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僕は兄や姉から「ウスノロ」と呼ばれている。家族だけでなく、他の貴族たちからも余り良く思われていないようだ。
ただ、それを不服とは思わない。
なぜなら言われるだけの理由があるからだ。
僕は自分でもこの国を統べる者としての自覚が足りていないと思う。
例えば議場である。
兄上は三公の反逆を許すなと声を張り上げ、居並ぶ貴族たちがそれに応える。姉上は諸外国との折衝について理路整然とお話しになる。妹は議場こそまだ遠いものの、その後の茶会ではいつも人の輪の中心にいる。
僕はといえば末席に座っている。
座っているだけである。
発言を求められた事は一度もないし、いざ求められたらと思うと胃の腑が縮む。皆が当たり前に分かっている事が僕には分からないのだ。誰と誰が組んでいて、誰の言葉の裏に何が隠れているのか。そういうものが僕には全然見えない。
一度だけ、市中の食糧の値について申し上げたい事があった。しかし手を挙げかけた所で議題は次へ移っていて、僕の手は誰にも見られる事なく膝へ戻った。
武芸はどうか。
これも駄目である。体ばかり大きくて剣筋はてんで冴えず、兄上とは幼い頃から何百と手合わせをして一本も取れた例しがない。魔術に至っては指先に火を灯すのがやっとで、宮廷魔術師の先生は僕の稽古の日になると決まって腰の具合を悪くされた。お気の毒な事である。
つまり、そういう事なのだ。
ウスノロと呼ばれるだけの理由が僕にはある。だから兄上や姉上を恨む気持ちはないし、陰で笑う貴族たちに腹も立たない。皆は正しく物を見ているというだけの話だ。
ただ──近頃は少しばかり事情が変わってしまった。
三公の乱である。
帝国に反旗を翻した三つの公爵家が、こともあろうに次の皇帝へと僕の名を掲げたのだ。
わけが分からなかった。
僕は三公のどなたとも親しくない。それどころかまともに言葉を交わした記憶すらない。それなのに僕の名前が反乱の旗に書かれていて、おかげで宮廷での僕は「逆賊の神輿」という事になっている。担ぎ手の顔も知らない神輿というのは、世にも珍しいのではないかと思う。
先だっては僕付きの従者が二人、続けて暇を願い出た。神輿に仕えていては先がないと考えたのだろう。引き留めはしなかった。二人とも長く良く仕えてくれたし、去り際には深く頭を下げてくれた。それで十分である。
先日、廊下で兄上とすれ違った。
「貴様が真の王だそうだな」
兄上は足を止めずにそう仰った。
「ウスノロの王か。三公も面白い冗談を考えるものだ」
僕は咄嗟に頭を下げていた。
申し訳ありません、と口から出ていた。何について謝っているのか自分でも分からなかったが、謝るほかに何も思いつかなかったのである。兄上の靴音が遠ざかるまで、僕はそのままでいた。
姉上は僕を見ると痛ましそうな顔をなさる。
「あなたは何も悪くないのよ」
そう言ってくださるのは姉上だけだ。ただその優しい目は、僕というより僕の後ろにある厄介事のほうを見ている気がする。
妹のアナスタシアだけは変わらない。廊下で会えば必ず足を止め、裾をつまんで会釈をしてくれる。
「ご機嫌よう、兄様」
と。
良い妹を持ったと思う。
父上にはもうずっとお会いしていない。お加減が優れないそうで、見舞いを願い出ても叶わなかった。僕にできるのは廊下から御寝所の方角へ頭を下げる事くらいである。
あとは──
覚悟はあるか、とあの死神のような何かは問いかけてきた。
覚悟とは何の覚悟だろう。
分からないが、きっとだらしない僕を誰かが叱りに来ていたのだと思う。夢の中でくらい叱られたくないものだが……。
ただ、そんな僕にも最近ひとつだけ良い事があった。
友人ができたのだ。
胸の内で言ってみるだけで頬のあたりが緩んでくる。生まれてこの方、僕には友人と呼べる相手が一人もいなかった。皇子という立場に寄ってくる方々はいたけれど、彼らが仲良くしたいのはたぶん僕の立場のほうだろう。
事の起こりは詩だ。
僕の唯一の趣味は詩作である。これだけは誰にも迷惑をかけないし、剣や政と違って出来の悪さで誰かを落胆させる事もない。夜更けの自室で紙に向かっている間だけは、僕はウスノロでも神輿でもないただの書き手でいられる。
始まりは子供の頃、眠れない夜に浮かんだ言葉を紙へ書き並べてみた事だった。胸のつかえが少しだけ軽くなった。上手くなった気は今もしないが、書かずにいられる気もしない。以来ずっと続けている。
もっとも、僕の詩を本気で読む人などいないと思っていた。皇子の詩だから載せてもらえているだけの話で、感想といえば夜会で頂く「お上手ですなあ」の一言きり。あれは詩を読んでいない人の褒め方である。
ところが先日、アステール公爵家から手紙が届いた。
当主代行ヘルガ様の直筆で、要旨はこうだ。息子が先のプュイに載った殿下の詩に深く感銘を受けた。宜しければ一度、詩について語り合う席を設けさせて頂きたい──。
僕は手紙を三度読み返した。
僕の詩に、感銘?
何が起きているのか上手く飲み込めなかった。
アステール公爵家といえば十二公家の筆頭格である。星辰魔術の名門であり、当代の御嫡男はあのハイン・アステール殿だ。
宮廷の高名な魔術師をやり込めたとか、剣術大会ではサリオン家の御令嬢と帝都中を震わせる大剣戟を演じたとか、それほどの才を持ちながら夜会にも茶会にも一切姿を見せないとか──とにかく噂ばかりが独り歩きしている御仁なのだ。
正直に言えば怖かった。
僕の思い描くハイン・アステールは氷の刃のような麒麟児である。才気走った目で人を値踏みし、詰まらぬ相手とは口も利かない──そんな人物を勝手に想像していた。だいたい天才というものは僕のような鈍い人間を何より嫌うものと相場が決まっている。兄上がそうであるように。詩について語り合うといっても、僕の詩など彼の目にはお遊戯に映るのではないか。
断る理由を探した。
しかし見つからなかった。公爵家の母君が直々に下さった手紙をお断りできるほどの度胸は、そもそも僕にはない。
返事を出してから当日までの数日、僕は落ち着かなかった。自分の書いた詩を残らず引っ張り出した。どれも急に子供の落書きに見えてきて、いっそ全部破いてしまいたくなる始末だった。
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会食の席は白鷺館だった。
帝都の商業区にある貴族御用達の料亭で、静かな中庭に面した奥の一室へ通された。磨き込まれた廊下を行く間、すれ違う店の者は皆すっと壁際に寄って腰を折る。粗相のない店だと聞いてはいたが、これでは僕のほうが粗相をしそうである。
供の者を控えの間に残して扉の前に立った時、僕の心臓は兄上との手合わせの前よりよほど速く打っていた。
部屋にはヘルガ様が先に居られた。
「ようこそお運びくださいました、殿下」
噂に違わず美しい方である。当主代行として気の張る日々のはずだが、物腰は春の空気のように柔らかい。
「息子がこの日をそれは心待ちにしておりましたのよ」
社交の挨拶と分かってはいても、心待ちという言葉に肩から力が少し抜けた。
そしてその隣に、彼はいた。
「お初にお目にかかります、ヴィクトル殿下」
少年がすっと立ち上がり、深く礼をする。
「ハイン・アステールと申します。本日は御多用の中お時間を賜り、恐悦至極に存じます」
顔を上げた彼を見て、僕は拍子抜けした。
氷の刃どころではなかった。
年の頃は僕よりいくつか下だろう。背筋が伸びて、仕立ての良い礼服を寸分の乱れもなく着こなしている。目元は涼しいが、人を値踏みするような色はどこにもない。静かに澄んだ目である。
挨拶ひとつ着席の間合いひとつまで礼に適っていて、それでいて堅苦しさを感じさせなかった。母君が席に着かれる際、彼はごく自然に椅子を支えて差し上げていた。母君思いの方なのだな、と思った。
最初の皿が来るまで、僕はろくに口も利けなかった。緊張のあまり天気の話を二度した。同じ話をしていると気づいた時には席を立って帰りたくなったが、ハイン殿は二度目も初めて聞く顔で頷いてくれた。
そんな僕を見かねたのだろう。彼のほうから詩の話を切り出した。
「殿下。先のプュイに寄せられた朝の詩を拝読いたしました」
「あ……ありがとうございます」
「『パンの焼ける匂いが、鐘より先に朝を告げる』──あの一節で、頁を繰る手が止まりました」
僕は自分の耳を疑った。
諳んじている。
僕の詩をこの方は諳んじているのだ。
「昨今のプュイには勇ましい詩ばかりが並びます。剣の詩、旗の詩、忠義の詩。そんな中で殿下は市井の朝を詠われた。私は、ああいう詩こそ本物だと考えております」
本物。
僕の詩が、である。
何と答えたのかよく覚えていない。覚えているのは、それから僕たちがずっと詩の話をしていた事だ。
ハイン殿は一昨年の秋の号に載った僕の雨の詩まで読んでいた。そのうえで、あの結びの一行だけ殿下の声と違って聞こえました、と仰るのである。実を言えばあの一行は編集の方に直して頂いたもので、僕は危うく椀を取り落としそうになった。読んだだけでそんな事まで分かるものなのか。
僕が好きな古い詩人の名を挙げれば深い頷きが返ってきて、その詩人の対句の妙についてハイン殿なりの読み筋が返ってくる。誰かと詩の話をするのは生まれて初めてで、そういう当たり前のやり取りのひとつひとつが僕には信じられなかった。
途中でハイン殿御自身も詩を作られるのかと尋ねてみると、彼は少し困ったように笑った。私は読む一方でして、と言う。作るのは母の誕生日に下手なものを一つ二つ、だそうである。あれほどの読み手にそんな筈はないと思う。その困り顔が急に年相応に見えて、僕はますますこの人が好きになった。
気づけば皿が替わっていた。何を食べたのか味をまるで覚えていない。
途中からヘルガ様は口を挟まず、僕たちのやり取りに微笑んで耳を傾けておられた。時折ハイン殿へ向けられる眼差しは優しさと誇らしさが満ちており、僕は内心で彼をうらやんだものだった。
それにしてもこれはとんでもない事だ。
この帝国で詩は金にも力にもならない。
誰もがそう言うし、実際その通りなのだと思う。それでもこの帝国に、詩を本物と言い切る貴族がいたのだ。それも十二公家の、あのアステールの嫡男が。
この国では強い事が偉く、偉い事が正しい。彼は強さの他にも尊いものがあるという顔をして生きている。そういう方が本当にいるのだと、僕はこの日初めて知った。
やがてハイン殿は居住まいを正した。
「殿下。宜しければ、これからも文を交わして頂けませんか」
え、と間の抜けた声が出た。
「詩の話のできる友人というものが、私はずっと欲しかったのです」
友人。
その一言に僕は何度も頷いてしまった。