※この作品はR-18です。

悪役令息はママが好き   作:埴輪庭

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知恵

 ◆

 

 母上は今朝も美しかった。

 

 それはもはや天の理、地の自明(なり)

 

 とはいえ確認せずにいられるかと言えば──否。

 

 朝餐の席で俺の向かいに腰を下ろした母上は、薄桃色の寝衣の上にアステール家の紋章が控えめに縫い取られた朝着を羽織っていた。寝起きのためか髪はまだ結い上げていない。亜麻色のそれが肩から胸元にかけてさらさらと零れ落ちる。

 

 殺すぞ。

 

 何をかと問われればすべてを、と答える他ない。あの亜麻色の髪が朝の光に透けるのを見て邪な妄念を抱く劣等がこの帝国のどこかに一人でも現れるかもしれぬと思った途端に俺の中で何かが沸騰した。来客が増えているのだ。母上の名が広がりつつあるのだ。母上の御姿を目にする劣等の数は今後確実に増える。劣等どもの目に母上が晒されるなど、そんな……そんな──

 

 全員殺すか。

 

 いや。母上が悲しまれる。母上は劣等の命すら惜しまれる方だ。殺せない。だが許せない。許せないが殺せない。帝国中の男の目を潰すという手もあるがそれはそれで母上が泣かれる。どうしようもない。この不条理は帝国の内乱よりも深刻であると俺は断言する。

 

「ハイン、お行儀よく食べなさい」

 

「はい、母上」

 

 母上が紅茶を啜る。その仕草ひとつで一日を生きる意味が確定する。俺にとって朝とは母上を見る時間であり、昼とは母上を想う時間であり、夜とは母上に甘える時間だ。

 

 それ以外はすべて瑣末事に過ぎない。

 

 ◆

 

 とはいえ近頃のアステール公爵邸は以前にも増して騒がしかった。

 

 方々からの来客が増えている。グラマンが応接間と執務室の往復で足を擦り減らし、フェリは屋敷内の警備配置を二度やり直した。門前の石畳は商人や下級貴族の使いの靴で黒ずみ始めている。ダミアンの頃は債権者か取り立てしか来なかったというのだから随分な変わりようだ。母上が当主代行として書簡に目を通す時間もかなり長くなっている。母上の執務室の灯が消えるのは日付が変わった頃だ。

 

 あの男──ダミアンが残していった負の遺産を母上が一つ一つ片付けてこられた成果だ。クラウゼヴィッツ商会への借財を完済し、先日のサルカイ商会との会食で新たな御用商人を得た。亜人系貴族の間では母上の名が血縁と恩義の網を伝って帝国じゅうへ広がりつつあるらしい。

 

 アステール公爵家の立場は確かに上向いてはいた。

 

 しかし俺がそれを喜ぶのは一つの理由に於いてのみだ。母上の負担が減るなら結構。母上の笑顔が増えるなら上出来。それ以上の意味は劣等どもの世界の話であって俺が気に掛ける筋合いのものではない。

 

 昨夕、母上が執務室で書簡の束と格闘していらした折に俺が茶を運んだ。母上は書類から顔を上げぬまま、ただ一度だけ軽く首を傾けてくださった。それだけで全てが伝わる。その所作一つの中に「ありがとう、ハイン」が詰まっている。母上は口にせずとも伝えてくださる方だ。

 

 だからこそ──朝餐の席で母上の表情をつぶさに窺えば、最近の母上の目元にほんのわずかな翳りが差している事に気がつかぬわけがなかった。

 

 あれは白鷺館の夜からだ。

 

 ◆

 

 あの商人──リキュウ・サルカイとの会食の終盤に、それは起きた。

 

 亜人の血を引くと告白し母上の旗の下に身を置きたいと言った後だ。母上は──本当に母上はお優しい方だ──その言葉に深く頷いた。一介の商人の告白に公爵家の当主代行が瞳を潤ませるなど普通はあり得ぬが、母上は普通ではないので仕方がない。世界で最も優しい。反論は認めない。

 

 商談は終わり、あとは適当に散会するだけだと思っていた。

 

 だがリキュウは席を立たなかった。

 

「実はもう一つ、ヘルガ様にお伝えしたき儀がございます」

 

 その声色がわずかに変わった。商人としての丁重さはそのままだったが、薄い膜一枚の裏側から別の重みが滲んでいた。

 

「……何かしら」

 

 母上が紅茶の器を置く。

 

「帝国の北と東と南西で何が起きておるか──ヘルガ様は御承知でいらっしゃいましょうか」

 

 母上の瞳がわずかに揺れるのを俺は見た。

 

「……ジギタリス殿からは、三家の動きについて報告を受けています。不穏な兆しがあると」

 

「さようでございますか」

 

 リキュウは頷いた。

 

「ヘルガ様。兆しではございませぬ」

 

 白鷺館の燭台の灯が揺れもしないのに空気が変わった。そういう声だった。

 

「もはや始まっております。北のエーデルヴァイス公爵がバゼンフェルド公爵を討ちました。ザンデルホルム平原にて──公爵は戦死。手勢三百余は壊滅とのことでございます」

 

 母上の唇が薄く開いた。

 

「エーデルヴァイスの血継魔術は二里四方を極北に変える。獣兵団ごと凍て付かせたと──」

 

「……バゼンフェルド公爵が」

 

「あの方には、お子が──」

 

「嫡男が十六、娘御が十四とか」

 

 母上の目が伏せられた。

 

 それはまさに母親の顔だった。他人の子の事まで気にかけるのは俺には理解し難い。だが母上はそういう方なのだ。十六の少年が父を奪われた事実に胸を痛め、十四の少女がこれからどうなるのかを案じている。それが母上のお心だ。俺が母上を敬愛する数え切れぬ理由の一つがまさにそこにある。

 

「加えまして」

 

 リキュウは続けた。

 

「東のシュヴァルツ家の嫡男が第二皇子ヴィクトル殿下を奉じて起つと明言し、南西のグラオス家もこれに同調しておるとの事。北と東と南西──三家が揃って帝都に弓を引いたと見てよろしいかと存じます」

 

「……三家が」

 

「宰相殿はバゼンフェルド家の嫡男に仇討ちの勅状を用意しておられるとも聞き及んでおります」

 

「もう結構です」

 

 母上の声が低く硬くなった。

 

「充分です。ありがとうございます、リキュウ殿」

 

 母上は微笑んだ。だがその微笑みが本物でない事くらい息子の俺に分からぬはずがない。

 

 ジギタリスからの報告では「不穏な兆し」としか聞かされていなかったのだろう。水面下で蠢く政治的な角逐と、公爵が公爵を殺す内戦とでは天と地の差がある。母上はそこまでの事態を想定していなかった。母上は人が殺し合う事を当然とは思わない方だから。

 

 ──俺とは、違って。

 

 リキュウは深く頭を下げ、それ以上何も言わなかった。この男はそれなりに弁えているらしい。

 

 ◆

 

 あの夜、帰りの馬車の中で母上は窓の外をずっと見つめていた。

 

 いつもなら俺の手を取って「今日はお行儀よくできたわね」と微笑んでくださる。しかしあの夜の母上は俺の隣で帝都の夜を流れる灯の列を追うように黙っていた。

 

 母上が窓硝子に映る自分の顔を見ているのか、硝子の向こうの夜を見ているのかは分からなかった。

 

 ぽつり、と母上が呟いた。

 

「十六歳の男の子に仇討ちをさせるのね」

 

 その声は馬車の軋みに紛れて消えた。俺への問いかけではなかったのだろう。

 

 甘えたかった。

 

 甘えられなかった。

 

 甘えたいのに甘えられない──俺の人生においてこれほどの不条理が他にあるだろうか。母上は俺の全てだ。母上の温かな手のひらが俺の頬に触れている時だけ世界は完全な形を取る。その手がすぐ隣にあるのに触れられないというこの事態は帝国の三公が束になったところで敵わぬ苦痛である。

 

 言いたかった。ママ、抱きしめてください、と。

 

 しかし言えなかった。

 

 母上の横顔が、あまりにも遠い何かを見つめていたからだ。

 

 ◆

 

 翌朝、グラマンが淡々と報告を上げてきた。

 

「若様。帝都ではさらに動きがございます」

 

「興味はない」

 

「ヘルガ様のお耳にも入る事と存じますので──」

 

 この老人はそういう言い方をする。俺に関心がなくとも母上に関わるなら知っておけという事だ。小賢しいが正しい。

 

「……言え」

 

「第一皇子ルドヴィーク殿下が離反三公の即時殲滅をお叫びになっているとの事でございます。帝国軍の本格動員をお求めになっておいでだと」

 

 ルドヴィーク。武に秀で保守派の覚えがめでたい第一皇子だったか。宰相ジギタリスが糸を引いているとかいないとか、その手の話は劣等どもがどこかで囁き合っていた気がする。

 

「殲滅か。大層な事を吠える犬がいるものだな」

 

「……畏れながら、若様。仮にも第一皇子殿下でございまして」

 

「犬だろう」

 

「……」

 

「犬は言い過ぎか。ならば犬の飼い主、くらいにしておいてやる」

 

 グラマンは深い溜息を吐いた。この老人が溜息をこぼすのは珍しい事ではない。俺と母上に仕えて随分と長い年月を重ねたこの男の溜息の数はおそらく帝都の石畳の枚数に匹敵する。

 

「ともあれ第一皇子殿下は強硬派でございます。皇帝陛下がお目覚めにならぬ今、宰相殿と第一皇子殿下の御意向が帝国の舵を取る事になりましょう。三公への討伐軍が組織される可能性は低くございません」

 

「それがアステール家に何の関わりがある。帝都防衛が当家の務めだろう」

 

「仰せの通りでございます。しかし──戦が広がれば静観を続ける事もいずれ難しくなりましょう。帝都の盾であるアステール家の動きは宰相殿も注視しておられるでしょう」

 

「そうか、しかし興味はないな」

 

「さようでございましょう。しかし──」

 

「母上のお心に添う方を選ぶだけだ」

 

「……畏れ入ります」

 

 グラマンの顔に何か言いたげなものが浮かんだが俺は気にしなかった。母上が笑う方を選ぶ。ただそれだけの話だ。

 

「フン」

 

 俺は頬杖をついた。

 

 俺にとって帝国とは母上の暮らす家の壁の外に広がる瑣末な風景に過ぎない。壁の中に母上がいるなら壁の外で何が起ころうと知った事ではない。

 

 ──はずだった。これまでは。

 

 世界はいずれ母上のものとなる。これは俺の中では確定した未来であって議論の余地はない。ならば母上が治められるべき大地が内乱で荒れ果てるのは面白くない。

 

 俺は政に疎い。それは認めよう。だが逆賊を殲滅すればそれで万事片付くなどと思えるほどの馬鹿でもない。三公の領地には民がいる。田畑がある。荒らせばその分だけ母上の世界が痩せる。

 

 ひとまずは──割れつつあるこの帝国を修繕する必要がある。ここはひとつ、力ではなく知恵を使うとしよう。

 

 

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