◇
僕には才がない。
剣を握れば兄の背中は霞むほどに遠く、魔術を練ろうとしても指先に灯る小火が限界である。宮廷の指南役たちが僕の稽古日になると揃って体調を崩すのは、彼らにとってそれが最も角の立たない慈悲だからだ。これが卑屈な考えだっていうのは分かる。けれど、僕にはどうしようもないのだ。
勝手口の扉が小さく軋む。珍しく僕を僕として見てくれる侍女だ。
「殿下、今朝も精が出ますね」
そんな事を言いながら、清潔な布を手渡してくれる。
「ありがとう。いつもすまないね」
「余り無理しないでくださいね、ここ最近は連日ずぅっと朝からそうやって剣をふっておられます。休むのも鍛錬のうちと申されるではありませんか」
侍女はそう言って、ぽつりぽつりと市井の噂を僕に教えてくれた。昨日まで銀貨一枚で買えた黒パンが買えなくなったこと。北の関所が閉ざされ薪の配給が滞り始めていること。帝都の衛兵たちの目つきが日ごとに険しくなっていること。
帝都ガイネスフリードは、目に見えぬ病に侵されるように少しずつ様子を変じてきているように思う。三公が兵を挙げ僕の名を旗印に掲げてからというもの、宮殿の空気も殺気立っている。誰もが誰かを疑い、廊下ですれ違う貴族たちの眼差しには値踏みと警戒の色が露骨に混ざるようになった。
僕が何も望んでいないことなど、誰の耳にも届かない。
ただ、そんな息の詰まる日々の狭間にあって白鷺館で過ごす時間だけが僕の命を辛うじて繋ぎ止めていた。
アステール公爵家の嫡男、ハインとの交友である。
最初の会食から半月あまり。ヘルガ様の同席は初めの数度で終わり、今では僕とハインの二人きりで卓を囲むのが当たり前の習いとなっていた。
孤高の麒麟児と恐れられる少年は、僕の前では驚くほど静かで温和であった。十二公家の筆頭という途方もない家柄を鼻にかけることもなく、僕の拙い詩の言葉を一つひとつ丁寧に拾い上げてくれる。
彼と向かい合っている時だけ、僕は自分が無能なウスノロであることを忘れられた。
だが──その平穏の代償であるかのように、僕の夜は地獄へと変わり果てていた。
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僕はここしばらく、眠りに落ちる事を恐れていた。
見るのだ──悪夢を。
瞼を閉じると意識の底から暗い霧が湧き上がってくる。冷気が骨の髄まで染み渡り、見知らぬ荒野だと思った場所は、黒煙に包まれ炎上する帝都の残骸であった。
天を衝く紅蓮の焔。崩落する鐘楼。石畳を覆い尽くす無数の亡骸。耳を塞ぎたくなるような絶叫と、肉の焼ける異臭が鼻腔を暴力的に満たす。倒れた荷車の陰で、あの古株の侍女が握り飯を握りしめたまま息絶えている。路地には手足を失った子供たちが転がり、血溜まりの中で虚ろに空を見上げていた。
足元が凍りつく。声を出しようとしても喉が引き攣れ、悲鳴すら紡げない。
その惨劇の中心に、いつもそいつ──黒い死神は立っていた。
そして僕を責め立てる。
『コレヲ、見タカ』
と。
『コレガ、オマエノ罪ダ』
と。
そして決まって言うのだ。
『オマエニ、覚悟ハアルカ』
と。
連日連夜、僕はその夢を見る。
叫び声を上げて跳ね起きると、自分の寝室の天蓋が視界に飛び込んできた。
寝間着は絞れるほどの寝汗で肌に張り付き、荒い呼気だけが薄暗い部屋に響く。左肩を押さえると、そこだけが真冬の氷のように冷たく強張っていた。
逃げられない。
あの悪夢は毎晩のように僕の魂を責め立てていた。僕が何もしなかったから。僕が逃げ続けているから。その言葉が解けない呪いのように胸の奥へ突き刺さって離れない。
以前ならこの棘は決して消えない疼きとして、僕を苛み続けていただろう。でも今は違う。
◇
「ハイン、少し聞いてほしい話があるんだ」
ある日の茶会で、僕は膝の上に置いた古びた革表紙の書物を撫でながら切り出した。
「何でしょうか、殿下」
ハインは穏やかな眼差しを向けてくれる。その紫紺の瞳はどこまでも澄み、夜ごとの悪夢に濁りきった僕の心を洗うようであった。何て美しい瞳なのだろう。その紫紺の奥に、星の煌めきが瞬いているようにも見える。叶う事ならば何時間でもずっとずっと見ていたい。
「最近、ちょっと古い書物を読んでね。トウホウという異国の詩人が遺した歌に、どうしても心が囚われてしまっているんだ」
「トウホウ、ですか。聞いた事があるような、ないような……その詩人がどうしたのです?」
「うん。彼の国も昔、酷い戦乱に見舞われたらしい。戦に明け暮れて城も都も破壊され尽くし、人が誰もいなくなった廃墟に春が訪れ、草木や花ばかりが無情なほど青々と生い茂ったそうだ」
僕は卓上に書物を開き、紙の上の掠れた文字をなぞった。
「その詩人は歌ったんだ。国が破れて山河が残り、城下が荒れては草木は深くなる。花を見れば涙を流し、鳥の声に心を痛める──と」
言葉を紡ぐうちに胸の奥がきつく締め付けられる。
「悲しい
ハインは口を挟まず、僕の言葉を待ってくれていた。
「だからね、ハイン。僕は思ったんだ。国が荒れ果ててからでは遅いんだよ。街が廃墟になる前に、帝都に花を植えたいんだ」
「手紙を寄こしてくださいましたね。僕も良い案だと思います。僕も能うる限りのことをさせていただきますよ」
「うん、ありがとう……。いまの帝都は戦の熱に浮かされて、誰もが血を流すことばかり考えている。けれど街中が色とりどりの花で埋め尽くされれば、朝起きてパンを買いに行く時に誰かの心がふっと和らぐかもしれない。戦ばかり叫ぶこの国の空気に花を咲かせることで、ほんの少しでも物に申したいんだ。僕のような無能ができる、精一杯の悪あがきなんだよ」
言ってから、僕は恥ずかしくなってうつむいた。
国が割れようとしている時に花を植えるなど、兄や姉なら鼻で笑い飛ばすに違いない。
だがハインは笑わなかった。
「花を慈しむ心は、命を尊ぶ心そのものです。それを悪あがきなどと卑下される必要はありません」
ハインは茶杯を卓に置き、僕を真っ直ぐに見据えた。
「ただ──殿下。平和とは、一体何だと思われますか」
不意の問いかけに、僕は言葉を詰まらせた。
「平和……争いがなく、誰もが穏やかに暮らせる日々のことじゃないのかい?」
「それは殿下のお求めになる平和の形ですね」
ハインの声は冷たくはなかったが、透き通るような刃の鋭さを含んでいた。
「平和の形は人それぞれ異なります。第一皇子ルドヴィーク殿下にとっては圧倒的な武力で敵を平伏させることこそが帝国の安寧でしょう。反乱を起こした三公にとっては己が領土の自治と富を守ることこそが平和です。貴族には特権を維持する平和があり、商人には道が開かれ利が回る平和がある」
胸を強く突かれた。考えたこともない視点であった。
「いま帝国が激しく揺れ血が流れようとしているのは、誰かが純粋な悪だからではありません。各々が信じる平和の形が、殿下のそれとは異なっているからです。誰もが己の平穏を守るために、他者の平穏を踏みにじろうとしている」
「そんな……! じゃあ、どうすればいいんだ? どの平和が、一番正しいんだい?」
問わずにはいられなかった。
夜ごとの悪夢で突きつけられる惨状。僕の不作為が招くという灰燼の都。何が正しく、何を選べばあの破滅を止められるのか、僕には見当もつかない。
縋るような僕の視線を受け止めながら、ハインは静かに言った。
「それは、誰かに教わるものではありません。殿下ご自身が見出すべきものです」
「僕が……?」
「ええ。もし殿下が、花を愛し民草の流す涙を拭う平穏を信じておられるのなら。それを世界へ示す資格を持つべきなのは、殿下ご自身をおいて他にございません」
ハインは立ち上がり、僕の前に進み出ると深々と頭を垂れた。
「私は、殿下のその優しさを尊いものと思っております。花を植えましょう。微力ながら私にお手伝いできることがあれば何なりとお申し付けください。ですが殿下、平和とは、平穏とは訴えかければ叶うものではありません。そんなに生易しいモノではないのです。血を流す……流させる覚悟が必要なのです。殿下とは異なる正義を抱く者たちから悪と罵られる覚悟が必要なのです」
覚悟──ハインの口からもその言葉が出た。覚悟、覚悟……覚悟とは、なんだろう。意味ならわかる。なんとなくだけれど。でも、それはきっと、ハインの言う、あの黒い恐ろしい存在の言う覚悟の意味ではないのだろう。
「殿下がもしこの乱世に平和を為そうというのなら、立ちふさがる者すべてにとっての悪とならねばなりません。なぜならば、それらのものの抱く正義は、殿下にとっての正義ではないからです。平和を愛する殿下にその覚悟があるならばッ──!!」
ハインが声に、僕はおもわず背筋を伸ばして立ち上がってしまった。まだ聡明だったころの父上を思わせる──いや、それ以上の覇気に、僕の心に巣くう暗雲が切り裂かれたかのようだった。
ハインが立ち上がる──これから何が起こるのか、僕には分からない。しかし、目をそらしてはいけない気がする。しばらくそうしていると、ハインが近づいてきて、僕の足元にひれ伏した。
そして、言ったんだ。
「このハイン・セラ・アステールは、殿下の第一の臣として、万難を排する魔剣となりましょう」
と。
◆◆◆
白鷺館を出た時、空は夕暮れに染まり始めていた。
冷たい風が頬を打つ。けれど、いつものような凍える感覚はなかった。まるで心に火が灯ったかのようだった。ぼうぼうと、僕の胸の、心の奥底で炎が燃えていた。
頭の中で、あの悪夢の嗄れ声とハインの澄んだ言葉がひとつに溶け合っていく。
『オマエハ皇子ダ。止メル立場ニイタ』
『殿下ご自身が見出すべきものです』
僕はずっと、無能であることを盾にして逃げていたのだ。
兄妹から馬鹿にされ、役立たずと蔑まれることに安住して責任を放棄していた。その僕の無為があの燃える帝都を生み民草を焼き殺す。だとするばらば、何も成さないことは惨劇を許容することと同義なのだ。
僕にだって守りたいものがある。
朝のパンの匂い。侍女の笑顔。そして、民草が安心して花を愛でられる穏やかな日々。
ルドヴィーク兄上には渡せない。あの人はより大きい力を得るために戦おうとしている。三公にも渡せない。本心から平和を希求しているならば、最初に使うべき武器は口であるはずだ。彼らはいきなり剣を持ち出した。つまり、彼らは剣を使いたがっていると言う事だ。平和とはまるで真逆の思想である。姉上たちもダメだ。彼女らは自身の利のみを考えている。
なら僕がやらなければなるまい。
ハインが背中を押してくれた。あの高潔な友が、僕の信じる平穏を尊いと言ってくれたのだ。
胸の奥で何かが静かに音を立てて砕け散った。
怯えが消えていく。卑屈さが剥がれ落ちていく。
嗚呼、僕は悟りを覚えたのだろう。
この世界に平和を齎すため、僕は変わらねばなるまい。
力のためではなく、利のためでもなく、ただただ平和のために戦わねばなるまい。
そう、例え血を分けた兄を排しても、姉を排しても、だ。
僕は目覚めた。
そして氣づいた──己の役割に。
僕は悪となり、魔となり、王となる。