◆◆◆
ある晴れた日、ヘルガは執務室の窓から覗く快晴の空を見ながら、空色とは真逆の曇った表情を浮かべていた。もしその顔色をどこぞのマザコンが見ればまたぞろ歴史が変わったかもしれないが、それはともかくとして。
──本当に良かったのかしら。
頭をよぎるのはほんの数日前、愛するハインが持ち込んできた相談事の件だ。
・
・
・
『母上、僕はヴィクトル殿下が先日のプュイにて寄稿された詩を読んだのですが──』
プュイとは『舞台』を意味し、平たく言えば詩人ギルドの事を言う。詩人ギルドは詩や音楽を愛する人々が集まって作った結社だ。まあガイネス帝国においてプュイはそこまで影響力を持っていないが。というのも、詩や歌のセンスが政治や権力のステータスに直結していないためである。
ガイネス帝国で貴ばれるのは力だ。
身も蓋もないし、世も末もいいところだが、これは常に魔王軍との戦いの最前線に在った以上ある意味仕方ないと言えるかもしれない。
ちなみにハイン自身は詩などこれっぽっちも興味はないのだが、それでも即興で一つ二つ詩を作れる程度には修めていた。理由は言うまでもないだろう、プュイにはヘルガも登録しているからである。
ヘルガが花と風と詩を愛する女であるなら、ハインもまたそう在ろうとするのがマザコンのマザコンたる所以だろう。
◆◆◆
ヘルガは内心安堵した。
昨今のきな臭い時世を鑑みれば当然と言える。ハインが皇位継承のあれこれや、三公の反旗について思う所があったとかではなく、単に良さげな詩を見つけて感銘を受けたというだけであるなら大歓迎といった所であった。
──でも……
安堵はしたものの、すぐに不安がまたぞろ鎌首をもたげてくる。ハインが興味を示したのが第二皇子ヴィクトルであるというのが問題なのだ。
ヘルガがヴィクトルに思う所はない。むしろ、置かれている状況に憐れんでいるくらいだ。和を貴ぶというヌルい気質も、ヘルガには美徳に映る。だがそれでも、ハインにはどういう形であってもヴィクトルにかかわって欲しくはなかった。ハインが親離れできていない様に、ヘルガも子離れできていない。
しかしそんな親心とは裏腹に、ハインはどうやらヴィクトルを紹介してほしいようだった。口ごもるヘルガ。しかし──
『母上、ヴィクトル殿下と詩について語り合ってみたいのです。昨今の情勢は理解しておりますが、そういった時にこそ芸術の火を絶やしてはならないと想うのです』
ハインの真摯な訴えに、ヘルガは頭を巨大なハンマーで殴りつけられた様な衝撃を受けた。
──今、この子はなんと言ったのかしら。
なにしろ帝国中の大人たちが誰につくか誰を切るかの算段で夜を明かしている世の中である。剣と椅子の話しか聞こえてこないこの帝都で、ハインは詩について語りにきたのだ。
──なんて……なんて優しい子なの……。
ヘルガの肩が震え始めた。
──帝国の長い歴史で、乱世に芸術を守ると仰った皇帝はいらしたかしら。
気がつけばヘルガは、我が子の両手をしっかと包み込んでいた。
『ええ……ええ、勿論よ! 私に任せなさい』
あれほど渋っていたはずの口から、承諾がするすると滑り出るではないか。
そう、結局は
詩や歌──芸術に直接的に今起きている戦を止める力は確かにないだろう。しかし、戦の根源とは何か。それは心と心のぶつかり合いではないか。
剣も槍も、振るうと決めた心があって初めて振るわれる。三公が旗を揚げたのも帝都の大人たちが夜毎の算段に励んでいるのも、元を辿ればすべて人の心の起こしたことだ。ならば心を動かすものこそ、戦の根を断つ力ということになる。
そして心を動かすものといえば、詩である。
剣にできるのは敵を減らすことだけだが、詩は敵を友に変えてしまう。現にどうだ。魔王が滅んで久しいというのに、戦は一向に終わろうとしていない。外の敵を退けた剣が今は内へと向けられつつある。剣で心までは変えられない。何よりの証拠ではないか。
──あの子はそこまで見抜いていたのね……。
むろん帝国の礎を築いたのも守ってきたのも剣なのだが、都合の悪い事実は親心の前を素通りしていく。
芸術の火を守ることは人の心を守ること。人の心を守ることは戦の根を断つこと。すなわち我が子は今、心の力で乱世を鎮めんとしているのである。
かくしてヘルガの中で理屈は完成した。母にできることなど応援のほかにあるはずもなかった。
そして──。