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「ハイン、どうしたんだい?」
ある日僕は浮かない表情をしているハインに尋ねた。そう、ハインに、だ。僕らはもうハイン、ヴィクトルと気さくに名を呼び合う関係となっている。
まあもっとも、ハインが僕に取る態度は『砕けた』とは言い難いものではあるが。
アステール公爵家でしっかりとした教育を受けてきたのだろう。彼の物腰は親しみを感じさせながらも礼を失さぬ、実に器用なというか
そんなハインだが、どうにも普段とは雰囲気が違うではないか。
その日も席は白鷺館の奥の間だった。ヘルガ様の御同席は最初の頃だけで、近頃は僕とハインの二人きりである。膳が下げられ茶が運ばれて、さて今日はどの詩の話をしようかという頃合いに僕は先の問いを口にしたのだった。
ハインはすぐには答えなかった。
茶へ目を落として、それから顔を上げた。
「……つまらない話だよ。詩の席で語るような事でもない」
「聞かせてくれないか」
我ながら食い下がったものだと思う。ただ、いつも僕の話ばかり聞いてくれる友人が何かを抱えているのに、知らぬ顔で詩の話を続けられるほど僕は器用ではないのだ。
ハインは少し迷う素振りを見せてから、湯呑みを置いた。
「なら、聞いてくれ。……僕はね、ヴィクトル。近頃この帝国が少し嫌いだ」
物騒な打ち明けである。しかし彼の顔は物騒どころか、ひどく静かだった。
「議場でも夜会でも、聞こえてくるのは誰が勝つか、誰につけば得かという話ばかりだろう。皆、国の話をしているようでいて、誰も国の話をしていない」
「三公は、帝国にかつての威光と安寧を取り戻すのだと言っている。立派な言葉だと思う。だが彼らは、その立派な言葉を掲げる前に使者の一人も立てなかった。対話を一度も試みないまま兵を挙げた。……ヴィクトル、戦が始まって最初に苦しむのは誰だと思う」
僕が答えるより先に、彼は自分で答えた。
「民草だよ。麦の値が上がり、男手は徴兵され、国境の村から順に焼かれていくのさ。威光からも安寧からも一番遠い場所へ真っ先に突き落とされるのは、いつも民草だ。……僕はあれを義挙とは呼ばない。欺瞞と呼ぶ」
僕は驚いて、しばらく茶を含む事も忘れていた。
貴族の口から、ましてや十二公家の筆頭の御曹司の口からこのような言葉が出てくるとは思っていなかったからだ。だが──。
「……君の言う通りだと思う」
やっとの思いでそれだけ言った。それから、女中に聞いた市場の話を思い出した。
「実際、市中では既にパンや青物の値が上がり始めているそうだ。戦はまだ帝都から遠いのにね」
「よく御存知だ」
ハインは深く頷いて、それから憤りの続きを語った。彼は少しも声を荒げず、それでいて言葉は真っ直ぐに尖っていた。あれは義憤という物なのだろう。友人の新しい顔だった。
ただ──聞くほどに、僕の胸は別の理由で重くなっていった。
彼の言う欺瞞の旗印に書かれているのは、僕の名なのだ。
対話もせず兵を挙げた三公。民草を苦しめる乱。その看板として掲げられているのが、この僕である。ハインは三公の話をしている。頭では分かっている。分かっているが、まるで──その旗を許しているのはお前だと、言われている気がして。
相槌が減っていたのだろう。僕は湯呑みの底ばかり見ていて、申し訳ない、といういつもの言葉が喉元まで出かかっていた。
「ヴィクトル」
顔を上げると、ハインがこちらを見ていた。
いつも綺麗に整っているその顔に、珍しく慌てた色があった。
「違うんだ。君を責めているわけじゃないんだ」
「君の名を旗へ書いたのは三公だ。君は何ひとつ望んでいない。それを僕が疑った事は一度も無いよ」
ハインは茶へ一度目を落とし、それから小さく笑った。
「済まない。君と話していると、つい本音が零れる」
本音か。
俯きかけていた僕の頭は、その一言で浮き上がってしまった。責められていなかった事よりも、ハインが僕の前では本音を零すという事のほうが僕には余程の大事件なのである。
「怒ってばかりで、今日の僕はどうかしているな。……この話はまた今度にしよう」
僕は頷いたが──内心には、僕に何かできる事はないだろうかという想いが渦巻いていた。