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三千世界。
かつて一人の魔術師が己の内なる夜天で口にした言葉である。世界は一つではないのだ。針の先ほどの分岐のたびに世界は静かに枝を分かち、ある枝で死んだ男が別の枝では生きて茶を啜っている。本来の歴史と呼んできたものも、その枝の一本に過ぎない。
そう、つまるところは無数のハイン・セラ・アステールがいるという事になる。剣に胸を貫かれて死んだハインがいる。黒い瘴気の中で哄笑しながら殺されたハインがいた。震える手で押し付けられた枕の下で、幼いまま息を止めたハインも。
その中に極めて稀な、レア中のレアなハインもいた──すなわち、真っ当に生きたハインである。
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五歳の春に力を顕した麒麟児であった。
きっかけは癇癪だった。玩具か菓子か、原因はさだかではない。子供というのはとかく感情、力の制御に苦しむものだ。だが何かが起こり、その結果として公爵邸の東翼が土台ごと消し飛び、同時に当代当主であったダミアンが骨の一片も残さずに消滅した事だけは確かである。
ヘルガ・イラ・アステールはそのことに大きなショックを受けた。
瓦礫の中心で泣きじゃくる息子を彼女は抱き上げたがしかし、それは愛ゆえにではない。母であるという義務から抱き上げた。腕は震え、とてもではないがハインの事を我が子だなんて思う事ができなかった。
これがまた
彼女の目には、ハインは化け物以外の何物にも見えなかったのだ。
しかしそれから数年がたち──
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ハイン・セラ・アステール──
魔術学の成績は中の下。剣は人並み。教師たちの評は『凡庸』で一致し、十二公家筆頭の嫡男としては期待外れであると宮廷雀は囁いた。だが、本当に凡庸であるはずもなく。
言うまでもなく、ハインは自身の力を秘匿していた。理由は単純だ。ヘルガが怖がるからである。
ハインはヘルガに愛されようとした。それはもう、涙ぐましいほどに。
庭の花を摘んで母の居室へ運んだ。母の好む詩集を諳んじ、季節の変わり目には自分で選んだ茶葉を贈った。ヘルガはそのたび微笑んで礼を言う、が。
ヘルガのそれは完璧な、非の打ち所のない公爵夫人の微笑ではあったが、決して母としてのものではないことにハインは三日と待たずに気付いた。
責めるのは酷であろう。
幼くしてあれほどの魔力を見せ、あまつさえそれを暴走させたのだから普通は怖がって当然だ。とはいえヘルガは良い母であろうと、骨身を惜しまなかった。教育も衣食も、なすべき事はすべてした。ただ息子の顔を見るとき、瞳の奥で何かが澱むだけだ。
あと一歩──あと一歩がヘルガには踏み出せない。
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ところで、ハインの唯一の慰めは詩であった。母の愛読する詩人から入り、やがて自分でも書いた。上手かったかどうかは分からない。見せる相手が終ぞいなかったからである。母に読んでもらうつもりで書いた詩は、渡されぬまま書斎の抽斗で束になった。
学院では目立たず、友は少なかった。本来の歴史のごとく令嬢を虐げる事もなく、衆前で断罪される事もない。ハインの死後、婚約者であったサリオン公爵令嬢エスメラルダは後年、『あの方の事は最後まで分からなかった。ただ一度も嫌な思いをさせられた事がない』と語ったと伝わる。十年余を共にした相手への評としては、いっそ立派な墓碑銘である。
そうして特に何も為さぬままにハインは卒業し、家督を継ぎ──十年余が経ち。
ハイン・セラ・アステール二十四の冬、魔王が還ってきた。
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群蟲の魔王ベルゼイは皇帝の肉体を裂いて顕現した。顕現直後の脆弱な身では戦えぬとみたか、すぐに散って行ったがしかし。四方に散り潜んでいた旧魔王軍は一夜で息を吹き返す事となった。
帝国は夥しいまでの魔軍に侵略される事となる。
それにしても、この速度たるや!
焦りすら感じるその動きは、まるで帝都に自身を脅かす何か、あるいは誰かがいると知っているかのようでもあった。
対する帝国は連戦連敗だ。
三月で西部戦線が消え、半年のうちに十二公家の連合軍が三度会戦して三度敗れた。獣王ハロルドの獣兵団は群れごと喰われ、エーデルヴァイスの氷壁は竜の炎に七日で溶けた。戦の国と謳われた帝国五百年の武威が、一年と保たなかったのだ。
そうして開戦から丁度一年目の朝、魔軍の先鋒を帝都ガイネスフリードを襲った。
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城壁の上は風ばかりが強い。
地平の際まで敵で黒く、空は竜の翼で塞がれている。生き残りの帝国軍は壁に取り付いているが、三日と保たない事は誰の目にも明らかだった。
城内の避難壕には母上がいる。
懐から古いハンカチを取り出した。隅にアステールの紋章と、拙い花の刺繍。二十年前の誕生日に貰ったものだ。
背後で兵たちがひそひそと言い交わしている。凡庸公爵が何をしに出てきた、という声だ。もっともだと思う。俺は二十年、そう思われるように生きてきた。
しかし事ここに及んではそうもいくまい。
帝国がどうなると構わぬ──と言いたいところだが。
母上は帝国で生まれ、帝国で育った。
そしてこの国を愛している。
親孝行などろくにできず、迷惑ばかりをかけてきた俺だが、どうやらチャンスが巡ってきたようだ。
俺は、俺の持つ力の総てを使って彼奴らから帝国を──いや、母上を守ろう。
結局、こうなってしまったのは俺が割り切る事ができなかったという思いもある。
己の身を惜しんだ俺にも責任があるのだ。
母上に愛されずしてこの世を去りたくないなどという想いが、俺に力の封を解く事を躊躇させた。
俺の力に封をかけたのは他ならぬ俺自身──そして、封の下で蠢く力は俺の制御できる範囲を超えている。
ああ、そうだ。
力を使えば俺は死ぬだろう。
これは予想ではない。絶対的な確信である。
だが構わない。
母上。
俺はあなたの息子でよかったと、今この瞬間であっても堂々と言う事ができます。
どうか生きてください。
彼奴等は、いや、今まさに帝都へと近づきつつあるこの悍ましい魔力の持ち主──魔王はこの俺が命にかえてでも討ち滅ぼしましょう。
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その日、帝都の空に二つ目の太陽が昇った。
後世の記録は端的にこう記す。『光が来て、魔王と魔軍は消えさった』と。
ハインはどうなったのか?
無論、死んだ。
灰も骨も残さずに。
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ハイン・セラ・アステール、享年二十五。
後世、彼は英雄と呼ばれた。
当然である。帝都と、恐らくは大陸そのものが、あの火一つで救われたのだ。凡庸と囁かれた公爵は一夜で救国の英雄へ格上げされた。詩人が謳い、彫像の建立が決まり、神殿は列聖の検討まで始めた。
後世の史家の中にはこう問う者がいる。あれほどの力があったのなら、なぜもっと早くに使わなかったのか。使っていれば西部戦線の数十万は死なずに済んだではないか、と。
愚問である。それを何のために仕舞い、何のために出すかは、当人の生涯だけが決めるのだ。
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ヘルガ・イラ・アステールは葬儀の後、息子の書斎を一人で整理した。
鍵のかかった抽斗が一つあり、その中には詩の束と、押し花が納められていた。詩はすべてヘルガに宛てて書かれたものだった。
列聖の審査にあたり神殿は遺品の目録化を求めたが、ヘルガは詩の束の提出を拒み、中身は誰の目にも触れぬまま終わった。目録に残ったのは各篇の題だけである。
最後の一篇の題は──『母上の庭に寄す』。