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ガイネス帝国領西端の検問を過ぎると景色が一変する。
帝国領特有の石畳と街路樹が消え、踏み固められただけの土の道が丘陵地帯を西へ伸びていた。冬枯れの牧草地が視界を埋め、その向こうにオルケンシュタイン山脈の稜線が青く霞んでいる。あの山の向こうに大森林が広がり、その深奥にユグドラ公国がある。
ユグドラ公国──セレンディア大陸の西方、オルケンシュタイン山脈の向こう側に広がる大森林のただなかに位置する。国教「天教」を信奉する宗教国家であり、四方を深い森と湖に囲まれた山深い土地だ。都市と呼べるものは王都ユグドラシルを含めて四つしかない。
アゼル・セラ・アルファイドは乗合馬車の窓から流れる景色を眺めながら腕を組んだ。
──前の世界じゃあこの辺りは酷いもんだったな……
街道の両脇に転がる屍と燃え落ちた集落の残骸。不死王ファビアンの尖兵が大地に毒を撒いた結果、草は枯れ水は腐り逃げ遅れた住民たちは屍のまま歩く兵隊にされた。それがアゼルの知っている帝国西端の光景である。
今車窓の外に広がるのは冬枯れとはいえ穏やかな牧草地であり、街道を往く農夫が荷車を引いて口笛を吹いている。
アゼルは目を閉じた。この素朴ながらも平和な光景を、なんとしても守らねばならないと心に誓う。
勇者とは称号ではなく、心の所作である──アゼルはそう考えているのだ。多少ノンデリな所もあるが、アゼルは確かに勇者であった。
──考えるのはやめよう。とにかくユグドラシルに着いたら情報を集める。不死王の動向が掴めれば、そこから動き方を決められる。
馬車が宿場町に停まると、乗客が数人降りて代わりに新しい客が乗り込んできた。
またもや女である。
そう、このアゼルという男は前の世界からやたら女に縁がある。偶然奇遇にもたまたまラッキーなことにも女と関わるのだ。それも大抵は美人と。英雄色を好むという言葉があるが、この場合は色が勇者を好むといった所だろうか。
女は年の頃二十歳前後。亜麻色の髪を無造作にまとめた旅装で背中に薬草の束が括られた背嚢を負っている。座席が空いていないのを見て困った顔をしていたがアゼルが荷物をずらして隣を空けたところ、会釈して隣に座った。
馬車が走り出す。
問題が発生したのはその直後である。
帝国辺境の街道は中央のそれと比べて整備が行き届いておらず、凍結と融解を繰り返した冬の路面には大小の凹凸が無数に刻まれている。馬車が揺れるたびに乗客は左右に振られ──隣に座った女がアゼルの肩にぶつかる。アゼルの肩にぶつかるたびに女が「すみません」と小声で謝る。アゼルが「全然大丈夫」と返す。そして次の窪みで女がまた倒れてくる。次の窪みでまた。
この繰り返しが延々と続いた。
女の身体が柔らかいことにアゼルは気づいていない。女の耳が赤くなっていることにも当然気づいていない。この男の関心は不死王ファビアン討滅に向けられている。
聖剣を解放せずに勝てるならばそれで良い。しかしアゼルは楽観視はしていない。相手は不死王であり、単純な物理攻撃は効果が低いだろう。あるいは、残りの全寿命と引き換えに聖剣の力を引き出す羽目になるかもしれない。
しかしそれでも、という覚悟があった。
覚悟とは悟りを覚えると書く。アゼルはすでに悟っているのだ──勇者としての在り方というものに。
ゆえに隣の女の体温に向ける心の余裕がなかった。
一方の女のほうは。
隣に座った男が無駄に背が高く無駄に顔が良いということに気づいていた。あとこれは女にも判然としないのだがやけにオーラがあるのだ。圧迫するような類のものではなく、日向に置いた大きな石の傍にいるような温かく鈍重な安心感とでも言おうか。不快なものではない。むしろ甲羅干しをする亀の如き心境ですらある。
ちなみにこの女の名はリゼットという。帝国東部の街で薬師をしており、オルケンシュタイン山脈の麓にある師匠の薬房へ向かう途中であった。
◆
七度目の衝突のあたりでリゼットが口を開いた。
「あの」
「ん?」
「どちらまで行かれるんですか」
馬車の中で話しかけるのはそう不自然なことではない。揺れるたびにぶつかっている相手と沈黙を貫く方がよほど不自然だ。リゼットの声は落ち着いた低めの声で薬師らしい実務的な響きがあった。
「ユグドラ公国だ」
「ユグドラ!」
リゼットが目を丸くした。無理もないだろう。この馬車の終点はオルケンシュタイン山脈の手前にある宿場町フォルゼムであり、そこから先に公的な街道はない。山を越え大森林を踏破しなければユグドラには辿り着けないのだ。帝都の学生風情が行くと宣言する場所ではない。
「あの山の向こうの……?」
「ああ。ちょっと用があってさ」
「何のご用で?」
リゼットの声に訝しげな色が混じった。
「最近あちらは大変だったってお聞きしますけど。アンデッドが出たとか……不死王がどうとか」
アゼルの眉がぴくりと動いた。
不死王の噂はここまで届いているらしい。だが今のアゼルは帝国の学園に籍を置く一学生だ。「不死王を倒しに行く」などと言えばどう贔屓目に見ても頭のおかしい人間である。その辺の事はアゼルにも理解できる。
ではなんと答えるか。
この男は嘘が下手だ。カバーストーリーを練る知恵もない。だから真正面から行く。嘘をつけない男が取る最後の手段──曖昧さで煙に巻くのだ。
「まあ、使命みたいなもんかな」
この言葉は通常、キチガイか何かが使うものであり、乗合馬車の中で初対面の女に堂々と告げる台詞としてはおよそ最悪の選択と言えるだろう。
リゼットの表情がわずかに引き攣った。
「……使命、ですか」
「あっ、いや! 違う! 別に怪しいもんじゃないから!」
私は怪しいです、という自己開示をするアゼルだったが──
「なんとなく、わかります」
リゼットはそんな事を言ってのけた。
「分かる……?」
「ええ、分かります。あなたは……その、何というか、何となく感じるんです。アゼルさんから。この人は
そう、アゼルから放たれる
最初に肩が触れた時にはただのイケメンという印象が、次には何かミステリアスな雰囲気のイケメン、その次には何かのっぴきならない事情を抱えたどこか影のある、しかしそれでも明るさを失う事のない前向きなイケメン、更にその次には──
こんな様子でリゼットのアゼルへの印象が次々に
この人を助けねばならない
この人が為そうとしている事を為さしめねばならない
そのためならば、私は
もはやリゼットはアゼルの忠実なしもべと言ってもいいだろう。その両眼は使命感によって爛と輝き、アゼルににじり寄って自身の両手でアゼルのそれを包み込み──