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第二皇子ヴィクトル。
武芸は兄に遠く及ばず、政の場では未だ一言も発した事がなく、魔術に至っては指先に火を灯すのが精一杯。宮廷でのヴィクトル評はおおよそこのようなものであり、そしておおよそ正しい。
だがこの国でヴィクトルが軽んじられる本当の理由は、実の所そこではない。
この皇子が『平和』を愛しているからである。
ガイネス帝国は戦の国だ。建国このかた魔王軍との戦が絶えた例しはなく、力こそが国と民を守ってきた。ゆえにこの国では強き事が徳であり、霊長たる人間である事が誇りである。その二つを疑う者は──まあ、いない。疑う暇があるなら剣を振れという国柄である。人種序列法などという法がまかり通るのも、根を辿ればこの気風に行き着く。
そんな国で、平和を愛する皇子がどう見えるか。
腑抜けである。
戦を厭い、勝ち負けを尊ばず、負けた側の痛みをおもんぱかる。そのような男はこの国の物差しでは測るまでもない。もっとも、ヴィクトルは劣っているわけではない。この国の気風と合っていないだけの話である。ヴィクトルは魚であり、ここは山だっただけの事だ。
例えばこんな話がある。
ヴィクトルが幼い時分、剣術指南との稽古でまぐれの一本が出た。指南役が足を滑らせた所へ、皇子の木剣がたまたま入った。曲がりなりにも皇子が初めて武を示した瞬間であり、居合わせた者は沸きに沸いた。しかし当のヴィクトルは何をしたか。倒れた指南役へ駆け寄り、手を貸して起こし、済まなそうに頭を下げたのである。
この一件がヴィクトル評を決めたと言ってよい。帝国に於いて勝利とは誇るものであって、詫びるものではないのだ。
とはいえヴィクトルとて皇族である。陰で腑抜けと囁かれこそすれ、面と向かって侮られる事はこれまで無かった。
風向きが変わったのは、三公が反旗を翻してからだ。
三公は次期皇帝としてヴィクトルの名を掲げた。
無論、本気で担ぐ気などない。
狙いは二つ。一つは大義名分である。もう一つは毒だ。
ヴィクトルの名が挙がった瞬間から、帝都の貴族どもは疑い始める。第二皇子は三公と通じているのではないか。いつからか。誰の仲立ちか。本人が何を言おうと疑いは晴れず、何も言わなければ言わないでそれが疑いの種になる。
かくして第二皇子は一夜にして逆賊の神輿となった。
当人は宮殿から一歩も出ていないのに、である。
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ヴィクトルという青年は凡庸であった。
しかし善良ではあった。
民草にも民草の人生があり、生活があり、幸せを求める権利があるのだという事を理解していた。これはガイネス帝国の尊き血を継ぐ者としては得難い資質である。
三人の兄妹に軽んじられている事は理解していた。それを恨みに思った事はない。彼もまた皇族としての教育を受けてきた身である。この国で力なき者がどう扱われるかくらいは弁えていた。むしろ兄妹たちは正しいのだ。帝国の物差しに照らす限り、どこまでも正しい。
軽んじ方にもそれぞれの流儀があった。兄は視界に入れない。姉は憐れむ。妹は道具に使う。ヴィクトルへの挨拶をことさら丁寧にして見せる事で、心優しき皇女の評判を稼ぐのである。
上背と肩幅だけは兄にも勝る。だから余計に落胆される。あの体で、と。
しかし日課だけは欠かさなかった。
夜明け前に起き、誰もいない中庭で剣を振る。幾ら振っても剣筋は冴えない。それでも愚直に振るのだ。手の豆が潰れては固まり、固まっては潰れる。その繰り返しがいつか何かキラキラとした素敵なモノになることを願って。
宮殿の下働きは、この皇子にだけはよく懐いていた。
いつだったか給仕の下女が盆ごと茶器を取り落とした事がある。青ざめて平伏する下女へ、ヴィクトルが最初に掛けた言葉は「火傷はないか」であった。
それと、市井の話を聞くのが好きだった。
城下へ忍びで降りるほどの大胆さは無い。出入りの商人や下働きの者をつかまえて、街の様子をぽつぽつ尋ねるだけである。パンの値が上がっただの、どこぞの一座の芝居が当たっただの、西の公国では聖女様が黒衣の神様とやらを拝み始めたらしいだの。そういう埒もない話を、ヴィクトルは飽きもせず聞いた。玉座から見えない場所でこそ、守られるべきものが息をしていると思っていたからだ。
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三公の反旗より後、宮殿の景色は変わった──とヴィクトルは思っていた。
伺候する者が減り、廊下ですれ違う廷臣は会釈もそこそこに離れていく。中庭の剣にも遠巻きの視線がつくようになった。交代の衛兵が囁き交わすのが聞こえる。
「──神輿殿は今日も精が出る事だ」
聞こえなかった振りをして、ヴィクトルは剣を振り続けた。弁明した所で始まらない。逆賊と通じた覚えは毛の先ほども無いが、反論を重ねたとて信は得られないだろう。うすら寒い宮殿の空気に、ヴィクトルはもう辟易としていた。
そんな中、ある日ヴィクトルは兄であるルドヴィークと言葉を交わした。
ルドヴィークは足を止め、弟を頭のてっぺんから爪先まで眺めて──。
「貴様が真の王だそうだな」
などと言った。
返す言葉を探しているうちに、兄は鼻を鳴らして行ってしまった。無理もないとヴィクトルは思う。自分が兄の立場でも、自分のような弟は疑わしいだろう。
ただ──胸の奥が軋む事はあった。
自分の名の下に兵が集められている。北ではもう公爵がひとり死んだという。自分は何もしていない。何もしていないのに、何かが自分の名を着て歩き回っている。夜半にその事を考え始めると、遠くで軍靴の音が鳴っているような気がして、なかなか寝つけなかった。
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その夜は、ことのほか寝苦しかった。
寝返りを打ち、枕の位置を直し、それでも眠りは浅瀬をたゆたうばかりで深みへ沈まない。諦め半分に目を閉じていると、ふ、と体が軽くなった。
気づけばヴィクトルは、帝都ガイネスフリードを見下ろしていた。
夢だ、と思った。眼下に宮殿の尖塔があり、市街の大路があり、城壁がある。鳥でもこんな高さは飛ぶまい。夢に決まっていた。
だが様子がおかしい。
帝都が燃えているではないか。
城門は破られ、大路にはそこかしこに火がつけられている。街区のいくつかは既に焼け落ちて黒い骨組みを晒し、その間を米粒ほどの人影が逃げ惑っていた。悲鳴は聞こえない。水の底で聞くように、音という音がくぐもって遠い。ただ熱だけが本物だった。頬が炙られ、煙の匂いが喉を刺す。
宮殿も燃えていた。
生まれ育った尖塔が根元から折れ、玉座のある棟が火を噴いている。あの中には父が眠っている。兄が、姉が、妹がいる。誰一人として好かれてはいない。それでもヴィクトルの家族であった。
大路の外れで、子を抱えた女が転んだ。
群衆がその上を通り過ぎていく。女は子を庇って丸くなり、丸くなったまま動かなくなった。
ヴィクトルは手を伸ばした。届く高さではない。そもそも伸ばすべき手が無かった。叫ぼうとして、喉の在り処すら分からない事に気づいた。
視るだけ。
この夢の中で彼に許されているのは、どうやらそれだけであるらしかった。
どれほどそうしていたか。
不意に肩を掴まれた。
振り返った先に、それは立っていた。
死──。
そうとしか言いようのないものであった。物語の挿絵にあるような、鎌を提げた骸骨の姿はしていない。黒い何かが辛うじて人の形に留まっている、とでも言えばよいのか。輪郭は煙のように滲み、衣なのか体なのか分からぬ黒が足元へ溶け崩れている。顔にあたる位置には何も無い。何も無いのに、視られている事だけは分かった。
悪霊か、死霊か、はたまたそれよりさらにタチの悪い何かか──。
そんな、邪悪としか思えない何かは言った。
『視タカ? コレガ、オマエノ罪──』
声は掴まれた肩から染み込んできた。
「ぼ、僕の罪……?」
『オマエハ、ナニモ、シナカッタ』
黒いものが、燃える帝都をゆるりと指した。指と呼べるほどの形も定かでない、黒の先端で。
『ダカラ、コウナッタノダ』
「僕のせいだと言うのか。僕が何もしないから、民が死ぬと──」
答えは無かった。
代わりに肩を掴む指へ力がこもり、眼下の光景がぐ、と迫った。焼け落ちる家並み。転んだまま動かない母子。熱。匂い。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫んでから、ヴィクトルは声を絞り出した。
「……だが、僕に何ができると言うんだ。僕には何も無い。兄上のような武も、姉上のような智も──」
『神ハ──嘆イテオラレル。志アルモノヲ探シテオラレル──正義ヲ、示ス覚悟ガアルモノヲ。人ヨ、オマエニ、覚悟ハアルカ?』
直後、燃える帝都も黒いものもひと呑みに闇へ溶け、落下の浮遊感が胃の腑を掴んで──
──寝台の上で、ヴィクトルは跳ね起きた。
心臓が耳の奥で鳴っている。寝衣が汗で背に貼り付いていた。もつれる足で窓へ寄り、鎧戸を押し開ける。
帝都は静かだった。
夜明けまでまだ間のある藍色の下、家々の屋根が黙って連なっている。火の手など何処にも無い。軍靴の音もしない。灯のまばらな大路を、荷馬車がひとつ、のんびりと横切っていく。
夢だ。
誰がどう見ても夢である。
だがヴィクトルは、自分がそう信じていない事に気づいていた。左の肩には指の形をした冷たさが残っている。寝衣の上から触れると、そこだけ布が凍ったように冷たい。
あれは、何だ。
黒い、人の形をした──死のような、何か。
ふと、出入りの商人の世間話が脳裏をよぎった。西の公国では聖女様が新しい神様を拝み始めたらしい。世界を滅ぼし、再生させるという神を。
あれは何といったか。
ヴィクトルは左肩を押さえたまま、白み始めた空をしばらく見ていた。
やがてその口から掠れた呟きが落ちる。
「黒衣の、神──か」