◆◆◆
ガイネス帝国宰相ジギタリス・イラ・マリシアは油灯の頼りない光の下で吐息を洩らした。硝子窓の外には分厚い雲が垂れ込め帝都の夜景を重苦しく押し潰している。卓上に積み上げられた羊皮紙の束はどれひとつとして朗報を告げていなかった。
皇帝ヴァルフリードの昏睡。
北のエーデルヴァイス、東のシュヴァルツ、南西のグラオスによる三公の反乱。
前線の戦火以上に帝都に留まる貴族連中の漂わせる冷え切った沈黙も頭痛の種だ。
なにせ、誰もが旗幟を鮮明にしないのだから。
兵の供出を求めれば領内の治安維持を口実に渋り、軍費の徴収には先代からの特権を盾にして煙に巻く。使者を送れば恭順の辞を並べ立てるものの、裏で三公の陣営や他派閥と密使を行き交わせているのは明白であった。
愚物どもが、とジギタリスは奥歯を噛み締める。
爪の先で書類の端を弾くと乾いた破裂音が静まり返った部屋に小さく響いた。
そしてその泥沼の頂点に座すべき皇族どもの浅ましさもまた、貴族のそれと何ら変わるところはない。
ガイネス帝国の皇位継承は三百年前に起きた双帝の乱によって長子相続の正統性を永久に失っていた。名目上は皇帝の指名と十二公家の合議という不文律が残るものの、成文化すらされていない空文である。皇帝が倒れ十二公家が決裂した今、残された道はひとつしかない。
より多くの貴族を抱き込み、武力を誇示して反対派を物理的にねじ伏せた者が次の玉座を奪い取る。
極めて原始的な暴力の祭典に過ぎなかった。
第一皇子ルドヴィークは軍権の掌握に躍起となり、前線での強硬策を叫んでは宰相府の頭越しに将官たちを私兵化しようと蠢動している。第一皇女カテリーナは持ち前の愛嬌と文官筋の伝手を総動員して宮廷工作に奔走し、第二皇女アナスタシアは豪商や新興貴族を金の力で結びつけて独自の包囲網を築きつつあった。
国家が滅びの縁にあるというのに、彼らにとって内戦とは帝座を掠め取るための手頃な狩り場に過ぎない。
だがジギタリスの神経の最も敏感な部分に突き刺さっているのは、そうした凡百の野心家たちではなかった。
彼女の指が一枚の報告書の上でぴたりと止まる。
白鷺館。
そこへ通う奇妙な組み合わせの名が記されていた。
第二皇子ヴィクトル。
そしてアステール公爵家嫡男ハイン・セラ・アステール。
ジギタリスの胸中に熱と冷たさが同時に混ざり合った不快な疼きが走る。
あの鍊魔場の観覧席から見下ろした少年の姿が脳裏に焼き付いて離れない。ジギタリスが最も焦がれ、信奉するモノをハインは持っていた。すなわち──
ジギタリスはハインを屈服させたいと思った。同時に、いや、それ以上に屈服したいとも思っていた。この相反する二つの欲望が絡み合い、高め合い、今やジギタリスときたら夜伽の相手にハインに似ている男娼を呼ぶ事までしているほどだ。
ともあれ、アステールを取り込むべくジギタリスは母ヘルガと席を設け、人種序列法の緩和という破格の餌を投げてみせた。だが怜悧な母親は柔らかな笑みの裏に鉄壁の防壁を張り巡らせ、息子のことになると一切の踏み込みを許さなかった。
それなのに。
なぜ、よりにもよってあの
武芸も魔術も政もド三流。大柄な体躯ばかりが無駄に育ち、幼い頃から周囲に頭を下げてばかりいた腑抜け。三公が神輿として勝手に担ぎ上げただけの無害な道化。
そんな男とあの孤高の怪物が二人きりで会食を重ね、詩を交わし親密に文通を交わしている。
ヘルガの指示なのか。ハイン自身の意志なのか。
個人的な感情も無視はできないが、政治力学的にも無視はできない。アステール家がヴィクトルの背後に回ればどうなるか。帯同するサリオン家や、有象無象の亜人系貴族家もこぞってヴィクトルを支持するだろう。アステール公爵家を嫌う貴族家は少なくないが、サリオン公爵家は別だ。大小さまざまな貴族家がサリオン公爵家と繫がっている。当代当主であるフォーレは盾をつかさどる結界術師としては凡庸だが、ジギタリスは決して侮ってはいない。力にも色々な種類があるのだ。彼女が見るところ、フォーレは魔力を編んで結界を練り上げる事はそう得意ではないようだが、人を編んで結界を練り上げる技術には相当に長けている。
いずれにしても、アステール公爵家が、ハインがヴィクトルに対してどのようなスタンスなのかは──
「……直接、確かめるしかないわね」
呟き、冷めきった茶を一口含む。
舌に残る苦みがまるで、自身の苦悩を滓のようで腹立たしかった。
◆◆◆
翌日の午後、宰相府の私的応接室に重々しい足音が近づいてきた。
従僕が扉を押し開き来客の到着を告げる。
「第二皇子、ヴィクトル殿下がお見えになりました」
「お通しして」
ジギタリスは執務机から立ち上がり滑らかな所作で長椅子へと移動した。薄紅色のドレスを優雅に整え、完璧な貴婦人の微笑みを唇に貼り付ける。
どれほど宮廷で軽んじられていようと相手は皇族である。外見上は十全の敬意を払わねばならない。内心では路傍の石ころほどにも敬っていないとしても、である。
扉の向こうからのっそりとした巨躯が現れた。
仕立ての簡素な上着を身に纏い、肩幅ばかりが無駄に広い青年。以前見かけた時と変わらぬ熊のような体格であった。
「お忙しいところ、わざわざご足労いただき光栄に存じますわ、ヴィクトル殿下」
ジギタリスは淑やかに頭を垂れ向かいの席を手で示した。
「どうぞお掛けになってくださいまし。上質な茶葉が手に入りましたの」
「ありがとう、ジギタリス閣下。宰相閣下におかれましても国事多難の折、息災で何よりです」
返ってきた声は拍子抜けするほど穏やかであった。
しかし──。
ジギタリスはヴィクトルの目に、不穏なものを見た。そこに宿っていたのは、かつての愚鈍な青年の瞳ではない。
瞳孔が異様なほどに澄み渡り、世界のありとあらゆる悲惨も悪意も呑み込んだかのような底知れぬ光を湛えている。狂信者。磔刑を前にして天を仰ぐ古代の殉教者。
要するに、完全にキマっていた。
常軌を逸した清澄さが瞳の奥で爛々と輝いている。
ジギタリスの政治的嗅覚が激しい警鐘を鳴らし始めた。怯えもない。野心もない。恐怖も保身も欲情すらも存在しない。あるのはただ、澄み切った無私の狂気だけであった。
「宰相閣下、僕を呼んだ理由はわかりますとも」
ヴィクトルは穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「きっと、閣下も
何が
ジギタリスが応えあぐねていると、ヴィクトルはなおも続けた。
「閣下も、
僕もそうなのです──とヴィクトルは、うふふ、と笑った。