触れ合う場所から、ぬめりのある音が途切れることなく響いている。

 

 少年の顔が歪む。快楽と困惑が入り交じった表情。両手はシーツを掴んでいて、何をすればいいのか分からないまま腰だけが反射的に跳ねている。ジギタリスの内壁が狭窄してくるたびに少年の背中が浮き上がり、声を堪えようとして失敗した嗚咽が漏れ出す。

 

「かっ、閣下、あっ、も、もう──」

 

「まだよ」

 

 ジギタリスの声が冷たく落ちた。少年が果てかけているのは分かっている。だがまだ足りない。自分の中でこの少年の体温を貪り尽くすまではやめない。

 

 腰の動きを速めた。

 

 騎乗の姿勢から前傾し、少年の胸板に手をついて体重をかける。角度が変わり、膣口が少年のものの根元を圧し潰すように締め込む。奥壁に何かが触れるたびにジギタリスの口から「はっ」と鋭い吐息が漏れた。乳房が揺れ、尖った乳首が少年の胸に触れて離れる。

 

 だが──。

 

 快楽はある。体は確かに反応している。けれどどこかで、腹の底に冷たい空洞が残っている。この少年の怯えた目がハインの目ではないことを、体が知っている。

 

 ──違う。この子ではない。

 

 その直感が快楽の波を中途半端なところで堰き止めてしまう。

 

 ジギタリスは腰の動きを止め、少年の上体を起こすように促した。繋がったまま向き合う姿勢になると、少年の目が潤んでいるのが間近に見えた。睫毛に涙の粒が引っかかっている。

 

「エルヴィン」

 

「は、はい──」

 

「好きなようにわたくしを犯してごらんなさい」

 

 少年の呼吸が止まった。紫がかった瞳が大きく見開かれ、何を言われたのか理解するまでに数拍の間を要した。

 

「わたくしが上にいる必要はないわ。お前が好きなように動きなさい。遠慮は要らない。──わたくしの体を好きに使ってみせて」

 

 それはほとんど懇願だった。

 

 少年は唾を飲み込み、震える手でジギタリスの肩に触れた。

 

 ジギタリスは自ら仰向けに倒れ、少年に場所を譲った。細い足を開き、少年を自分の体の上に招く。宰相の裸身がシーツの上に無防備に晒される。帝国宰相でありながらこの態を取ることの意味を、少年は分かっていないだろう。分かっていなくていい。

 

 エルヴィンは恐る恐るジギタリスの上に乗り、腰を合わせた。再び挿入する際に手間取り、ジギタリスが自分の指で位置を教えてやらねばならなかった。ようやく収まると、少年は浅く腰を動かし始めたが──。

 

 遅い。浅い。そして何より、怖がっている。

 

 少年の腰は前後に動いているが、その律動はあまりに均一で、変化がない。奥まで突き上げる力もなければ、角度を変える知恵もない。ジギタリスの膣はこの均一な刺激に次第に退屈を覚え、快楽の波が遠のいていくのを女は冷めた目で感じていた。

 

「もっと強く」

 

「はっ、はい──」

 

 少年は言われた通りに腰の力を強めたが、それは単に速度が上がっただけだった。深さは変わらない。角度も変わらない。腰の使い方が分からないのだ。ジギタリスの中で少年のものがぴしゃぴしゃと水音を立てているが、それは浅い部分だけを出入りする表層的な刺激に過ぎない。

 

 ジギタリスは少年の背中に腕を回した。

 

「もっと奥まで」

 

 自分で少年の尻を掴んで引き寄せてみた。少年が奥壁を突く感触があり、ジギタリスの口から短い声が漏れた。だがそれは少年自身の意思で生まれた動きではない。

 

 ──素直すぎる。

 

 言われた通りにしか動けない。自分の欲望で相手を蹂躙することができない。それはこの少年の美徳であり、同時にジギタリスにとっては最大の不満だった。

 

 ジギタリスが欲しいのは従順な牡ではない。

 

 あのハイン・セラ・アステールなら──どうするだろう。

 

 想像が鮮烈に脳裏を焼き、ジギタリスの下腹に激しい熱が走った。

 

 だがそれは目の前の少年が与えてくれるものではない。

 

「……もういいわ」

 

 エルヴィンの腰が止まった。

 

「か、閣下?」

 

「もういい。──ご苦労だったわ。下がりなさい」

 

 声は穏やかだが、指先が少年の肩を押しのけている。少年は困惑の表情を浮かべたまま体を離し、繋がりが解かれた時に小さな水音が立った。ジギタリスの秘所から溢れた愛液が内腿を伝い、シーツに染みを作る。

 

「あの、わたくしが至らぬことを──」

 

「至らなくはないわよ。お前は命令に従っただけだもの。──さあ、服を着て。湯浴みの支度をさせてあるから、使ってから戻りなさい」

 

 少年は何かを言いかけたが、結局は口を噤んで身支度を整え、深く頭を下げてから私室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 ジギタリスは天蓋を見上げたまま、丸めた拳を自分の胸の上に置いた。

 

 体は火照っている。快楽の残滓が下腹に溜まったまま発散されずにいて、それが苛立ちに変わりつつある。果てたかったわけではない。あの程度の刺激で果てるほど安くはない。だが──。

 

 ──足りない。

 

 紫の瞳が暗く燃えている。

 

 ジギタリス・イラ・マリシアは男たちを操り、弱者を踏み潰し、帝国の頂に座った。だがその全ての過程において、ジギタリスがただの一度も得られなかったものがある。

 

 それが、それこそが彼女が求めてやまないものだ。

 

 ──()ならば、それをくれるのかしら。

 

 

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